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これは恋なんだけど  作者: 空谷陸夢
Story 29. 始まりのライン
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「研究はしたいのにそれが認められなくて、万里とのことも考えないとって思うと、いっぱいいっぱいになって、ぼーっとするのに拍車が掛かって。運命ってそんなものかとか、馬鹿らしいことも考えたけど、それだけで納得することもできなくて、がむしゃらにやり続けた」



一昨年の自分を思い出し、苦笑する。本当に、『運命なのか』と馬鹿みたいなことを考えていた。それが何がきっかけだったのか、まだ自分でやれると思い直すことができた。そう思ったのは、どこかの街中だったと思う。顔も知らない誰かの言葉に、妙に励まされた。それがあったから、研究が評価されて、今は他大学から誘いが来るほどになった。



「やっと評価されたと思ったら、もっと先が欲しくなったんだ。それがあっても、子供はどうとでもなると思うけど、自然でもいいと思ってる俺とどうしてもと思ってる万里とじゃ、どうしたって溝ができる。俺は、子供がいなくても、ゆっくり、お互いのペースを大事にしてやっていきたいんだ。俺と万里に足りないのは、それだよ」



万里子の目が、微かに揺れた。涙を堪えているようにも見える。



「仕事、やってるんだろ?」



尋ねれば、揺れる万里子の目が大きくなる。それに笑みを返し、「お義母さんに聞いたよ」と続けた。万里子は納得したように数回頷いて、「うん」と小さく答えてくれた。



「友達に、手伝ってって言われて」

「そっか。どう?」

「大変だけど、楽しいよ」

「そうか」



そこで会話が途切れて、二人ともが視線をテーブルに落とす。



「今日は、帰るよ。明日も、来ない。今言ったことが全部だ。万里との今までの生活を否定するんじゃなくて、これからの生活が見えないんだ。……万里の気持ちが決まったら、連絡してほしい」



鞄を手に、席を立つ。万里子は何も言わない。俺と万里子の分のお金をテーブルに置き、コートを羽織って店を出た。




電話が来たのは、その日の夜だった。



「もしもし」

『……マサくん?』



確かめるような万里子の口調に「そうだよ」と返す。読んでいた本をテーブルに置き、テレビの音量を小さくした。



『月曜日の朝、時間ある?』

「うん。午前なら、大丈夫だよ」

『じゃあ、市役所に、来てほしいの』

「分かった」

『それじゃあ、月曜日ね』

「ああ。月曜日に」



携帯を切って、深い溜め息をついた。話し合いが、終わった。





***




「マサくん」



月曜日の朝、先に着いていたのは俺だった。万里子は五分ほど遅れて、小走りでやってきた。



「おはよう」

「おはよう」



挨拶を交わして、中に入ろうとすると、万里子に腕を引かれた。



「少し、いい?」

「ああ。俺も、話したいことがあるから」



万里子が指差す先にはベンチがあって、朝だからか、周りに誰もいない。それに頷いて、二人並んでベンチに座る。話し始めたのは、万里子からだった。



「マサくんが言ってたこと、今は何となく分かるの」

「俺が言ったこと?」



何のことか尋ねると、万里子は小さく笑った。



「何かの評価が欲しいっていうの。私も仕事して、もっとお客さんに来てほしいとか、ここをこうしたらいいのにとか、色々なこと思うから」

「そうか。それなら、働いていいよって言えばよかったな」



言い足りなかったのは自分かと思った時に、万里子が首を横に振った。



「たぶん、前にマサくんに言われてたとしても、しないって言ってたと思う。家にいた時は、マサくんが中心だったから。マサくんと一緒に良い家族になろうって思ってて、だから子供も欲しくて、勉強ばっかりしてるマサくんに苛々してた」



この間とは逆で、万里子が話して、俺はそれを黙って聞いている。



「でも、やってることが誰にも評価されないのって、苦しいんだね」



この言葉に顔を上げて万里子を見ると、万里子と目が合って、微笑まれた。



「私はそれを口に出したから友達がそれに気付いてくれたけど、マサくんがそんな風だったなんて、私は気付けなかった」



目が合っていた万里子が、少し拗ねたような顔をする。



「なんで言ってくれなかったの?」



その言葉に苦笑が漏れて、「なんでかな」とだけ返しておく。確かに、万里子のように、口に出せば気付いてもらえていたのかもしれない。そうしていれば、今のような状況にはなっていないのかもしれない。



「エゴ、だったのかも」

「エゴ?」

「うん。言わなくても気付けよっていう」

「そんなの無理だよ。言わないと、分かんないでしょ」



わざと怒ったような口調で言われて、「そうだな」と苦笑しか返せない。

目の前を通り過ぎていく人は少なくて、今の会話を聞かれている様子もない。



「結婚してたって、分かり合ってるわけじゃないよ。マサくんが離婚したいって言った時も、溝があるって言われた時も、最初は分かんなかった。だって、私はそんなこと思ったこともなかったんだもん」

「うん」

「仕事始めて、何となくマサくんの言ってたことが分かって、一昨日言われたことで、そうなんだって初めて知ったこともあったの」

「ごめん。もっと早く言ってればよかったな」

「……許してあげるけど、これで両方ともが悪かったってことだからね?」



首を傾げて言われて、ようやく苦笑いではない笑みを浮かべることができた。



「うん。俺も、万里も、両方が問題だった」

「よかった。それで? マサくんの話って?」



笑ったまま、万里子が首を傾げた。少しだけ、罪悪感が頭をもたげてくる。きっと、これは、俺のエゴだ。そして、きっと、万里子も彼女も傷付ける。



「うん、」



笑っている万里子に笑みを返して、口火を切った。



「確かに、離婚のことはずっと考えてた。でも、それ以外にも、理由はあるんだ」

「?」

「もし、腹が立ったなら、そう言ってくれて構わないから」



前置きをして、一息ついた。俺の言い方で何かを察したのか、万里子も真剣な顔をして聞いている。



「他に、惹かれてる人がいる」



万里子に形容のしがたい表情が浮かぶ。

昨日から、考えていた。このまま、彼女のことを話さないままでいいのかと。彼女のことが原因ではないと、今でも思っている。だけど、それに納得しない人間だっているのだ。そうやって考えたのは、皮肉にも、春日が介入してきてからだ。



「……いつから?」

「惹かれ始めたのは、いつからか分からない。ただ、彼女のおかげで自分と、自分の先を見つめ直すことができた。今さらこんなこと言って、本当に悪いと思ってる」



先ほどまでの明るい声とは違い、万里子の静かな声が余計に耳に届いた。罵倒されることも覚悟したが、万里子から返ってきたのは「そっか」という一言だった。その意味を問うようにして万里子を見る。万里子はすべてを知っていたというような顔をしていた。



「何となく、分かってたの。そうなんじゃないかなって」

「そう、だな。ずっと、言ってたし」

「そうじゃなくて、」



離婚話の初期を思い出して言ったのが皮肉と聞こえたのか、万里子は苦笑しながら首を振った。



「冷静に考えても、そうかなって。だって、マサくんって思っててもそれを行動に移すことってあんまりないでしょ? そんなマサくんが『離婚しよう』って言い出すくらいだから、きっと、私より良いと思える人がいるんだろうなって」

「そう、か?」

「そうだよ。伊達にマサくんの妻やってないよ、私」



自慢するように言われて、苦笑するしかなかった。



「それに、お母さんがずっと言うんだもん。私にはもっと良い人がいるって。お母さん、知ってるんでしょ? マサくんのこと」



穏やかに問われ、俺は頷いた。万里子はまた前を向いて、「そっか」と全てを悟ったように言った。自分を納得させるような言い方だった。少しずつ、人通りが増えてきた。



「よしっ」



万里子がさっと立ち上がって、こっちを見下ろした。



「さ、行こ?」



万里子の言葉に頷き、二人並んで市役所へと入る。

両方の名前と保証人の名前が書いてある届を提出して、それはいともあっさりと、役員によって受理された。これで、離婚が成立したのだ。

市役所を出たところで、万里子ともう一度向き合う。



「マサくん、ありがとう」

「お礼は俺が言いたい。ありがとう、万里子」

「できたら連絡取り合うような元夫婦になりたいけど、今は、ごめん。できないや。少し、時間がほしい」

「うん。分かってる」



今まで悲しみの表情は見せなかった万里子だが、市役所を出て初めて、泣きそうな顔になった。俺は万里子の前にただ立つことしかできない。



「じゃあね」

「ああ」



泣きそうな万里子に最後の挨拶をして、二人別々の方向へと歩を進めた。


すべてが片付き、ようやく彼女と向き合えると思った。彼女に向けられる負の感情からも、守ることができると。他の誰でもない、俺がそうできると思った。だけど、現実はそんな簡単にはいかない。



『俺、宮瀬が好きなんです』



離婚が成立したの日の夜、古賀という彼から掛かってきた電話で言われたことだ。

予想はしていた。彼女と初めて会った時から、彼女の『相談相手』が他のどの友達よりも彼女に近い位置にいることは感じていたし、彼に初めて会ったの時にそう確信したのを覚えている。自分よりも彼に安心した彼女を見て、嫉妬染みた感情を持った自分のことも。

それなのに、彼からその言葉を聞かされて、頭を何かで殴られたような衝撃を受けたことは確かだ。



『宮瀬が永井さんのことを好きなのは分かってます。でも、もう、無理でした。好きなのに好きじゃない振りして、他人と付き合って、苦しくなるのは嫌です。言いたい言葉を飲み込んで、ただそばにいることなんて、もうできません。すみませんでした』



いつもの夜を過ごしていたはずなのに、彼の言葉がそのいつもの夜をまったく違うものにさせていた。



『俺が宮瀬を混乱させないでほしいって言ったくせに、今は俺が宮瀬を混乱させてます。もしかしたら、永井さんとも会いづらいと思ってるかもしれません。言わなきゃ気付かれなかったのにって少しだけ思ったけど、今はそんなこともないです。宮瀬が混乱してる分、俺が楽になってます』



勝手だけど、と笑いながら、彼は続けた。



「そっか」

『むかつきます?』

「正直、そこまで追いついてないよ。俺も、やっと落ち着いたところだから」

『え?』

「離婚が、成立したんだ。今日、届を出してきた」

『ああ……、そういうことか。そういえば、犬居のことはもう大丈夫ですよ。あいつも色々あったらしくて、単に八つ当たりみたいになってただけなんで。言いたいことあったら伝えときます。ぼろくそに言っても大丈夫ですよ』



あっさりとそう告げる彼におかしくてなって、思わず笑ってしまう。電話の向こうで、彼も笑っていた。



『とりあえず、報告です』

「いらない報告だったけどね」

『知らなくて宮瀬と気まずくなるよりマシでしょ?』

「確かに」



彼の言葉にまた笑って、それを最後に電話を切った。切ってから、無意識に溜め息をついていた。






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