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何も知らないくせに、分かったように、そしてわざとらしく語尾を伸ばす春日に苛々する。だけど、春日の言ったことは俺が考えていることの一つでもあった。誘いがあったことを話せば、俺が行くか行かないか決めてなかったとしても、彼女は笑って「頑張って」と返すだろう。『寂しい』とかそういう感情を、見事なまでに隠して。俺が研究を望んでいたことを、彼女はよく知っている。
その反対に、今の俺は研究よりも彼女を望んでいることを、彼女は知らないかもしれない。まったく行きたくないと言えば、嘘になる。もちろん、研究は続けたい。誘いがあったことは嬉しい。向こうの大学では、ここより学べることは多いかもしれない。だけど、彼女と離れてまでしたいことかと言われれば、それには首を傾げてしまう。
自分がどうしたいのか分からず、彼女に話すこともできないまま離婚の話し合いを進めて、大学に関する質問を送っていたりしていた。
「悩んでるねえ」
パソコンの画面を見ながら考えていると、ソファの方からおかしそうに喉で笑う春日の声が聞こえた。一睨みすると、春日は満足そうにソファから離れてドアの方へと歩き出す。
「ま、せいぜい悩めよ」
その言葉を最後に、春日は研究室を出ていった。
大きく溜め息をついて、椅子に深く腰掛ける。俺の反応は、春日を満足させるものだったらしい。突かれたくないところを遠慮なしに突かれ、疲労が倍増した気分だ。ほとんど無意識に、デスクの引き出しの前の床に置かれた鞄から携帯を取り出す。何の履歴も残っていないのを見て、また溜め息が出た。
話し合いが終わるまで、会わないと言ったのは自分だ。彼女に言ってはいないが、その間は連絡もしないでおこうと決めていた。一度連絡を取ってしまえば、また甘えが出て、やるべきことを疎かにしてしまいそうだった。それなのに、今ほど彼女の声が聞きたいと思うことはない。彼女の声を聞いてしまえば、何もかも後回しにしてしまうと分かっているのに、会いたくなる。そうして、なし崩しに本来やるべきことを放り出してしまう。今までのように。
本当なら、離婚話をする時はいつでもあった。それをなあなあにしてきたのは、自分に責任がある。だから、今回こそは何が何でも終わらせなければならない。紙一枚で繋がっている関係なんて、あってないようなものだ。
そう頭では理解しているのに、性懲りもなく履歴の確認をしている自分が馬鹿らしくなって、自嘲が漏れた。
***
その日の午後9時過ぎ、家でくつろいでいると、いきなり玄関の呼び鈴がなった。オートロックの知らせがならなかったということは、誰かが住居人の出入りに便乗して中に入ってきたのだろう。何かの勧誘かと思うも、一応は玄関のドアを開けて、来た人物を確認して、目が点になった。
「よ!」
「さっきぶり」
いつものように元気な村瀬と、村瀬とは反対にさっぱりとした様子の春日が、玄関に立っていた。
「何しに来たんだ」
村瀬が来る時は大抵前もって連絡があるし、春日に至っては家を行き来するような仲ではない。だから余計に、この来訪に戸惑う。
「ちょうどヒマだったからさ、遊びにきた。元気ないんじゃないかとも思ったし」
けろっと言ってのけた村瀬は、俺に尋ねるまでもなく「お邪魔しまーす」と靴を脱いで中に入っていく。それに便乗する形で、春日も中に入っていった。
「ちゃんと飲みもんは買ってきたから」
リビングの方から聞こえる村瀬の声に呆れながら玄関のドアを閉めた。
リビングに戻れば、俺がさっきまで読んでいた資料はテーブルの隅に追いやられていて、村瀬がキッチンから勝手にグラスと皿を持ってきていた。ラグの上に座っていた春日が村瀬から皿を受け取り、買ってきていた食べ物を雑にその中に入れる。村瀬は春日とは直角になる位置に腰を下ろし、持ってきたグラスにビールを注いだ。
「座ったら?」
食べ物を入れた皿をテーブルの中央に置きながら、未だ廊下へと続くドアの前で立ちつくしている俺を振り返って、春日がテレビの真正面にあるソファを顎で指して言った。部屋の主よりもそれらしい行動をする二人に呆れながらも、春日と村瀬の後ろを通って、いつも座っているソファに腰を下ろす。「ん」と、村瀬がビールの入ったグラスを渡してきた。
「で、何しに来たんだ?」
三人一緒になって一杯目のグラスを傾け終えたところで、質問を繰り返した。
「だからさー、心配して来てやってんだろーが」
グラスを置いて皿の食べ物を手に取りながら、春日が答えた。村瀬は村瀬で、ビールを飲みながら頷いている。
「お前に心配される覚えなんてない」
「何言っちゃってんだよ。研究室でびびってたくせに。どーせ、離婚も進まなくて苛々してんだろ」
「だとしても、お前には関係ないだろ」
「あ、そう。んじゃあ、マジであの子誘ってもいいんだ。俺、関係ない人間だし? お前のごたごたなんて知らないし?」
「ふざけるな」
「あー、もう、止めろよ。いい年して」
俺と春日の間に座っていた村瀬が、元の原因が自分であることも忘れて、片手で制してくる。睨みつける俺の向こうで、春日が涼しい顔でビールを飲んだ。
「けどさ、実際、まじで大丈夫なのか?」
「なにが?」
片手を下ろして、村瀬がこちらを振り返って聞いてきた。グラスを傾けながら、その先を促す。
「進んでんの? 話し合い」
『話し合い』という言葉を聞いて、昨日、一昨日のことを思い出し、軽く眉間にしわが寄った。それを読み取った村瀬が苦笑いする。
「進んでないんじゃん。どんな感じ?」
村瀬の問いに一つ溜め息をついて、傾けていたグラスを下ろす。
「『したくない』の一点張りだよ。もう無理だって言っても、『無理じゃない』としか言わない。どうしてそう言い切れるのかって聞いても、『そう思うから』って」
「まあ、万里ちゃんらしいといえば、万里ちゃんらしいな」
村瀬が苦笑いのまま返してくる。
「いっそのこと、別の女がいるからって言えばー?」
テレビのリモコンをいじって次々とチャンネルを変えながら、春日が軽い口調で言った。村瀬が苦笑いのまま後ろを振り向き、俺は眉間にしわを寄せて春日に視線を向ける。
「一番手っ取り早いんじゃねーの。それが」
二人分の視線を浴びても、春日はそれを気にすることなくリモコンをいじっている。
「だいたいさー、別の女と寝ときながら、離婚とその女とは何の関係もないって言われても信じられるわけないって話だろ」
春日の言葉に、厳しい視線を春日から斜め下にいる村瀬へと移す。それに気付いたらしい村瀬が「げっ」と顔を引きつらせた。
ついこの間まで俺の近況なんか何も知らなかった春日が、離婚のことも含め彼女のことを知っているのは、確実に村瀬からの入れ知恵だろう。
村瀬が慌てたように首を横に振っているのが、何よりの証拠だ。
「ちがっ。俺から言ったわけじゃない!」
「お前からじゃなくても、話したんだな」
「え? あ、いや、まあ、うん、そうとも言うね」
自分から墓穴を掘った村瀬が口元を引きつらせる。その様子を見た春日が「だっせー」と鼻で笑う。お前も同罪だと言おうとしたところで、リモコンをいじっていた春日が「あ?」と声を上げた。あからさまに助かったという表情で村瀬がテレビの方を向き、俺もつられるようにしてテレビに視線を送る。春日が映し出しているのはHDDの録画リストだった。
「お前、こんなん見んの?」
春日がカーソル合わせているのは、二週間前だったかに彼女が来ていた時に録画していた洋画だった。ハリウッド俳優のレムス・ウェインが前に主演していたものだ。彼女は彼が好きらしく、衛星放送でやっていたそれを見て、すぐに録画してもいいか尋ねてきた。俺は見たことがないものだったし、今度の週末に彼女とそれを見てもいいかと思い、もちろんと頷いたのを覚えている。