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これは恋なんだけど  作者: 空谷陸夢
Story 29. 始まりのライン
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「よう」

「……何で、お前がここにいる」



今日のすべての授業を終えて研究室に戻ってくると、ここにいるはずのない人間がいて、しかも堂々と俺の椅子に座っていた。院生たちは、既に帰っているようだ。

眉間にしわを寄せた俺に気にすることなく、椅子に座っている男は俺のデスクを物色している。しかめ面のまま、研究室のドアを乱暴に閉めた。好んでは会わない人間に待ち伏せされた上、昨日までの疲れが残っているこの状況で、適当に受け流す余裕なんてない。

ドアの閉まる音に、椅子に座る人間がようやく顔を上げた。



「なに。いらついてんの?」

「どけ」



分かっているくせに、わざと質問をしてくるのがこの男だ。大学時代から変わらない、あの薄い笑みを浮かべて、人の神経を逆撫でしようとする。

男の質問には答えず、デスクまでの短い距離を歩きながら、その場からどくように言う。意外にも、男はすんなりと椅子から立ち上がり、俺にその場を譲った。男の着ている白衣が、ひらっとその後を追う。持っていた授業用のレジュメと出席代わりのミニレポートをデスクの上に放り、空いた椅子に座ってもたれかかる。男は立ち上がったものの、研究室から出ていこうとはせず、デスクから程近い場所にあるソファの背もたれに浅く腰を掛けてこちらを見ていた。



「何の用だ。春日」



出ていく気配のない男――春日樹に話を振れば、春日はまたあの薄い笑いを口元に浮かべた。



「べつに。暇だったから、遊びにきてみただけ」

「俺は暇じゃないし、お前と話す気分でもない」



春日が、口の端を上げて笑う。その意味を読み取って、また眉間にしわが寄る。

大学時代から、こいつのこの笑いは変わらない。人を怒らせようとする時、決まって、春日はこんな笑みを見せる。そして、その対象が、ほとんどの場合で俺だった。

大学で春日と知り合ったのは、サークルだった。部活まではいかないにしろ、そこそこ真面目に取り組んでる演劇サークル。ほとんどのメンバーが、俺と村瀬のように、文系学部の学生だった。その中で少数派の理系学部の学生の中に、春日がいた。

俺と春日は、とにかく馬が合わない。理由なんて、とっくに忘れた。理由が存在したかさえも、定かじゃない。



『お前らが揃うと、周りが凍る』



大学時に、村瀬に言われたことだ。何もないようにしていても、その何もないことが、俺と春日の場合は怖いと感じられていたという。要は、怒鳴り合っていてくれた方が、よっぽど安心できたと。

わざとらしく人を怒らせる発言をする春日に、逆撫でするように平然と言葉を返す。それが、俺と春日だった。

大学時代で終わると思っていたその関係が、何の因果か、今もなお続いていた。お互い、同じ大学の准教授として。



「なんだ」



人を馬鹿にすることを隠そうともしない笑みでこっちを見続ける春日に耐えかねて、先を促してやる。春日が、笑みを深めた。おもむろに、片手を白衣のポケットに入れる。



「春希ちゃんとやらとは、順調か?」



額に持っていこうとしていた手が、止まる。上げかけていた手を椅子の肘かけに戻して、ソファの背もたれに腰掛けている春日を見やった。何かを企んでいるその顔には、あの薄い笑みが張り付いている。自分でも、目を細めたのが分かった。



「ああ。会ってないんだったか。今は。誰かさんの離婚話があるせいで、会えなくてさみしそうだったな」



不機嫌になる俺を楽しむかのように、春日は言葉を続ける。



「村瀬も単純だな。俺がお前のことなんか知るわけないのに、あの子のこと見たって言っただけで、名前漏らしたぞ」



神経を逆なでるように、まだ口に出していない疑問に答える春日。答えを聞いて、どうしてこいつが彼女の名前を知ってるかを理解し、頭を抱えるようにして溜め息をついた。

確かに、先週だったか、春日はこの研究室の前で彼女と会ったようだった。俺が、万里子と言い争いをしていたときだ。迂闊にも資料を家に忘れてきて、彼女にここまで持ってきてもらったのが間違いだったのかもしれない。研究室の中での会話を聞かれて、彼女の代わりにこいつが資料を持ってきて、彼女を見られたことに気が付いた。それでも、まだ名前までは知られていなかったのだ。それを、今は知られている。そして、こいつの口ぶりからして、彼女と最近会ったことが窺えた。



「年のことは置いといて、嫌いじゃないけどな。ああいう子」

「ふざけるな」



依然として、楽しそうに口の端を上げて笑い、春日が続けた。最後の言葉に黙っていられるわけもなく、低い声で口を挟む。それを聞いた途端、春日が予想通りににやにやと笑みを浮かべる。春日の思惑通りだとしても、知ったことではない。他の誰でもない、こいつが彼女に近付くということだけは、許容できなかった。



「ふざけてんのはお前だと思うけどね。不倫よりも、俺と付き合った方がよっぽどマシ」



ソファの背もたれに寄りかかるこの男が、ふざけて物を言っているのは十分に分かっている。それでも、彼女のことになると、それにもいちいち苛立ってしまう。存分な反論が出来ないのも、自分のせいだと分かっているから余計に。

斜め向かいにいる男は、俺の反応を楽しむかのように口元に薄い笑みを浮かべている。



「何かいろいろ大変そうだったからなあ。今なら乗り換えてくれるかもな」



『いろいろ大変そう』の意味は、何となく想像できた。自惚れでなければ、彼女の『大変』なことの中に俺のことが入っているだろうし、他は古賀という彼の友達のことだろう。それをなぜ春日が知っているのかは分からないが。



「言いたいことはそれだけか」



疑問に思うことはいくつかあるが、それを聞くことすらも面倒で、話を収束に向かわせる。



「あれ。奪ってもいいわけ?」

「本気でその気なわけでもないだろうに」

「わかんねーよ?」

「その気だったとしても、お前には渡さない。第一、お前は彼女の好みじゃない」



春日から目を離して、デスクの上に置きっぱなしになっているレジュメをデスクの一番下の引き出しに仕舞う。

こいつのことだ。彼女が欲しいなんて言葉も、どうせ俺絡みだろう。目の前に立つこいつよりも、古賀という彼の方がよっぽど脅威だ。俺との関係が原因で、彼女が直接関係のない人間に責められているのに、俺は俺の立場のせいで何もできないでいる。いつかはちゃんとできると高を括っていたつけが回ってきて、決してベストとはいえないこの時期に話し合いを進めている自分に余計に腹が立つ。



「なんだよ。分かり合ってるってか?」



本当に何がしたいのか、春日は未だソファの背もたれに腰を掛けていて、こっちをにやにやとした笑みで見ていた。椅子に深く座って、背もたれに背中を預けてそっちを見る。春日のにやにやとした笑みが止まって、代わりに初めに見せたあの薄笑いが浮かんだ。



「だから、離ればなれになっても大丈夫だと思ってるわけだ」

「何の話だ」

「『Mr.永井の研究を当大学でも生かしていただきたいと考えております』」



春日の言葉に、返す言葉を失う。訳知り顔の春日を無視し、デスクに置きっぱなしになっているノートパソコンを開いてスリープ状態から起動状態にさせる。映し出されたホーム画面の中からメールサーバーのアイコンをクリックし、さっと受信箱に目を走らせた。



「……見たのか」

「待ってる間暇だったからな。遊んでたらメール来たし。にしても、スカウトか」



さらっと言ってのける春日に厳しい視線を送るも、当の本人はまったく気にしていない。表情を崩しもしない春日。溜め息をついて、今は既読になっていて、まだ読んでいないメールをクリックした。そのメールは簡単な挨拶から始まっていて、先ほど春日が読んだ文章とともに俺の質問に対する答えも含んでいた。

このメールの送信者は、夏季休暇時に短期研究員として在籍していたヨーロッパの大学で、一番最初に送られてきたメールの内容は、こちらで働かないかというものだった。既に、同じ内容のものを三神教授にも送っているという。教授は、俺に判断を任せてくれた。行く行かないはまだ決めてないにしろ、メールのやり取りは既に何度か交わしている。そして、このことは、彼女にはまだ話していない。



「偉そうなこと言ったわりには、まだ話してなさそうだな」

「行くかどうかはまだ決めてない」

「だろーなあ。あの子に話したら、『頑張ってね』とか言いそうだしなあ」






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