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「よ」
次の日の月曜日、大学内のいつものカフェテリアに行けば、当然のように犬居と松木がそこにいた。松木が俺を見て、軽く驚いている。犬居は俺のことを一瞥しただけで、特に気に留めないで昼ご飯であろうラーメンに箸を伸ばしていた。
「あれ。お前3時間目からだろ?」
「暇だったから早めに来た」
松木の質問に答えながら、さっき買ってきたオムライスのトレイをテーブルに乗せ、空いている椅子に座る。自分の分のラーメンがあるにも関わらず、松木は俺のオムライスを「旨そう」だと眺める。「やらねーよ」と先に牽制しておき、スプーンを手に取った。
手に持ったスプーンでオムライスを食べようとして、ふと考え、その動きを止めた。ラーメンを食べ始めた松木はそれに気がつかなかったが、向かいに座る犬居はそれに気が付いたようで、視線をこっちに上げてくる。
「俺、別れた」
犬居が、ぎょっとする。
その反対に、松木は今の言葉が聞こえなかったようで、呑気に「何だって?」と聞き返してくる。
「昨日、美香ちゃんと別れた」
「ふーん。……て、え?」
数秒遅れて、松木が反応する。啜りかけのラーメンを口にしたままこっちを向いた松木に顔をしかめる。
「きたねーな。ちゃんと食べてからこっち向け」
何かをもぐもぐ言いながら松木が頷いて、急いで食べ掛けのラーメンを口に入れる。噛んでるのか噛んでないのかくらいの早さでそれを飲み込み、もう一度がばっとこっちを向いた。
「別れた?!」
「声がでかい」
松木の声の大きさに、もう一度顔をしかめる。ちらっと周りを窺えば、数人だが、近くに座っていた奴らがこちらを見ていた。顔を戻しながら小さく溜め息をつき、円状であるテーブルの向かいに座る松木と犬居を見やる。松木は信じられないという顔で、馬鹿みたいに口を開けているし、犬居も犬居でぽかんと口を開けている。
「いつ? なんで? どうして?」
「だから、昨日だって」
「なんで?」
「いろいろ、あったから」
「いろいろって?」
「無理だったんだよ。美香ちゃんとこれ以上付き合うのは」
「だから、なんで」
テーブルに身体が乗りださんばかりに質問をかぶせてくる松木。突っ込まれるとは思っていたけど、これほどまでの勢いとは思ってなくて、最後の方には少し面倒くささすら感じる。
「無理だったんだって」
オムライスをスプーンですくって、それを口に含みながら答える。これ以上答える気がないと分かったのか、不満そうな顔をしながらも、松木は質問を繰り返すことを止めた。「まじかよー」なんて、他人事なのに沈んだ声を出してラーメンを啜っている。オムライスをもう一口すくおうとして、今度は犬居から視線を感じた。スプーンにオムライスを乗せたまま視線を上げると、少し戸惑ったような目をしている犬居を目が合う。俺と目が合った犬居は、先週のようなきつい視線を送ることもなく、戸惑いつつも理由を問い掛けるような視線を送ってきた。それには肩をすくめて返すだけにして、オムライスを口に運ぶことにする。それでも犬居に見られているような気がしていたが、少ししてから犬居の方からも
ラーメンを啜る音が聞こえてきて、俺たちはいつも通りの昼休みを過ごしていた。
「こんなところにいた!」
俺のオムライスがあと半分というところで、誰かが俺たちに向かって声を掛けてきた。顔を上げれば、俺の知らない男子が。
「あれ? 何してんの、お前」
その男子に声を掛けたのは、松木だった。松木の言葉を聞いて、男子が心底呆れたという顔をする。
「サークルのミーティング、今日だって前から言ってんだろ!」
「あ! 忘れてた!」
「忘れてた、じゃねえよ。早くしろ!」
男は、どうやら松木と同じサークルの人らしかった。男から発破をかけられた松木は、大急ぎでラーメンを平らげ、「悪い!」と言いながら席を立つ。呼びにきた男の横を歩きつつ、男から説教されている。
「どこ行っても、あいつはああなのか」
俺と同じように、松木の後ろ姿を見ていた犬居が、憐れみを含んだ声でそう言った。その声に視線を前に戻せば、同時に戻していた犬居と目が合う。二人して、今の言葉に笑った。
久しぶりの感覚に、何となくほっとする。
「どうすんの。これ」
視線をテーブルの上に置きっぱなしになっているラーメンとトレイに目を向けて言えば、犬居が「さあ?」と面倒くさそうに言った。
あの調子じゃあ、松木が昼休み中に戻ってくることはないだろう。ということは、必然的に俺か犬居があいつの分を片付けなくちゃならない。
「面倒くせーな」
犬居の後を追うように言うと、犬居はよろしくと手を上げる。にやにやと笑っている犬居に、しょうがないと小さな溜め息をつく。
「なんか、悪かった」
松木の後処理方法が片付いてから、犬居がぽつりと口を開いた。進めようとしていたスプーンを止めて、犬居に視線を向ける。犬居は箸を持ったままでいたが、それを進めることはなく、伏し目がちに俺を見ていた。謝罪の意味を視線だけで尋ねれば、犬居は一瞬俺から目を逸らして、もう一度俺を見る。
「美香ちゃんとのこと、俺のせいかなって思って」
犬居の言葉を聞いて、一瞬だけきょとんとなる。それから、自嘲するように小さく笑みが漏れ、首を横に振った。
「『せい』っていうよりも、『おかげ』って言った方がいいな」
今度は、犬居がその先を尋ねるようにして、視線を送ってきた。
「ずっと見てたのは美香ちゃんじゃないのに、ずっとそれに気付かない振りしてた。気付きたくないって思って、知らない振りして、美香ちゃんと付き合ってた。でも、昨日、やっとはっきりした。宮瀬のことしか見てないのに、美香ちゃんとは付き合えないって、やっと分かったよ。お前の言ってた意味も、ようやく分かった」
それを聞いた犬居は、「そうか」と言って、視線を下に向けてしまった。
「先輩に、聞いたんだってな」
「ん? ああ。お前と松木がいない時に会って、偶然な」
犬居の視線は戻ったものの、何かを思い出すようにして、俺から視線を外した。
「先輩から、古賀に会って話したんだって言われて、『ほとんど知り合いでもないのに、愚痴聞いてくれて、優しいね』って言われて。何かいらってして、名前言わずにお前とか宮瀬ちゃんのこと喋っちゃってさ。そしたら、先輩に、怒られた」
「怒られた?」
「ああ。自分のために雄大さんとかに腹を立てるのは嬉しいけど、それを関係のない人にまで向けちゃダメだって」
何となく、犬居が本物の犬のようにしゅんとしているように見えて、思わず吹き出してしまった。外していた視線を俺に戻して、犬居がむっと眉間いしわを寄せる。
「何笑ってんだよ。人が真剣に謝ってんのに」
「だって、お前、犬みたいなんだもん」
「なんだもん、じゃねー。もう謝ってやんねー」
不貞腐れたように、犬居がむすっとする。それにも笑ってしまって、犬居は止めろという視線を送ってくるが、まったく効果がない。最後には、勝手にしろと溜め息をつかれてしまった。
ついこの間まで、きつい視線でしか俺を見なかった犬居が、今はいつもと同じようになっている。それは、言葉以上に犬居の感情を表していて、それだけで俺と犬居は元に戻ることができた。
「……宮瀬ちゃんにも、謝っといてくれ」
ひとしきり笑ってから、その笑いを引っ込めた俺に、犬居がぼそりと付け足した。その顔には、気まずさやら申し訳なさやらが入り混じっている。それに笑みを漏らしつつ、この間のことを思い出して、「できたらな」と曖昧な言葉を返した。不思議そうにこっちを見る犬居に苦笑を返し、オムライスと一緒に持ってきた水を一口飲む。