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『え、犬居に会ったんですか?』
『ああ、彼、犬居っていうんだ。うん、偶然だけどね』
『あいつ、何か言いましたか?』
『いや、特に何も言われなかったけど、何か言いたそうではあったね』
『……すみません』
『古賀くんが謝ることないよ。それより、少し頼みがあるんだ』
『なんですか?』
『彼女を、春希のことを、注意して見ててほしいんだ。これから、本腰入れて進めようと思うから、しばらくはまともに会えないから』
『ああ。……分かりました』
『ありがとう。……本当は、あんまり古賀くんに頼みたくないんだけどね』
そう言った永井さんは、俺の行動を予想してたんだろうか。
あの時抱きしめた宮瀬の身体は、思っていたよりも小さく感じられて、抱きしめる腕を強くすれば、その身体は身をすくませるように固まった。泣けばいいのに、それを隠して笑う宮瀬にどうしようもない気持ちになって、気が付けばその身体を抱きしめていた。
『つらいなら、つらいって言えよ。一人でなんか、泣くな』
抱きしめていたのはどれくらいだったのか、震える俺の声に宮瀬は気付いていたのか、そんなことを気にしてはいられなかった。
お互いが気まずくなって離れたその後、当たり前に宮瀬は松木の誘いを断っておいてくれと俺に伝え、自分の家へと帰っていった。夜になって俺に文句を言う松木の隣で、俺と犬居はいつも通りにしていて、その前にあったことなんてなかった振りをした。
次の日の月曜日、バイトで会った宮瀬はいつもの通りで、日曜日のことはなかったかのように振る舞っていた。俺が話しかけてもいつも通りで、バイト終わりに話すときもいつも通りで、それにつられて、俺もいつもと変わらない態度を取っていた。俺も宮瀬も、何もなかったことにするのは無理なことを分かっている上で、そういうことにしているのが分かって、どちらもが何も言わなくてもいつも通りにしていた。
***
「博己くん?」
「え?」
「どうしたの?」
いきなり名前を呼ばれて、はっとなって横を振り向く。横を歩いていた美香ちゃんが、不思議そうに小首を傾げてこっちを見上げていた。そこでようやく、俺は自分がさっきまで赤信号だった横断歩道で止まったままでいることに気付く。周りには、俺たちを抜かしていったり、通り過ぎていったりする人たちが大勢いた。
「ああ、ごめん。何でもないよ」
慌てて笑顔を作って、美香ちゃんの手を取って歩き出した。「変なの」と笑う美香ちゃんに、俺も同じようにして笑い返す。
空は、良い具合に暗くなっていた。宮瀬を抱きしめた日から一週間が経っていて、日曜日の今日は久しぶりの美香ちゃんとのデートだった。いつものように駅前で待ち合わせをして、昼ご飯を一緒に食べて、ぶらぶらと街を歩いて。いつもと同じデートなのに、俺が思い出すのはあの日のことばかりで。さっきまで交わしていた美香ちゃんとの会話は思い出せないのに、あの時の宮瀬の様子はしっかりと思い出せる自分が、嫌でしょうがなかった。
「夜はどうしよっか」
楽しそうに繋いでる腕を振りながら、美香ちゃんが俺を振り返った。笑いながら、さっきと同じように首を傾げる美香ちゃんを見ても、俺の頭に浮かぶのは、楽しげに笑う宮瀬の姿で。
『……お前も、大概だ』
その時になって、ようやく、犬居が言ったことの意味が分かった気がした。
今まで宮瀬のことを気に入っていた犬居がいきなりあんなことを言い出したのは、あいつのサークルの先輩の若菜さんが関係していた。偶然犬居も松木もいない時に若菜さんに会って、若菜さんの話を聞いて、それでどうして犬居がいきなりあんなことを言い出したのかが理解できた。
俺が宮瀬のことばかり見ているせいで、美香ちゃんが悲しい思いをしている。犬居は、そう言いたかったんだろう。それが本当かどうかなんてことは知らないけど、でも、それは間違っていないのかもしれない。今は美香ちゃんといるのに、宮瀬のことばかり考えてしまう俺に、美香ちゃんはどう思うだろうか。
今日だけじゃない。いつだって、美香ちゃんといる時に宮瀬のことを考えてしまう俺がいて、それでもそれを隠して美香ちゃんと一緒にいた。自分の気持ちを隠しているのは、何も犬居だけじゃない。俺だって、自分の気持ちを隠して美香ちゃんと一緒にいたんだ。卑怯なのは、俺も同じだ。
宮瀬のことを考えているくせに、ただ気になるだけだと自分で自分に言い張って、その奥にある答えを無視して。その気持ちを持ち続けたまま、美香ちゃんと付き合って。どうしたって宮瀬のことを無視するのは無理なのに、美香ちゃんには良い顔をし続けて。
「……ごめん」
「え?」
いきなり立ち止って謝る俺に、美香ちゃんがまた首を傾げる。
歩いてきた道は自然と美香ちゃんの家の方向だったらしく、周りにはさっきのように多くの人はいない。目を向けた先に公園を見つけて、そっちに向かって歩き出した。
「博己くん?」
素直に公園に着いてきてくれた美香ちゃんが、どうしたのと聞いてくる。それに曖昧に笑って、繋いでいた手を放した。
「ごめん。美香ちゃんの家には行けない」
向き合って言った俺に、美香ちゃんは一瞬だけきょとんとして、そしておかしそうに笑った。
「なんだ。そんなこと? 今日は、忙しいの? だったら、別の日でも大丈夫だよ」
笑う美香ちゃんにいたたまれなくなって、違うと首を横に振る。
「今日だけの話じゃない。もう、美香ちゃんの家には行けない。ごめん」
目を背けない俺に気がついて、美香ちゃんの顔から笑みが消えていく。その代わりに、混乱を隠せない様子で、ゆっくりと口を開いた。
「な、んで?」
美香ちゃんは俺の言ったことが何を指しているのか分かったようだった。その目は不安げに揺れていて、今の言葉が嘘だと望んでいるようで。
「初めは、美香ちゃんを好きになれると思った。実際、会えば会うだけ、その分楽しくなっていった。けど、だめなんだ。美香ちゃんといても、いつも思うのは、別の人なんだ」
美香ちゃんの目から、微かな希望すらもなくなった気がした。揺れる瞳が俺から視線を逸らし、口元は何かを言おうとして開いたり閉じたりしている。
「……みや、せ、さんっていう人?」
「……うん」
美香ちゃんの言葉で、さっきの俺の考えが裏付けられた。美香ちゃんは、分かっていた。俺が、いつも宮瀬を見ていることに。
二人の間に沈黙が流れる。
「好き、なの?」
「うん」
「……向こうも、同じなの?」
「それは、違うと思う」
避けられていた視線が、また俺と合わされる。自嘲するような笑みが漏れて、今度は俺が視線を外した。
「宮瀬は、違う人が好きなんだ」
「それなら、」
「それでも、いいと思ってる」
期待を込めた美香ちゃんの言葉を被るように、俺が言葉を続けた。視線を戻せば、泣きそうな顔の美香ちゃんと目が合う。それを目にしても、ぴくりとも動けなかった。
「宮瀬が別の人を好きでも、俺は宮瀬が好きなんだ。ずっと気付かない振りしてたけど、もうそれもできない。それを隠し続けて、美香ちゃんと付き合うこともできない。本当にごめん」
美香ちゃんの目から、涙が流れた。それを手で拭って、美香ちゃんが視線を下げる。
「ほんとは、そうじゃないかって思ってたの。学園祭のときに、博己くんがあの人を助けるところ見て、もしかしたらって」
震える美香ちゃんの声に何も言えなくて、俺も美香ちゃんに倣って視線を下げる。
犬居は、その時の美香ちゃんを目にしていたんだろうか。それを知った上で、俺にあんなことを言ったんだろうか。
「……私じゃ、ダメなの?」
「うん。宮瀬しか見えてないのに、美香ちゃんとは一緒にいれないから」
その言葉で張り詰めていたものが切れたのか、美香ちゃんが声を殺して泣き始めた。
目の前で美香ちゃんが泣いていても、俺は何も出来なくて、下げた視線を元に戻し、じっと美香ちゃんを見下ろすことしかできなかった。
しばらくして、美香ちゃんが顔を上げる。その瞳には未だ涙の痕があったものの、さっきのような期待が込められていることはなかった。
「……最後に、一つだけお願い聞いてもらっていいかな」
「うん」
「目、つぶってくれる?」
言われた通りに、目を閉じる。夕闇の中の風景が完全に閉ざされて、視界が真っ暗になる。目の前にいるはずの美香ちゃんの足音が聞こえて、コートに手が触れた感じがした。そのコートを軽く引っ張られたかと思うと、すぐに唇に柔らかいものが触れる。触れたものは一瞬のうちに離れていって、コートを放されたと同時に目を開けた。
だけど、そこに美香ちゃんの姿はない。後ろで、走っていく音が聞こえる。その音に振り返ると、決してこちらを振り返ることのない美香ちゃんの後ろ姿が見えただけだった。
辺りの夕闇はさっきと変わりはなく、俺一人だけが、公園に立ちつくしていた。