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「いいじゃん。来なよ」
「え?」
あろうことか、松木さんを支持したのは、犬居さんだった。古賀さんがぎゅっと眉間にしわを寄せて、犬居さんの方を向く。犬居さんはそんな古賀さんを無視して、以前のように人の良さそうな笑顔を向けてきた。
「学園祭以来じゃん。宮瀬ちゃんに会うの」
「ね?」と続けられて、口元が引きつった。先週会ったじゃないですか、なんてことを言う間もなく、松木さんが「そうだよー!」と犬居さんに乗っかる。
「ね? ね? 行こーよ」
人懐っこい犬よろしく、そう言われて、首を縦に振るしかなかった。
「やった! じゃあ、用事終わったらまた連絡するよ」
連絡するのは当然連絡先を知っている古賀さんなのに、なぜか先陣を切るようにして松木さんが宣言した。
これから研究棟に向かうという古賀さんたちと噴水の前で別れて、私も駐輪場へ向かおうとする。歩き出す前に、もう一度携帯を確認して、何の着信も入っていないそれに溜め息をついた。会えないかもしれないと前もって言ってくれたのに、今日でこの調子だ。来週も、その次の週も会えなかったとしたら、どうすればいいんだろう。考えなくてもいいことを考え出すと、足を進めるのも何だか億劫になって、噴水前にいくつかあったベンチの一つに腰を下ろした。
少しの間そこに座ってぼーっとしていると、いきなり目の前に人が立った。通り過ぎるでもなく、その人は私の前に立っていて、何だと思いながら目線を上げる。
「ああ。やっぱり」
視線を上げた先に立っていたのは男の人で、なぜか私のことを知っているようだった。鞄を手にしたジーンズ姿のその人は、さもすれば学生にも見えて。だけど、顔立ちから、学生には見えなかった。
もともと付き合いの少ない私に、学生でもないこの人と知り合った記憶なんて、これっぽちもない。『あんた誰』的な考えが顔に出ていたのか、男の人は少し心外そうに「なんだ。覚えてねーの?」と口にする。
「はあ。すみません」
「ま。会ったっていっても、一回喋ったくらいだかんな」
「はあ」
一人納得する男の人を目の前に、私はどうしたものかと曖昧な返事を繰り返す。男の人は鞄を持っていない方の手をジーンズのポケットに突っ込み、ふいっと私を見下ろした。
「永井の研究室の前で、一回会ってんだけど」
『永井』という言葉に一瞬どきっとするも、すぐにそれは先週のことへと頭がシフトした。そして、目の前に立つ男の人のこともぼんやりと思い出す。
先週の土曜日、永井さんの研究室の前で会った、白衣の男の人だ。残念ながら、男の人の顔までははっきりと覚えていなくて、そのシルエットだけが思い出される。
「あ、ああ。どうも」
やっとのことで思い出したものの、顔も覚えていないこの人に何て言ったらいいのか分からず、とりあえずの挨拶を口にした。それは相手にも伝わったらしく、隠すことなく眉間にしわを寄せられる。
「なんだ。まじで覚えてねーんだ」
「いや、会ったことは覚えてますけど、顔まではちょっと……」
「ふーん」
気分を害したのかそうでないのか、男の人は適当な返事をして、周りをぐるっと見回した。
「試験でも受けてたの?」
近くにあった試験会場への案内表示を見つけたらしく、男の人がそれを顎で指して尋ねた。私もそれを振り返り、男の人へと顔を戻して頷く。
「はい。あの、」
「ああ。俺は仕事。知り合いに資料持ってきただけ」
「はあ」
先回りして言われて、また曖昧な返事をしてしまう。男の人の対応に困っていると、その人は口の端を上げて、嫌味な笑みを浮かべた。
「今回は、この間みたいに修羅場には遭遇しなかったけど?」
ぴしっと周りの空気が固まった気がする。
「……そうですか」
簡単な返事だけをして、さっさと帰ろうと腰を浮かせる。それに気付いた男の人が、おかしそうに笑う。
「そんな怒んなって。春希、ちゃん?」
名前も知らない男の人から自分の名前を呼ばれて、立ち上がろうとしたことも忘れ、混乱して男の人を見上げる。男の人はますます面白そうに笑った。
「え、な、なんで。名前……」
「混乱しすぎ。村瀬も軽いよなー。ちょっとカマかけただけで、ぽろっと名前漏らすんだから」
「む、村瀬?」
「そ。村瀬健吾。あの俳優の村瀬健吾で、そっちの彼氏の永井の同級生。で、俺の同級生」
「な、え?」
「春日樹」
「は?」
「俺の名前」
口元に少しだけ弧を描き、うすい笑みを浮かべて、春日という人は言った。大事なことを一気に言われた気がしたけど、それをすぐに頭の中で整理することができなくて、何度も瞬きをしてしまう。春日という人は、そんな私に気付いてるのか気付いてないのか、ふいっと周りに目をやって、「さみーな」と呟いた。
「どっか中入ろ」
「は?」
驚く間もなく、春日という人に腕を引っ張られ、とんっと歩けと背中を押された。抗議の声は全部無視されて、背中を押されながら強制的に連れていかれる。
着いた場所は、どこかの棟の地下ラウンジだった。そこの端っこにあるソファセットに向かい合って座り、「ん」とそこの自販機で買った温かいミルクティーを渡される。
「なに。コーヒーのがよかった?」
「……いえ」
「そ」
向かいに座った春日さんは、憮然とする私を無視するかのように、自分の分のコーヒーを開けた。私は、渡されたミルクティーを開けることもせず、呆れなのか腹立たしさなのか分からない溜め息を漏らした。
「あんたの影響だろ?」
「は?」
何度目かの唐突な言葉に、面倒くささを隠しもせずに聞き返した。
「紅茶なんか飲みもしなかった永井が、いきなり紅茶飲むようになったって。あんたと会いだしてからじゃねーの?」
「……知らないですよ。永井さんがいつから紅茶飲みだすようになったかなんて」
「うわ。ひでーな。仮にも彼女だろ?」
茶化すようなその言い方に、自然ときつい視線を目の前の人に送ってしまう。春日さんは、そんな視線など気にすることもなく、涼しい顔をしていた。
「だいたい、何であなたが、」
「春日だって。樹でもいいけど」
「……春日さんが、」
「永井とのこと知ってるかって?」
また質問を先回りされて、溜め息をついた。こういう、人をばかにしてるような態度が、どうも気にくわない。目の前の春日さんは、さっきのようなうすい笑みを浮かべていて、怒る私を面白がっているようだった。
「面倒だろうから、質問される前に全部言おうか?」
「……そうしてください」
溜め息混じりに返したその言葉に、春日さんは満足そうに笑うと、一口コーヒーを飲んでから話し出した。
「ある日から、いきなり永井の指から結婚指輪がなくなったと噂になりました。もちろん、研究室の院生限定で。で、院生の一人が永井が離婚話を進めてることを耳にしました。別の院生は、永井が今まで飲まなかった紅茶を飲むようになったことに気が付きました。俺は、ある日、永井の研究室の前で、ある女の子と一緒に永井の修羅場を目撃しました。その女の子の代わりに永井に資料を届けてやると、あいつは珍しく慌て出しました。そこでもカマをかけてやると、女の子に近付くなと、あいつは分かりやすいほど怒りを露わにしました。素性も分からない女の子が気になった俺は、同級生でもある村瀬健吾に電話をしました。頭の軽い村瀬は、少しのカマで、女の子の名前を教えてくれました。そうして、俺は永井が春希という名前の、あの女の子と付き合ってることを知りましたとさ」
再びコーヒーに口をつけながら、春日さんが面白おかしく話を終わらせた。