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『ごめん』
『もうすぐだから。もう少ししたら、もう、何も言わせないから』
永井さんにそう言われて、一週間が過ぎた。言われた言葉を思い出すたびに、やるせない顔をした永井さんも思い出して、すぐそばに永井さんがいればいいのにと思ってしまう。そうすれば、永井さんに触れて、触れられて、安心できる。でも、実際はそうじゃない。
今日は、日曜日だ。いつもなら、まだ永井さんと一緒にいるのに、今日は違う。一昨日の金曜日、永井さんから今週は会えないと言われていた。言葉通りにするために、今週は話をしにいくと、言っていた。
永井さんにも、永井さんの奥さんにもやることはあって、二人の時間が合う日なんていうのは、当たり前に週末しかなかった。永井さん曰く、『土日の二日間で出来ることなんてたかが知れている』らしく、これからしばらくはそういう日が続くかもしれないとも言われていた。
永井さんがそうする理由も分かるし、永井さん自身が望んでることだということも分かっている。分かってはいるけど、いつも会っていた日に会えないということが、少しさみしかった。今というタイミングでは、なおさら。
歩き慣れないキャンパス内を歩きながら、さっきまで切っていた携帯の電源を入れ、新着がないかを確認する。結果は、迷惑メールのみ。分かっていたことなのに、そのメールを削除しながら、小さく溜め息をついた。
「みやせちゃーん!」
携帯をコートのポケットに仕舞ったところで、後ろから大きな声で名前を呼ばれた。あまりの大きさに思わず歩いていた足を止めて、呼ばれた方を振り向く。さっき私自身も出てきた建物から、松木さんが手を振っているのが見えた。その横には、古賀さんと犬居さんもいる。立ち止った私の横をぞろぞろと大勢の人が抜かしていくのを横目に、私も建物の外階段を下りてくる松木さんに向かって手を振った。
「みやせちゃんも受けてたんだ」
「まあ、はい」
目の前に来てにこにこと話し掛けられ、曖昧に笑って頷いた。
遅れてやってきた古賀さんと犬居さんの距離が妙に離れているのは、気のせいじゃないだろう。そして、松木さんがそれに気がついてないというのも、気のせいではないと思う。学園祭のことがあってから、古賀さんから犬居さんのことは聞いていない。私も、先週偶然にも犬居さんとばったり出くわしたことを、古賀さんに話していなかった。その間に、あの時険悪になった二人の関係が元に戻ったということは、今の二人からしてなかったようだ。
「よく続くよな。お前も」
「ま、ね」
少し呆れた様子で古賀さんに言われて、肩をすくめて返す。
今日は、アメリカの教育試験サービスが作成している英語のコミュニケーション能力を計る試験だった。年に8回実地されていて、この県では、古賀さんたちの大学が受験会場になっていた。
古賀さんの呆れは、私の受験回数を言っている。たぶん、去年の今頃からこの試験を受け始め、それは一年間続いている。特に英語を必要としない古賀さんたちからしてみれば、私は感心される立場らしい。といっても、私の学校の同じ学部の人ですら、ここまで受け続けている人はほとんどいないかもしれない。その中で私が受けている理由は、単に留学に行けなかった消失感を紛らわそうとしているからだと自分でも思っている。行けなかったという事実がないなら、点数という事実を出せばいい、という単純な考えだ。我ながら子供っぽいとも思うけど、それしか自分を慰める方法が思いつかなかった。それで、周りに言わせれば『すごい点数』を取っているんだから、結果オーライじゃないかと考えてみたり。
「そんなに受けてんの?」
松木さんが興味津々の顔を隠すこともなく、聞いてきた。
「まあ、一年くらい続けて受けてますね」
「まじで? すげーなー。俺たちなんて、院試に必要だから受けてるだけなのに」
「お前は違うだろ」
松木さんの言葉を、横にいた犬居さんがすかさず否定する。何のことか分からず、古賀さんの方を見れば、松木さんのことを呆れた顔で見ていた古賀さんがその顔のまま私の方を向いて説明する。
「あいつは俺たちにくっついて受けただけなんだよ」
「あ、そうなんだ。じゃあ、松木さんは院に行かないの?」
些細な間違いを突っ込まれた松木さんが、犬居さんのところから逃げるように私に目を向けて、「うん」と頷いた。
「俺は就活。宮瀬ちゃんと一緒なんだ」
にこにこな顔で言われて、私は「あー」と言葉に詰まってしまう。犬居さんと松木さんの二人が首を傾げた。古賀さんだけが、二人とは違う目で私を見下ろす。確かめるようなその目に、私は少し笑って肩をすくめた。
「一応、私も院の試験受けるんです」
犬居さんと松木さんが、同時に「え?」と驚いた声をあげた。古賀さんは、目をぱちぱちとさせた後、口元に笑みを浮かべた。それを見て、照れ隠しに笑う。
「いいって言われたんだな」
「うん。奨学金付きならっていう条件付きだけど」
「ま、よかったな」
古賀さんの笑みを見て、私も嬉しくなる。
先週、永井さんに言われた通り、私は親に進学のことを話すことから始めた。とにかく勉強を続けたいと伝え、奨学金の可能性を示したことで、両親も何とか納得してくれたのだ。古賀さんにも、月曜日のバイト終わりにそのことを言っていて、『うまくいくといいな』と言われていた。その了解を取ったのが昨日だから、古賀さんもこのことを聞くのは初めてだ。
「宮瀬ちゃん、文系なのに院行くんだ」
「ほんとほんと。すげーなー」
犬居さんと松木さんの二人の言葉に、曖昧に笑ってしまう。二人ともが、あの犬居さんまでもが、純粋にそう思ったような顔をしていて、それがなおさら困ってしまう。古賀さんはその二人を見て、気にするなという目をする。私はそれに曖昧なままの笑みを返し、先を歩こうと足を進めた。古賀さんたち三人も、私に並ぶようにして歩き出す。
親の了解を取るときも、同じようなことを言われた。理系とは違って、文系というものは、院に行ってもそれがそのまま何かの価値として機能することはほとんどない。『院に行って、その先をどうするのか』。それが、大半の周りの意見だった。それでも、私は勉強を続けたいと思った。知らないことを理解して、自分で考えることが楽しいと素直に思える。
きっと、永井さんの一言がなければ、このまま就職活動一本でやっていたと思う。永井さんの言葉を聞いてからも悩む私に、古賀さんは「やるだけやってみろ」と言ってくれた。それが、何よりも心強かった。
「あ、宮瀬ちゃんさ。今日の夜とかってヒマなの?」
四人並んでキャンパスを歩いていると、古賀さんの隣にいた松木さんがひょいっと顔をのぞかせた。
「特に何もないですけど、何かありました?」
「三人で夜一緒に食べるんだけど、宮瀬ちゃんも行こうよ」
「え、」
いきなりな誘いに、躊躇してしまう。横の古賀さんが、余計なことをという目で松木さんを見ている。その横にいる松木さんは、そんなことにはまったく気付いてないけど。
「いや、えーっと、」
「行こーよ。俺ら、今からは用事あるんだけど、夜はヒマなんだ」
「『お前の』用事だろ。俺たちはお前の課題の手伝いに引っ張り出されてるだけだ」
またしても隣の犬居さんから突っ込まれている松木さん。「細かいことはいいの!」と、松木さんが犬居さんの方を向いた。
その隙に、どうしようと古賀さんを見上げる。古賀さんは、あまり来てほしくないという顔をしていた。それは、私も同じだ。
いつもなら、この三人に加わることに、何の抵抗もない。だけど、今は違う。あの学園祭の時から微妙な関係になっている犬居さんと一緒になるのは、正直避けたかった。古賀さんと犬居さんの関係も、同じように微妙になっているのは間違いない。私が原因とはいえ、進んでその中に入る気には、今はなれなかった。