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「覚えてるとかそういうの抜きにしても、君のレポートは全体的によく出来てたと思うよ。興味があるんだったら、もっと先に進んでもいいと思うし」
その言葉に、うなるのを止めて、永井さんの方を向いた。たぶん、今は目が点になってると思う。それを見た永井さんは、小さく笑う。
「ゼミの先生にも、言われたんでしょ?」
「え。なんで知ってるの?」
ぎょっとなった私に、永井さんはさらにおかしそうに笑った。
永井さんが言う『もっと先』とは、大学院のことだと思う。ゼミの先生という言葉からも、それは間違いない。確かに、3回生から始まったゼミの先生にも、院に行かないかと言われていた。
「学校でたまたま会った時に、君のこと覚えてるか聞かれたんだ。ゼミで俺のこと言ってたって言われて、覚えてるって言ったら、『院に行ってほしいんだけどね』って言ってたよ」
「別に、永井さんのこと言ったわけじゃないけど」
「まあ、俺のことっていうよりも、授業のことだけど。でも、『行ってほしい』って言ってたのは本当だよ」
外国人のゼミ教授を思い出し、内心余計なことをと思いながら、曖昧に笑って紅茶を飲む。永井さんの顔からはおかしそうな笑みはなくなっていて、それとは違う、落ち着いた笑みに変わっていた。それを見ると、何だか永井さんが全部を知ってるような気持ちになって、少しだけ落ち着かなくなる。
「断ったんだって?」
「断ったっていうか、『行けたらいいですね』って言った」
「それはほとんど断りと同義語じゃないの」
しっかりと見透かされている状況に、何も返せなくなって、少しずつケーキを崩して食べていく。ちらっと視線を上げると、永井さんがテーブルに肘をついてこっちを見ていた。それから視線を逸らし、フォークにケーキを取って、永井さんの口元に運ぶ。永井さんが息を吐きながら笑って、目の前にあるケーキをぱくりと食べた。ケーキのなくなったフォークをお皿に戻し、その上でころころとフォークを回す。永井さんがケーキの後に紅茶を飲んで、それをテーブルに戻したところで、口を開いた。
「だって、院に行くにも、お金掛かるし」
結局、ネックになるのは、お金だった。留学に行くのも、院に行くのも、それに阻まれている。力はあると言ってくれた。テストでもそれを証明された。だけど、絶対的に必要なものが足りなくて、諦めた。
別に、家にお金がないわけじゃない。ある程度の普通の家だ。だけど、留学や院といったプラスアルファのための支出が出来るほどじゃない。それは、十分に分かっていた。だから、留学を辞退して、院への誘いも断った。
お皿の上で転がしていたフォークを止めて、小さく溜め息をつく。たぶん、永井さんは私が断った理由だって分かってる。それでも、黙って聞いてくれていた。もう一度永井さんに目を向けると、安心させるような笑いを見せてくれた。
「返済不要の奨学金だってあるし、無利子のだってあるよ」
「知ってるけど、通るか分かんないじゃん」
「それはやってみないと。受けるか受けないかより、先に両親に話してみなよ。そこからだよ」
ね、と続けられて、思わず頷いてしまった。それを見た永井さんは満足そうにして、私が持っていたフォークを向かいから取った。それでケーキを崩し、小さくフォークの上に乗せる。
「はい」
さっき私がしたように、今度は永井さんがケーキを乗せたフォークを私の前に差し出した。さっきとは反対に、私が笑って、差し出されたケーキを食べる。笑ってケーキを頬張る私を見て、永井さんも微笑んだ。
それから一時間ほどして、もうそろそろ出ようかと、二人して席を立った。会計を済ませ、パティシエの人に手を振ってドアに振り向こうとして、先にそのドアが外から開かれた。驚いて、足が後退する。背中に、永井さんの身体が触れた。中に入ってくる人を見て、開かれたドアから入ってくる冷たい空気よりも、ひやりとしたものが身体に走る。入ってきた人も、私に気がついて、笑っていた顔がなくなっていっている。
「偶然だね。宮瀬ちゃん」
「……どうも」
無視してくれればいいものを、中に入ってきた人――犬居さんは、わざわざ声を掛けてきた。犬居さんの後ろにいた女の人が「ぽち?」と、不思議そうにして犬居さんの後ろから顔を出す。そして、私に気付いて、「あっ」と言いながら軽く頭を下げられた。私もとりあえず頭を下げて、犬居さんの方を見る。自然と先週のことが思い出されて、後ろにいる永井さんの方に身を寄せてしまう。犬居さんはもう私のことを見てはおらず、その視線は私の後ろの永井さんに行っていた。犬居さんが何か言う気なのかどうかは知らないけど、あんなことを永井さんに言ってほしくないし、私も思い出したくもなくて、先に「犬居さん」と声を掛けた。
「私、今から帰るんで」
「あ、そうなんだ」
「はい。じゃあ、また」
ぱっと、視線が私に戻った犬居さんに軽く頭を下げて、その横を通って外に出た。すぐに、永井さんも外に出てきてくれる。外に出てきた永井さんは、何も言わずに私の手を取って、車の方へと歩き出した。
車が私のマンションの前に着くと、私が降りるより先に永井さんが運転席を降りて、助手席側のドアを開けてくれた。車を降りるとすぐ、永井さんに抱きしめられた。カフェからの帰り道、何にも言わない私を心配してくれたんだろう。きっと、永井さんにも、さっきの犬居さんが『古賀さんの友達』ということは分かっている。
「ごめん」
「なん、で、永井さんが謝るの」
「俺の勝手で、君がこんな目にあってる。何か言われるのは君だって分かってたのに、ちゃんと理解してなかった」
抱きしめられた腕の中で、首を横に振る。
「永井さんが悪いわけじゃない。どっちが悪いとかないって、永井さんも言ったでしょ」
「そうだけど、」
「そんなの、言わないでよ。そうやって言われたら、永井さんがどっか行っちゃいそうで、やだ」
ぎゅっと抱きつくように、永井さんの背中に腕を回した。抱きしめられていた腕が緩んだかと思うと、すぐに永井さんの手が私の髪に触れる。
「何か言われたらへこむけど、それでも、永井さんのところに行くと思う。そういうの、どうでもいいやって思うくらい、永井さんといたい」
髪を撫でていた手が止まって、次には苦しいくらい強く抱きしめられた。応えるように、私も永井さんのコートを掴む。
「そんなこと、言わないで」
耳元で、永井さんが呟いた。何でと問い掛けるように顔を上げれば、永井さんの手が私の頬を包む。
「離したくなくなる」
言葉と同時に唇が重なった。ゆっくりと離れて、また触れられる。
「もうすぐだから。もう少ししたら、もう、何も言わせないから」
ほんの少しできた距離で言われたその言葉に頷く。永井さんの悲しげに歪んだ顔なんて初めてで、私まで泣きそうになる。永井さんは、こんなになるほど、私を求めてくれている。素直に、それが嬉しい。
降りてきたキスに目を閉じて、触れてるのに離れていきそうだなんてばかなことを、初めて思った。