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お昼の30分程前になってから、お昼ごはんの準備を始めた。パスタを茹でるためにお湯を沸かしている途中、棚にあるペアのカップがふと目に入る。前に買い物に出掛けた時、私が見ていたものを永井さんが買おうと言ってレジに持っていったものだ。家にもマグカップはあるんだから買わなくてもと言ったのに、永井さんは特に気にすることなく、その二つを買ってしまった。前まで使っていたオフホワイトのものは、今は棚の奥にある。ペアのカップは、前から少し欲しいなと思っていたもので。その店の前を通るたびによく見ていた。ペアのものを欲しいなんて思ったことは、元彼と付き合っていた時は一度もなかったのもあって、なかなか手が伸びずにいた。それが今はすぐ目の前にある。嬉しいはずなのに
、今はそれから視線を外してしまう。
カップから目を逸らして、ぼんやりと火にかけられている鍋を見ていると、玄関の方で鍵が開く音がした。それから足音が続いて、がちゃっとドアが開かれる。
「おかえり」
入ってきた永井さんを見て声を掛けると、永井さんはあからさまにほっとしたように息をついた。それを見て、少し笑ってしまう。
「帰ると思った?」
対面キッチンのテーブルに鞄を置いていた永井さんに笑いながら尋ねると、永井さんは困ったように小さく笑う。
「少しね」
正直な永井さんに、また笑った。
永井さんは鞄を置くとキッチンの方にやってきて、私の腕を取ると、くいっと自分の方に引き寄せる。私も抵抗することなく、されるままでいた。
「よかった。いてくれて」
ゆるく回された腕の中で、私も自分の腕を永井さんの背中に回す。
「帰んないよ。永井さんといたいもん」
「ありがとう。後で、ちゃんと話すから」
「……うん」
何を話すなんかなんて、言わなくても分かる。きっと、さっきのことだ。
その言葉通り、お昼ごはんのパスタを食べ終わると、永井さんは研究室でのことを話し始めた。二人並んでリビングのソファに座って、目の前のテーブルにはペアのカップに入れられたコーヒーと紅茶が置いてある。
「驚かせたよね。さっきは」
両足をテーブルの下に伸ばし、手を足の上に置いて、永井さんが言った。その顔が、さっきみたく、困ったように笑みを作る。
「少し、ね。ていうか、あんな声聞いたことなかったから、ちょっと怖かったかも」
少しふざけるようにして笑いながら言っても、永井さんの顔から申し訳なさそうな表情は消えない。永井さんは小さく息をついて、テーブルに置いてあったコーヒーを手に取った。それを一口飲んでから、またカップをテーブルに戻す。
「本当にごめん。万里子が来て、話してるうちに収まりが利かなくなって。こんなこと言っても、怒鳴っていい理由になんかならないんだけどね。万里子だけじゃなくて、君にもあんなの聞かせて、挙句の果てに顔を合わせるなんて。調子に乗って、君を呼んだりするんじゃなかったな」
そこまで言って、永井さんはもう一度「ごめん」と繰り返す。
顔を伏せて溜め息をつく永井さんを見ていると、私以上に、永井さんがこのことでダメージを受けてるような気がした。それなのに、永井さんは私の心配をして、庇うような言い方をして、自分に非があるようにする。混乱したのは確かだけど、永井さんがこんな風になるのを見てまで、自分だけを心配するわけない。
「さっきのことで混乱はしたけど、別に永井さんが悪いわけじゃないよ」
言いながら、永井さんの手に触れた。それに気がついた永井さんがこっちを向いて、ぎゅっと手を握り返してくれる。
「その、ああいうことがあったのは、想定外だし」
繋いだ手を引かれて、身体が永井さんの方へと動く。永井さんの肩に頭を乗せる形になって、永井さんが肩を抱いてくれた。
「どっちが悪いとか関係ないって分かってるけど、言っとかないと、嫌な気分になるんだ。君を心配させたのは事実だから。今回は、特に」
付け足された言葉に顔を上げると、永井さんもこっちを見下ろしていた。目が合うと、永井さんが優しく笑みを浮かべる。
「先週のこと、聞いたんだ。古賀くんから」
「古賀、さん?」
「うん」
『先週のこと』とは、間違いなく、あの犬居さんとのことだろう。それは分かっても、何で永井さんと古賀さんが連絡を取り合っているのかが分からなくて、自然と首を傾げてしまう。私の顔に気付いた永井さんが、小さく笑った。
「前に会った時に、連絡先交換したんだ」
「そう、なんだ」
そういえば、前に古賀さんも永井さんと会ったことがあると言っていた。交換したというのは、その時なんだろう。
納得した私の髪を、永井さんが優しく撫でてくれる。
「日曜だったかな。彼から連絡が来て、教えてもらった。彼の友達と、何があったのか。それで、今日だ。心配しないわけないよ」
「そっか。知ってたんだ」
髪を撫で続けてくれる永井さんに身体を寄せて、さっきよりも永井さんに近付く。
「本当は、今日来てくれないんじゃないかと思ってた」
その言葉に、また永井さんを見上げた。永井さんの顔には笑みが浮かんでいるものの、その笑みはどこかしら私の反応を試しているようなもので。むっとなって、眉間にしわを寄せる。それを見た瞬間、永井さんがおかしそうに笑いだした。
「やっぱりそう思ってたんだ」
「そりゃあね」
むっとなったまま返せば、永井さんは髪を撫でていた手を止めて、まだおかしそうに笑う。ここまで笑われてしまうと、真剣に考えてたのにとか悩んでたのにとかいう思いが出てきて、さらに顔をしかめてしまう。それに気付いた永井さんが、笑いながらも、また髪を撫でてくれた。
「ありがとう。それでも来てくれて」
「……うん」
髪を撫でられながら、いつものように笑みを浮かべて言われたら、もう何にも反論できない。それを知ってるのか知らないのか、永井さんはずっと私の髪を撫でている。
「行こうか迷ったっていうよりも、あんまり金曜日になってほしくないなって思ってた」
頭を永井さんの肩に預けたまま、本音を漏らす。永井さんは撫でている手を止めることなく、「そうなんだ」と言って話を聞いている。
「金曜になって、永井さんに会っちゃったら、やなこと都合良く全部忘れちゃいそうだなって思って。で、会ったら、やっぱり全部忘れちゃって、一緒にいたくなってた」
「それは、嬉しいね」
永井さんの声に顔を上げると、言葉通りの笑みを浮かべた永井さんがいて、私の方も笑みが漏れる。また顔を戻して、髪を梳く永井さんの手を感じながら、ぼんやりとテーブルを見る。その上に並んでいるお揃いのカップを見て、口を開いた。
「ペアのものなんて、元彼と付き合ってる時は持ってなかったし、欲しいと思ったこともないんだ」
「そうなの?」
「うん。向こうは欲しがってたけど、私は、なんか嫌で。ストラップとかキーホルダーとかでさえも、お揃いは持ったことない」
ペアのカップを見ながら、お揃いのものを欲しがる元彼のことを思い出した。本当はお揃いの指輪が欲しかったらしいけど、私がそれを断固拒否して、それじゃあと提案されたのがお揃いの腕時計だった。だけど、私はそれさえも嫌がって、そういう主義なのだと通した覚えがある。別に、その時は元彼が嫌いだったわけじゃない。まだ、仲が良かった時だ。それでも、何でか、ペアのものを持つことだけは、何となく嫌だった。
「でもね、このカップは、何か欲しいと思ったの。これで一緒に何か飲めたらいいなあって思ったの、何となく覚えてる。そういう、らしくないこと思うくらい、永井さんのこと好きみたいだよ」
ぴたりと、髪に触れていた永井さんの手が止まった。どうしたのかと思って顔を上げると、困ったような顔つきで私のことを見下ろす永井さんと目が合う。なに、と首を傾げると、永井さんは苦笑いをして、ぎゅっと私の肩を抱いた。