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横に置いた鞄の中から携帯の震える音がする。たぶん、松木からだ。鳴り続ける携帯を無視して、それが止まるのを待つ。今は、松木とも話したくない。
俺以外誰もいなくなったテニスコートで一人ぼーっとしていると、またしても横の金網が開く音がした。
「あれ、ぽちじゃん。何やってんの?」
「……先輩」
いつもの鞄と一緒にラケットの入った鞄を持って中に入ってきたのは、同じサークルの一つ上の先輩だった。先輩は「珍しいね」なんて言いながら、俺の鞄の隣に自分の鞄を置く。
「ぽちも自主練?」
「や、違います。さっきまで友達と喋ってました」
「そうなんだ」
先輩は、俺のことを『ぽち』と呼ぶ。『犬居』という名前から、『犬ならぽちでしょ』と訳の分からないことを新入生歓迎会の時に言われて、それ以来先輩にだけそれが定着した。
俺と先輩は、夏前まではそれほど仲が良かったわけではない。普通の、どこにでもいる、サークルの先輩と後輩だった。それが少し変わったのは、夏休みに入る少し前だ。
あの日も、先輩と偶然会ったのはこのテニスコートだった。
***
コートで一人ひたすらサーブを打ち続けていると、今日みたく先輩がやってきたんだ。軽く挨拶して、休憩にと今も座るベンチに座った。先輩は、いつもみたく『暇だねえ』なんて笑いながら、俺の隣に腰を下ろしていた。
『ほっといてください』
わざと拗ねたようにして返し、先輩の方を向いた時に、先輩の顔がいつもとは違うことに気がついた。笑う先輩の目元は、化粧で隠してあるにしろ、少しクマが目立っていて、目は何だか赤いようだった。
『何か、あったんですか?』
よせばいいのに、そんな質問をして、先輩の笑いが固まった。その様子に、『言いたくないんだったらいいです』と付け加える。だけど、先輩は、少ししてから顔を下に向けて、『あー』と自棄になったような声を出した。
『私さあ、別れたんだよね』
『え、雄大さんと、ですか?』
『他に誰がいんの』
そう言って笑う先輩は、泣き笑いを隠しているようだった。
先輩と雄大さんは、同い年で、雄大さんも俺たちと同じサークルだった。誰にでも優しくて、それでいて決める時は決める、絵に描いたような好青年。先輩とも長くて、かれこれ三年は付き合っていた。卒業しても、この二人なら何とかやってくんだろうなって、サークルのみんなが思っていた。
それでも、先輩と雄大さんは、終わったんだ。先輩の様子からして、先輩からそれを終わらせたわけではないようだった。
『何かね、GW過ぎた辺りから、だんだん連絡少なくなってきてさあ』
聞いたわけではないのに、先輩は事のあらましを話し出す。その目は、その時のことを思い出したのか、少しだけ赤いのが増していた。
『この間、別れた。っていうか、振られた。他に、好きな人ができたんだって』
『え?』
思いがけない言葉が出てきて、ぎょっとなった。まさか、あの雄大さんに限って、そういう理由なんて。
俺の顔を見た先輩が、渇いた声で笑った。
『っていうかさ、もう、付き合ってるんだって。その人と』
『は? え? は?』
『びっくりじゃない? 少しだけだけど、浮気されてたんだよ』
そんな、自嘲しながら言われても。
いきなりな展開すぎて何も言えなかった。先輩が別れたってことにも驚いたし、雄大さんに他の人がいるってことにもだし、何より雄大さんがもう付き合ってるってことに驚いた。
でも、この時は雄大さんが浮気してたっていう事実にも、まだ冷静でいられて。『それは、最悪でしたね』なんて、上辺だけの言葉を先輩に向けることができていた。だって、身も蓋もない言い方したら、宮瀬ちゃんだってやってることは同じだと思ったから。それでも、この時はまだ宮瀬ちゃん寄りの考えを持っていた。実際のところ、宮瀬ちゃんと永井さんが付き合ってるかどうかなんていうのは定かじゃないんだけど、前に二人がキスしてるのを見たことがあったから、どうせ付き合ってるんだろう。二人がどうなろうと、知ったこっちゃない。俺と宮瀬ちゃんは、何の関係もないんだから。
俺と先輩だって同じだ。俺と先輩を繋ぐものはサークルしかなくて、そんな薄っぺらな関係で、先輩の失恋を本気で心配することもなかった。
『最悪、なのかなあ』
俺の言葉を聞いた先輩が、ぼんやりと呟いた。最悪以外の何があるんだろうと思って、隣の先輩の方を向く。先輩は、両手をベンチに置いて、コートを眺めていた。
『最悪、じゃないんですか?』
思ったことをそのまま言えば、先輩はこっちを向いて、また自嘲した。
『ああ。浮気されてたっていうのは、確かに腹立ったけど』
『けど?』
『なんか、振られる時に、バカ正直にそういうことしてたって言われて、私と連絡もしたくないくらい、その人と一緒にいたかったのかなって考えると、それは最悪だね』
『ああ……』
『遊びの浮気なら、許そうと思ったんだよ。でも、うん、……心持ってかれるのは、つらいかな』
『それは怒ってもみじめじゃん?』と、先輩が、涙を耐えるかのように笑った。そんな先輩を見て、『ああ、違うんだ』と思った。本気の浮気は、当人や無関係の人間には、まだきれいな恋愛に見えるんだろう。だけど、してる側のそばにいる人間には、それは何よりもつらいものらしい。正直者が一番なんて、誰が言ったんだか。正直にすべてを告げられたせいで、先輩はこんなに我慢している。
『……泣いたらいいじゃないですか』
『え?』
自分を蔑むように笑っていた先輩が、笑みを止めた。意味が分からないという感じで、こっちを見てきている。
『大丈夫です。先輩が泣いたって、負け犬だなんて思いませんから。一人で泣くより、誰かの前で泣いた方がけっこうすっきりしますよ。ほら、』
言いながら、少しだけあった距離を詰めて、先輩に近付いた。
『今なら、タダで貸し出します』
ポンポンと、先輩側にある自分の肩を叩いた。それでも先輩はこっちに来ようとしない。痺れを切らした俺が、くいっと先輩の腕を引っ張って、先輩が顔を伏せるような形にして肩に頭を置かせた。それから、反対の手でまたポンポンと先輩の頭を叩いてやる。それを数回繰り返していたところで、先輩が声を殺して肩を震わせた。先輩の手が、俺の胸元の服を掴む。
『すき、だった、のに。なんで、あんなこと、されなきゃいけないの。わたしばっかりが、ばかみたい。なんで、さきにわかれようって、いわないのよ』
『そうですね』
先輩の涙を服越しに感じながら、涙が止まるまで、そうしていた。