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その日の学園祭が終わって、いきなり提案された飲み会が松木の家で行われて、それはそれで楽しいものだった。美香ちゃんや藤田さんも、途中で会った犬居に聞かされたらしく仲良くしていたし、俺と松木、宮瀬も何だかんだと楽しくやっていた。
日付も変わろうとする頃、部屋の主でもある松木がつぶれて、そろそろ帰ろうかということになった。今日は藤田さんの家に泊まるらしい美香ちゃんは藤田さんと一緒に立ち上がって、犬居もその後ろで帰る準備をしている。宮瀬が最後のゴミ袋をキッチンに置いてきたところで、俺も帰ろうと立ち上がった。
「こがぁ、きもちわるいよぉ」
「は? トイレ行けよ」
「むり。つれてって……」
俺の横で転がっていた松木が俺のズボンの裾を掴んで、うーうーとうめいている。一人だけやたらと飲んでいたせいだ。離そうにも、松木は俺のズボンから手を離そうとはしない。
「あー、もう。めんどくさいな」
諦めて、松木の服の後ろ襟を引っ張って、ぐいっと立たせる。
「悪い。先行ってて」
「了解」
ワンルームの部屋の出口に一番近い犬居にそう声をかけて、みんなが出ていってから、松木を引っ張ってトイレに連れていく。
「大丈夫?」
「うん。大丈夫だよ。じゃあね、美香ちゃん」
「ん。ばいばい」
心配そうに聞いてきた美香ちゃんに手を振って、トイレのドアを開けた。松木が胃の中のものを吐き出し始めたところで、玄関のドアが閉まって、俺と松木以外が出ていった。その閉まる音を聞きながら、苦しそうに吐く松木の背中をさすってやる。
それから五分ほどうめいていた松木だが、胃の中のものが出てしまうと、だいぶすっきりとした顔つきになっていた。
「じゃあ、俺も帰るから、もう寝ろよ」
「うん。みやせちゃんに、あやまっといてなぁ」
「はいはい」
未だに呂律が怪しい松木に手を振って、俺もようやく松木の部屋を出る。
エレベーターで下に降りて、エントランスに出ると、エントランスのすぐ外で犬居と宮瀬がいるのが見えた。美香ちゃんや藤田さんの姿は見えない。二人は向かい合って立っている。何やってんだ、と思いつつ歩を進めるも、向こうはまったく俺のことに気付いていないようだった。ドアのすぐ近くまで来て、犬居の声が聞こえてきた。
「宮瀬ちゃんはさ、勝手だよ。他の人のことも、もっと考えてよ」
犬居のそんな声が聞こえてきて、思わず足が止まる。それと同時に、何を言ってるんだという考えが頭をよぎった。
なんで、犬居がそんなことを宮瀬に言ってるんだ。なんで、宮瀬がそんな風に言われなきゃならない。
いくつかの疑問が出てくる中、今日、犬居が見せた一瞬の真剣な顔は、こういうことを言いたかったからかと思い当たった。だけど、宮瀬と犬居にそんな関係はない。だからこそ、どうしてという疑問が出てくる。
犬居も宮瀬も俺のことに気付いてはおらず、犬居はさらに話を続けていく。
「自分が今何してるのか、分かって……」
「おい」
犬居の言葉が最後まで言われる前に、自動ドアをくぐってその先を止めた。宮瀬も犬居も、勢いよくこっちを向く。一瞬見えた宮瀬の顔には、自嘲の表情が見えた。
「何してんだよ」
自然と、口調がきつくなり、睨みつけるようにして犬居の方を向いた。犬居も、聞かれたことに戸惑った様子を見せることなく、俺のことをきつい視線で見ている。
「別に」
犬居はそれだけ言うと、くるっと背を向け、自分の自転車に鍵を差し込んだ。
「は? 別にってことないだろ」
「お前も、自分が何してんか分かってんのかよ」
自転車の鍵を開けた犬居が、こっちを振り返って、きつい口調で尋ねてきた。意味が分からず、俺も自然と眉を寄せる。
「分かんないならいいよ」
「何なんだよ。おい」
答えない俺に、犬居は素っ気なくそう告げ、俺が止めるのを無視して自転車に乗って帰っていった。しばらくその後ろ姿を見ていたが、すぐに後ろにいる宮瀬のことが気になって、そちらの方を向く。宮瀬は、さっきと同じ自嘲の笑みを浮かべて、肩をすくめていた。
自転車を押しながらゆっくりと歩き、横の宮瀬の様子を窺った。宮瀬は原付には乗ってきておらず、今日は友達と一緒にバスで来ていたらしい。夜も遅いし、さっきのことも気になっていたので、今日は送っていくことにした。
「犬居、何て言ってたんだ?」
歩きながら尋ねると、宮瀬は首をひねって少しの間考える素振りを見せる。
「永井さんのこと、とか?」
わざと疑問形で答える宮瀬に、俺は溜め息をついた。
「悪い。あいつらに、言うんじゃなかった」
「んーん。別にいいよ。古賀さんが、何か他の意図あって言ったんじゃないって分かってるし。それに、当然っていえば当然だからね。ああいうこと言われて」
そう言って、宮瀬はまた自嘲の笑みを漏らす。それを見て、どうしようもない気持ちになった。
松木と犬居には、以前に永井さんのことを言ったことがあった。何でか、松木が『最近変だぞ』と異様に聞いてきた時があって、聞かれることに面倒になって話したんだ。だけど、そのことを話したのはだいぶ前で、その時にはまだ宮瀬と永井さんは付き合ってなかったはずだ。どうして犬居が、宮瀬と永井さんが付き合ってるということを知ってるんだ。
何より、犬居は宮瀬のことを嫌ってなんかいなかったはずだ。宮瀬と元彼氏のことは犬居も知っていたし、そのことでは宮瀬の肩を持っていた。あいつが他人に向かってあんなことを言う人間でないということくらい、この三年間でよく分かっている。それが自分の気に入っている人間であれば、なおさら。
「ほんと、悪かった」
「いいって。古賀さんが悪いんじゃないよ。っていうか、別に犬居さんが悪いってわけでもね」
「普通、ああいうこと言う方は悪者になるんだよ」
「それは古賀さんが私の知り合いだからでしょ」
宮瀬が、空元気のような笑い声を漏らす。
それ以上この話をする気が両方ともになく、宮瀬の家に着くまで妙に黙ったまま、二人ともその道のりを歩いた。
マンションの前まで来ると、宮瀬が「ありがと」と礼を言ってきた。それにいつものように「おう」とだけ答える。宮瀬が「じゃあ」と背を向けようとしたところで、俺が宮瀬を呼び止めた。自転車を一旦止めて、振り返った宮瀬に近付く。
「気にすんなって言っても無理かもしれないけど、犬居が言ったこと、深く考えんなよ」
「ん……」
元気のない笑みを浮かべて、宮瀬が頷いた。
こんな顔を、今まで何度見てきただろう。留学が駄目になった時も、元彼氏のことで腹を立てていた時も、永井さんのことで悩んでいた時も、いつもこんな風に笑って誤魔化していた。笑って、自分の混乱を隠していた。もうそんな風になることはないだろうと思っていたのに、今それをさせてしまった原因は、俺にある。こんな風にならないでほしいと思っていたのに。
自嘲的に笑う宮瀬を前にして、俺はどうすることもできなかった。どうにかして動いた手が、宮瀬の頭の上に乗り、そのまま手は下がっていって、宮瀬の頬に触れた。
「俺は、お前の味方だから。何があっても。だから、心配すんな。犬居が言ったことも、気にする必要ない」
「……うん」
宮瀬が、さっきよりも少しだけ元気のある顔で笑った。それに安心して、俺も笑みが漏れる。手を離し、「じゃあな」とその手を上げた。
「ん。ありがと」
「おう」
「気をつけてね」
「ああ」
手を振ってくる宮瀬に俺も振り返して、自転車に乗った。
家に帰ってから何度か犬居に電話を掛けたが、一向に繋がらず、何度も留守電に繋がった。何度も聞いた留守番サービスの機械音に、苛立たしげに携帯を切り、それをベッドの上に放る。
一体、何なんだ。あんなことを言った理由があるなら、さっさとそれを言えばいい。それすらも拒否する犬居に、腹が立ってくる。このまま何の理由も聞かされなければ、宮瀬はまた混乱してしまうだろう。それだけは、避けたかった。宮瀬が普通に楽しそうにしている今は、そういうことになってほしくなかった。
溜め息をついて、もう一度犬居の番号に電話を掛ける。
「……出ろよ」
繋がった留守番サービスに溜め息をついて、届かない独り言を呟いた。