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side N
少しだけ感じた日差しに、自然と瞼が開かれていき、目を開けたすぐそばにある寝顔に笑みが漏れた。この寝顔を見るのも、一カ月ぶりだ。寝顔だけじゃない。彼女を見ることも、触れることも、すべてが一カ月ぶりだった。
『短期研究員ですか?』
『ああ。向こうの知り合いに君のことを話したことがあってね、論文も読んだらしくて、来てほしいと言っていたよ。こっちが夏休みに入る、一カ月ほどだがね』
『一カ月、ですか』
『せっかくの話だから、どうかね? もう、反対されることもないんだろう?』
『……考えておきます』
夏に入る前、三神教授から研究員の話を聞かされた時、まず最初に浮かんだのは彼女のことだった。出会った頃、彼女は自身の夢でもあった留学が駄目になって、その時期に元彼氏が留学に行って、叶わなかった自分の夢を思い出しては自嘲の笑みをもってそれをごまかしていた。今でも、元彼氏にあからさまな自慢めいた話を目の前でされて、腹を立てている時がある。そんな彼女を残して、自分は行けるのだろうかと思った。それを抜きにしても、彼女と離れる一カ月、彼女に会いたいと思わないでいられるだろうかと考えた。
それでも、出した答えは、話を引き受けるというもので。その答えには、少なからず彼女からの言葉も影響していただろう。
引き受けた結果、こっちを発つ前は、少しだけバタバタとした。短期入国のためのビザ免除申請やら、アパートの手続き、研究の準備に加えて通常の授業も。それから、離婚の方もなかなか進まず、結局は未だ婚姻関係を結んでいる状態だ。
『会いたかった』
昨日彼女が言ったこの言葉が、この一カ月俺自身が思っていたことだ。去年までの彼女のことを考え、連絡は着いたその日と帰る便を知らせたくらいだった。それだけで平気なわけもなく、結局は会いたいと思っている自分がいた。幸いなのは、彼女も同じことを思っていたということだ。
隣で気持ち良さそうに眠る彼女を見て、そっと髪を撫でる。そろそろ朝食の準備でもしようかと思ったが、彼女の寝顔を見ているうちに、今日はこのままでいようと考え直した。今日は、ゆっくりと過ごしたい気分だ。
エアコンのタイマーが切れていたので、少し暑さが感じられた。一旦ベッドから抜け出して、寝室のベランダの窓を少し開け、もう一度ベッドに戻る。ベッドが少し沈んだことに気がついたのか、彼女が少し声を漏らしてゆっくりと目を開けた。
「おはよう」
「ん……。お、はよ」
まだ少し眠たそうにしながら、目を数回瞬きさせて、彼女は力の抜けた笑みを見せた。
「んー」
うなりながら、彼女がこっちに身体を寄せる。
「まだ眠いの?」
「んーん。永井さんが横にいるなあ、と思って」
「何それ」
彼女の言葉に笑うと、彼女も同じように笑った。
「よかった。どこにも行ってなくて」
枕に顔をつけたまま、こちらを見上げて、嬉しそうに笑みを浮かべて言った。
「どこにも行かないよ」
髪に触れながら言えば、彼女はもっと嬉しそうな顔をする。
「朝、どうする?」
「んー。あ、そういえばね、近くに新しくパン屋ができてたよ。行ってみよ?」
「パン屋? そっか。いいね。行ってみようか」
彼女の言うパン屋を俺は知らないが、たぶん俺がいない間にできたんだろう。
行くことを決めてからは、もう少しだけベッドでゆっくりとしてから、簡単に準備をして部屋を出ることにした。
パン屋は歩いて行ける距離にできていて、個人経営のようだった。ちょうど焼き立てのものがあがっていたので、その中からいくつかを選んで料金を払った。帰りに近場のレンタルショップでDVDを借りてから、家に帰ることにした。
「おいしそ」
テーブルに並べられたパンを見て、彼女は笑みを浮かべた。彼女の前にはパンの他に紅茶の入ったカップが、俺の前にはコーヒーのカップがある。そのカップは、以前一緒に買い物に行った際、彼女が欲しがった同じデザインで色違いのものだった。普段は揃いのものを欲しがらない彼女にしては、珍しいことだと思ったのを覚えている。カップならすでに家にあったのだが、彼女がそういうものを欲しがることが珍しく、それに嬉しく思ったのも事実で、遠慮する彼女を無視して買うことにしたのだった。
「いただきまーす」
彼女が両手を合わせて食べ始めたのを見て、俺もコーヒーに口をつけた。パンを一口食べたところで、彼女が「おいしい」と顔を綻ばせる。
「そういえばさ、新学期なんだけど、」
「うん?」
彼女と同じようにパンをかじりながら口を開くと、彼女は飲んでいた紅茶のカップをテーブルに置いて、こちらに顔を向けた。俺もパンを皿に置いて、コーヒーを一口啜る。
「また君の大学に行くよ」
「え? そうなの?」
「うん。一応履修要項に載ってたんだけど、やっぱり気付いてなかったね」
今初めて聞いたというような顔をする彼女を見て、少しおかしくなって笑ってしまう。
夏前の学期では彼女の大学で授業はなかったが、去年の様子から今年も後期の授業を申し込まれていた。特に断る理由もないのでそれを承諾し、ちゃんとその旨が彼女の大学の履修要項に載っているはずだった。彼女の大学は前期と後期で履修が別々になっており、そのことに気付かないかなとは思っていたが、どうやら本当に気がついてなかったらしい。
そのことを言えば、彼女は少しだけむくれて、後期の分は見てないのだから仕方ないと口にした。
「でもさ、気付いてたとしても、どうせ取れないよ。もう永井さんの授業で単位取っちゃてるんだから」
「うん。そうだけどね」
「ものすごーく惜しい点数でしたけど」
紅茶を啜りながら、彼女がじとっとした目でこちらを見てきた。彼女の言ってる意味は分かったが、反論はせずに肩をすくめて俺もコーヒーを啜る。それでも、彼女は冷たい目を止めない。
「初めの授業で寝てたのと最後の授業に遅刻してきたので、0,5点ずつ引いて、99点。妥当だよ」
「何なの、その99って。あと1点くらいくれたってよかったじゃん」
「だめ」
「けち」
彼女がこちらを見ることを止めないので、仕方なく以前にしたのと同じ説明をすれば、彼女はさらにむくれる。
授業態度やレポート内容だけでいえば、彼女の評価に文句のつけどころはなかった。ただ単に、そのまま100点にしてしまうのは何となく癪で、99という点数にした。それを知った彼女は職権乱用だと拗ねたが、寝ていたのと遅刻は本当のことなので、それほど乱用でもないだろうと勝手に納得している。
「ほらほら、拗ねない拗ねない。パンあげるから」
「なにそれ」
自分のパンを半分にちぎって彼女の皿に置いてやると、彼女はこちらを睨みながらも笑みを浮かべた。
遅めの朝食を終えた後は、借りてきたDVDを見ることにして、昨日彼女が言っていたようにのんびりと過ごすことにした。残暑が厳しいとはいえさすがに9月になっているので、午前中はまだ窓を開けるだけで過ごしやすくなる。
「もうすぐ学校なんだねー。やだなー」
ソファで並んでDVDを見ている時に彼女がそんなことを漏らして、頭を俺の肩に乗っけてきた。
「早起きできるの?」
「がんばる」
できる、と宣言はしない彼女に思わず笑ってしまう。彼女もおかしそうに笑って、肩から頭を離した。
「そっか。早いな。もう一年経つんだ」
「だね」
彼女と会った頃のことを思い出して言えば、彼女も何のこと言っているのか分かったようで、俺の言葉に頷いている。
「もうすぐで終わるから」
「ん……」
この言葉も、何を指しているのか分かったようで、彼女はもう一度小さく頷いた。
もともと住んでいたマンションも解約したし、家にあった荷物も万里子の実家に送った。あとは、書類を提出するだけだ。それがなかなか進まないのだけど、それでも後少しだ。これ以上こんな関係を続けても意味がないということくらい、万里子も分かっているだろう。
何も言わなくなった彼女が、また頭をこちらに寄せた。彼女を見下ろせば、にこりと微笑まれる。それに笑みを返して、一度だけ唇を合わせた。顔を離すと、彼女は嬉しそうに笑って、顔をテレビの方へと向ける。
俺は彼女の頭にもう一度口付けて、一カ月ぶりに会えた彼女との時間を楽しむことにした。