2
side M
「永井さん」
人の多い空港のロビーで、スーツケースを引っ張って歩いてくる永井さんに向かって、小さく手を振った。永井さんもこっちに気付いたようで、顔に笑みを浮かべて手を振り返しながら歩いてくる。
「お帰り」
「ただいま」
一か月前と変わらない笑みで、一カ月ぶりの永井さんが目の前に立った。
「疲れた?」
「ちょっとね」
少しだけ困ったように笑って、永井さんは私の頭にぽんっと手を置いた。そして、もう一度「ただいま」と口にした。見上げた先に永井さんの笑顔があって、私も自然と顔に笑みが浮かんでいた。
「あー。怖いなあ」
「大丈夫だって。ちゃんと免許取ったから」
駐車場に着いて、永井さんが苦笑いを漏らす。運転席に座ったのは、永井さんじゃなくて私だった。
今年の4月から、私は教習所に通っていて、夏休みに帰った地元の免許センターで免許を取っていた。永井さんは、一カ月もの間車を空港の駐車場に入れるのを嫌がって、行きは電車を使って空港に向かった。それで、今日は免許を取った私が永井さんを迎えにきたのだ。
「じゃあ、永井さんが運転する?」
「それはちょっと無理。飛行機であんまり寝れなかったから、少し疲れてるんだ」
「なら、大人しく乗ってください」
「はいはい」
おかしそうに笑って、永井さんは普段とは違う助手席に乗り込んだ。
それでも、怖がってるのか何なのか、マンションまでの道中永井さんが眠ったりすることはなかった。
『短期研究員?』
『うん。一カ月くらいだけど』
『そっか。頑張ってきてね』
『いいの?』
『いいに決まってるじゃん。研究することが仕事でしょ?』
私は、運転しながら一か月前の永井さんとの会話を思い出していた。
学校が夏休みに入ってから一カ月の間、永井さんにはヨーロッパの大学から短期研究員としての依頼がきていた。それは、もちろん、永井さんが認めてもらえたからこそ来た依頼なんだから、私は永井さんがそれを受けることに異論はなかった。なのに、何でか永井さんは少し困ったようにしていて、何度か確認をしてきたくらい。理由を聞けば、自分が海外に行くことを、私が嫌がるんじゃないかとも言っていた。
『永井さんは、元彼と違うでしょ』
そう言った私に、永井さんは『ありがとう』と笑った。
マンションに着いて、まず初めにエアコンをつける。むっとしていた空気が徐々に冷えていく中、永井さんがスーツケースを仕舞ったり、洗濯ものを出したりするのを手伝った。
「レモネードでも作ったげる」
「ん。ありがと」
片付けが一息ついたところで、永井さんをソファに座らせて、私はキッチンに立った。迎えに行く前に買ってきておいた材料で、簡単に冷たいレモネードを作る。氷の入ったグラスに注いだそれを二つ持って、リビングに戻ると、座っていたはずの永井さんの身体の上半身は横になっていて、私が来たことにも気付いてないようだった。
グラスをテーブルに置いて顔を覗き込むと、永井さんは目をつぶって、規則正しく息をしていた。
「寝ちゃった」
ソファの肘かけに腕を置いて、その上に頭を乗せた格好で、永井さんは眠っていた。寝室からブランケットを持ってきて、半分に折って冷えないように掛けてあげる。私はソファではなくて、床に敷いてあるラグに座った。そこまでしても、永井さんが目を開けることはない。よっぽど疲れてたんだろう。
「お帰り」
少しだけ短くなった永井さんの髪に触れて、ソファに腕を置いて永井さんの寝顔を見る。
この一カ月、永井さんから連絡が来ることはなかった。それは、永井さんなりの配慮だと分かっていたし、私も私で実家に帰ったりバイトだったりで、ゆっくりと連絡を取り合う時間があったわけでもなかった。それでも、ふとした時に、永井さんに会いたいなと思ったことはある。そんなこと、元彼が留学に行っていた時はこれっぽっちも思ったことはないのに。
「お帰り、永井さん」
もう一度、さっきと同じ言葉を口にして、ソファから腕を離した。
それから永井さんが起きたのは一時間程後で、その頃には外の日が夕焼けに変わっていた。久しぶりに二人でキッチンに立ち、その日の夕飯を作る。その後は、いつものようにお風呂に入って、髪を乾かして、今度は二人してソファに座ってゆっくりとした。
「そうだ。お土産買ってきたよ」
飲んでいた缶ビールをテーブルに置いて、永井さんがソファを立った。寝室に行ったかと思えばすぐに戻ってきて、緑のビニール袋に入れられたものを私に差し出す。私も持っていたコップをテーブルに置いて、それを受け取った。どうやら、袋の中身は本のようだ。袋の表紙に、bookshopという単語が書かれている。
「わ。すごい。写真集?」
「うん。都市から地方の街や村まで撮ってあるんだって」
「へー。こういうの好き」
「よかった」
永井さんがソファに座って安心したように笑い、私も笑みを返した。
永井さんがお土産にとくれた写真集は、永井さんが行っていた国の街や村なんかが撮られているものだった。時たま地元の美味しいお店や観光スポットの写真と一緒に文も載せてあって、読んでても楽しい。
「ありがと」
「どういたしまして」
にこりと微笑んで、永井さんはテーブルの缶ビールを手に取る。そして、それを一口飲むと、また私の方を向いた。
「そういえば、昨日、バーベキュー行ってたんでしょ? 楽しかった?」
「うん。楽しかったよ。私たち以外にも大学生っぽい人、けっこういた」
夕飯時に話したバーベキューのことを聞かれ、一旦写真集をテーブルに置いて頷く。
「大学生は9月でもまだ夏休みだからね」
「うん。普通に遊びに行っても、やたら大学生っぽい人目につくもん」
頷きながら、テーブルに置いておいたコップを手に取り、お茶を一口飲む。
「ごめんね。夏休みはほとんど会えなくて」
いきなり永井さんに謝られて、びっくりして隣を向く。永井さんは、缶ビールを手にしたまま申し訳なさそうな顔をしていた。それを見て、そんなことないと首を横に振る。
「謝んなくていいよ。仕事だったんだから」
「それでもさ、新学期始まってからはまとまった休みもそんなになかったし、どっか行ったりもしてないでしょ?」
「そうだけど。でも、ほとんど毎週会ってたし」
これは、本当のことだった。新学期が始まって、永井さんがうちの大学に来なくなってからも、毎週の金曜日から日曜日はほとんど会っていたし、そのことで不満を覚えたことなんてなかった。そりゃあ、まあ、夏休み中に会いたいなと思ったことはあるけど。それでも、わざわざ謝られるほどじゃないと思う。
「ま、そうだけど。こんな時期になっちゃったら、旅行っていう時期でもないしね」
永井さんは残っていた缶の中身を一気に飲みほして、空になったそれをことんとテーブルに置く。それから、もう一度私に向かって「ごめんね」と言った。
「謝らなくていいって。それに、旅行とかよりも、二人でゆっくりしてた方がいいよ」
「そうなの?」
「うん。会えなくてさみしかったことは、さみしかったからね。だから、旅行とかよりも、のんびりしてたい」
「そっか。寂しいとは思ってくれてたんだ」
「そりゃあ、まあ」
永井さんの言葉に頷きながら答えると、永井さんは少しだけ嬉しそうな顔をする。なに、と目で尋ねても、永井さんは笑って首を横に振るだけだ。
「変なの」
言って、私も残っていたお茶を飲んでしまって、そのコップと空き缶を手にソファを立ち上がった。それらをキッチンに持っていって、リビングに戻ってきたところで、立ち上がっていた永井さんにぎゅっと抱きしめられた。いきなりで驚いてしまって、思わず声が出る。
「どうしたの?」
笑って尋ねながらも、私も自分の腕を永井さんの背中に回した。
「ん。俺も、会いたかったなと思って」
「よかった。そう思われてて」
私の答えに、永井さんも小さく笑う。それから髪を撫でられたかと思うと、その後に唇が触れる感じがして、回していた腕を緩めて上を向いた。こっちを見下ろしていた永井さんと目が合って、何か言う間もなく、今度は唇に永井さんのそれが触れる。触れた唇はすぐに離れたけど、またすぐ短く口付けられた。永井さんに触れることも、抱きしめられることも、キスされることも、全部が久しぶりで、嬉しくなる。
「会いたかった」
ぎゅっと抱きついて言えば、永井さんも応えてくれるように抱きしめ返してくれる。抱きしめる腕が解かれると、そのまま手を取られて寝室まで引っ張られた。ベッドの近くで振り返った永井さんが、もう一度キスをしてくる。
「疲れてたんじゃないの?」
「だいぶ治ったよ。さっきまでゆっくりしてたからね」
笑みを浮かべて言われ、永井さんの手が背中に回る。そのまま抱き寄せられて、今度はゆっくりと唇を重ねて、触れ合ったままベッドに沈み込んだ。