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それからしばらくして、もうそろそろ終電かなという時間に、俺は自分の腕時計に目をやった。案の定、時計の針は終電近くを指していて、そろそろここを出ないとやばい時間になっていた。美香ちゃんも時計を見ていた俺に気付いたようで、ちらっと俺の後ろにあるカラーボックスの上の時計を見やる。
「……帰る?」
「そうだな。終電だし」
言いながら立ち上がろうとすると、くいっと弱い力で服の袖を引っ張られた。何だと思って横の美香ちゃんを見ると、視線をテーブルに下げた美香ちゃんが袖を引っ張っている。
「どうしたの?」
立つのを止めて、もう一度隣に座りなおす。尋ねても美香ちゃんは視線を下げたままで、何も言わない。どうしようかと思っていると、ぽつりと美香ちゃんが呟いた。
「……帰って、ほしくないな」
「え?」
思わず聞き返した俺に、今度はちゃんと目を合わされた。じっとこちらを見て、頑張ってる感じの美香ちゃん。
「博己くん、私のこと、好き?」
「え? うん」
さっきの質問とはまったく繋がっていない美香ちゃんの言葉に困惑しつつも頷く。それなのに、美香ちゃんの顔はどこか心配げだ。どうしたのかと思って、言葉には出さずに首を傾げて問う。
「博己くん、すごく良い人だけど、なんか、良い人すぎて、やだ」
「え?」
「だって、私は一人暮らしなのに、家に行きたいとか言わないし。その、男の人って普通そうなのかなって思ってて、友達もそれって変って言うから。博己くん、もしかして、私のことそんなに好きじゃないのかなって思ったりもして……」
目を合わせて、少しだけ泣きそうな顔で言われて、『ああ』と美香ちゃんの言葉に納得した。
確かに、俺は美香ちゃんの誘いがなかったら、美香ちゃんの家に来るなんてこと、絶対になかっただろう。そして、自分から行きたいと言い出すこともなかっただろうと思う。それは、美香ちゃんのことが嫌いだからとかではなくて、そこまで気持ちがついていっていなかったからだ。『さみしい』と身体全体で表現する美香ちゃんを見て、自分の中の中を見ているようだった。心のずっと、ずっと奥に仕舞ってある、『さみしい』という感情。見せてはいけないと、出してはいけないと、頑なに仕舞いこんであるその感情を、美香ちゃんはいとも簡単に出している。自分のものは無視できるけど、美香ちゃんのそれを無視することはできなかった。
「泊まって、いい?」
泣きそうになっている美香ちゃんに問えば、美香ちゃんはその顔のまま「うん」と頷いた。
ベッドに二人で並んで座り、ゆっくりと唇を重ねる。
「うれしい」
二人が重なった時に、泣きながらそう言った美香ちゃんに、心の奥の奥が痛んだ。
***
「最近、うまくいってるのか? 永井さんと」
月曜日のバイト終わり、宮瀬と二人、自分の定位置に座って、尋ねてみた。自分の原付に座っていた宮瀬は、『いきなり何だ』という顔をしている。
「なに、いきなり」
表情通りの言葉を口にして、おかしそうに笑みを作る宮瀬。それでも宮瀬は右手に持っていた携帯をコートのポケットにするっと入れて、「まあねえ」と嬉しそうに笑った。
「最近は、前より会えてるから楽しいかな」
にこにことした顔を崩さない宮瀬を見て、どこか心の奥の奥が鈍く痛む気がした。この間、美香ちゃんが見せた感情が俺の中にもあって、閉ざしている扉をがんがんと叩いているような、そんな痛み。そんなもの、今まで感じることもなかったのに。
「よかったな」
持参したペットボトルのお茶を飲んで言えば、宮瀬はまたしても嬉しそうな顔で頷く。
「古賀さんがいたからだよ」
「別に俺は何もしてないけど」
「してくれてるよー。古賀さんがいてくれるから、いつだって変わらないって言ってくれるから、ちゃんと自分の考え通そうって思えるもん」
「なんだ、それ」
ペットボトルを持ったまま、宮瀬の言葉に笑ってしまう。宮瀬も笑っていた。
二人して笑っている間は、さっき感じたような痛みが襲ってくるようなことはなかった。その代わりに、痛みとは別の、それよりも大きいものが扉をぶち開けようとしている感覚がする。こんなもの、俺は知らない。
宮瀬の方も、そんなことに気付くわけがなく、呑気にぶらぶらと足を揺らして車体にこつこつと当てている。
「今月末楽しみだねー」
「俺は恐怖しか感じてない」
「何それ。せっかくみんなで行くんだから、楽しんだらいいじゃん」
「無理」
即答した俺に、宮瀬はまた声をあげて笑った。
宮瀬が楽しみと言っていることは、今月末に計画しているバイト仲間との旅行だ。仲の良い数人で車を借りて、隣県にある遊園地に行く予定だった。絶叫系が有名なそこを宮瀬や他の女の先生、中山なんかも楽しみにしていて、絶叫系が苦手な俺と谷原だけがそれを嫌がっていた。
「ちゃんと美香ちゃんに言った?」
足を揺らすのを止めた宮瀬が、意地の悪い笑みを浮かべてこっちを向く。それに気がついて、俺は何ともないようにして頷く。
「おう。『いいなあ』って言われた」
「おー。なんだ、そっちもうまくいってんじゃん」
にやにやとした顔で言い切られて、「まあな」としか返せなかった。
うまくいってるんだろう。美香ちゃんとは。あの日、二人同じベッドで目が覚めて、お互い経験がないわけじゃないのに妙に気恥かしくて、それに二人で笑って。一緒に朝ごはんを食べて、昼過ぎに別れて。あれからもデートはしているし、美香ちゃんの家には行った。どこから見ても、うまくいっている大学生カップルだ。
自分たちが普通にデートを重ねていることを考えて、宮瀬の方はどうなんだろうと思った。二人ともが同じ気持ちとはいえ、永井さんの立場はまだ既婚者だ。永井さんが新しい部屋で暮らしていて、二人が恋人のようにそこで過ごしても、その状況は変わってない。俺たちのように、普通にデートなんてできているんだろうか。
またしても足をぶらつかせる宮瀬に尋ねてみようかと思ったが、宮瀬の顔は本当に以前と比べてすっきりしている。そこに、今の永井さんとの関係に不満や不安を持っているようには感じなかった。それなのに、俺から好奇心ともいえる質問をする気にはなれなかった。宮瀬の言葉以上に、二人はうまくいっているんだ。
そういう結論に至って、また、今度は、鈍い痛みとそれより大きいものが扉をがんがんと叩く、あの感覚に襲われた。一遍に二つもの感情に扉を叩かれて、勢いでそれが壊れてしまいそうになる。
「帰るか」
「ん」
何度も叩かれる扉を無理やり押さえつけて、ペットボトルを鞄に放り込み、立ち上がる。宮瀬もひょいっと原付から降りて、座席の下の収納からヘルメットと手袋を取り出し始めた。
二人ともが準備を終えて、それぞれ自転車と原付に乗る。
「じゃあな」
「うん。また、水曜日に」
「おう」
お互い手を振り合って、俺から先に自転車を漕ぎ始めた。すぐに、宮瀬が原付で俺を追い越す。大通りに出ると、宮瀬はすでにその先の交差点まで行っていた。
『じゃあな』
『うん。また、水曜日に』
こんな、さっきのような会話を今まで何度も繰り返して、変わらない日常を送ってきた。俺に美香ちゃんがいても、宮瀬に永井さんがいても、それは変わらない。これからだって、こうやって続いていくんだろう。
宮瀬は、もうあの身勝手彼氏じゃなくて永井さんを見ていて、今はもう以前のような訳の分からない感情で苛々することもない。それは、良いことだ。
だけど、それがなくなってしまえば、俺と宮瀬の関係が変わってしまうんだろうか。答えは、ノーだ。以前のようなことがなくても、俺と宮瀬は変わらない。鈍い痛みは、変わりそうなそれに怯えてできた、さみしさの感情だ。
俺と宮瀬は変わらない。宮瀬は永井さんを見ている。きっと、扉を叩く別の何かは、これが原因だ。宮瀬は、きっと、これからも俺を見ない。永井さんと俺は、別の位置に立っていて、永井さんを見る宮瀬に俺は見えない。それでも、俺と宮瀬は変わらない。
『じゃあな』
『うん。またね』
変わらない言葉を何度も交わして、俺と宮瀬は変わらないまま、三月が終わって、三回生になって、春になって、夏が来て、一年というサイクルが回っていった。