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これは恋なんだけど  作者: 空谷陸夢
Story 21. 彩られる明日
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研究室に着くと、木田を含めた何人かが絶望的に落ち込んでいた。ほとんどの院生はバックアップをとってあったらしく、それほど損を被ることはないらしい。まったくバックアップを取っていなかったのは、木田を含めた二、三人くらいだった。

パソコンの復旧は、結局午後を過ぎるまで掛かった。トラブルの原因は、パソコンを管理している元の回線にバグが侵入したということのようだった。どうやら学生部の方で手伝いをしていた学生が無断でそこのパソコンに私用のソフトをインストールしたらしく、それがバグの原因ともなったらしい。聞けば、他の研究室でも似たようなトラブルが発生したという。

それが解決して帰れると思ったのも束の間、俺が研究室に来たのをいいことに、院生たちが列をなして論文を見てくれと言ってきた。適当なところで帰ろうにも、院生が研究室に集合しているおかげで、その機会を窺うところではない。院生と一緒になって研究室を出た頃には、時間は3時近くになっていた。



「先生、さよーならー」

「今度からはちゃんとバックアップ取っとけよ」



キャンパスで別れる際に、手を振ってくる木田に忠告し、院生に別れを告げた。

駐車場に止めた車のところまで来ると、鞄から携帯の鳴る音がした。彼女からかなと思いながらそれを取り出すも、掛けてきたのは彼女ではなく村瀬だった。昨日のことかと考え、溜め息をつきながら通話ボタンを押す。



『今日、7時過ぎにお前のとこの駅前な』



あいさつも抜きに開口一番でそう告げられ、またしても溜め息が出た。



「勝手に決めるなよ」

『勝手に決めなかったら、どうせお前来ないだろ。話したいことあるんだから、来い! じゃなかったら、お前んちに押し掛けるぞ』



村瀬の本気の言葉に逆らえるわけもなく、了解の返事をして電話を切った。


マンションに着いて、さすがに彼女も帰ってきているだろうと思っていたが、彼女は部屋にはいなかった。リビングのソファの隣に小さめのボストンバックがあることから、一度は家に来ていることが分かるも、当の本人がここにはいない。携帯で電話を掛けながら、冷蔵庫から水を取り出す。その時に、小さいケーキ箱が入っているのが見えた。これも彼女が買ってきたんだろうか。



『もしもし?』



数回のコール音のあと、彼女が電話に出た。水を一口飲んで喉を潤してから口を開く。



「もしもし? 今どこにいるの?」

『あ、ごめん。駅前にいる。今から帰るね』



彼女の後ろはがやがやとしていて、館内放送のようなものも聞こえる。



「ああ、いいよ。俺が行くから。今日、村瀬から連絡があって、どうせ駅前に行かなきゃならないんだ」

『そうなの?』

「うん。夕飯一緒になるけど、いい?」

『うん、いいよ』



彼女から快諾の返事を聞いて、電話を切る。戻ってきた格好のまま部屋を出て、今度は車ではなく地下鉄で彼女のいる駅前まで向かうことにした。どうせ村瀬の指定する店は居酒屋だ。車で来たと言えば、またぎゃあぎゃあわめかれる。それを避けるためにも、車は置いていくことにした。


彼女と駅前で待ち合わせ、駅ビルでぶらぶらとして時間をつぶす。

7時近くになって村瀬から連絡が入り、指定された店に向かった。思った通り、村瀬の指定した店は居酒屋で、その店は初めて三人で食事をしたところでもあった。分かっていたといっても、やっぱり呆れてしまう。それに笑う彼女の手を引っ張って、店の中に入った。



「春希ちゃん、久しぶりー」

「どうも」



にこにこ顔で彼女に手を振る村瀬に、彼女の方も笑顔で返す。村瀬の向かいに腰を下ろしたところで、店員が注文を取りにきた。村瀬の望み通り、俺はビールを彼女はソフトドリンクを頼んで、料理は村瀬が適当に注文していった。

早々と飲み物だけが運ばれてきて、とりあえず三人ともそれを口にする。



「で、話ってなんだ?」



ジョッキを置いて、ジョッキの半分以上を一気に飲んだ村瀬に尋ねてみる。店員がすだれを開けていくつかの料理を運んできたのを、彼女が受け取ってテーブルの中央に持ってくる。村瀬はにこにこ顔のまま店員がすだれを閉じるのを待って、店員がいなくなると更に笑みを深くした。



「新しく舞台が決まった」

「へえ、よかったな」



舞台をやることが村瀬の仕事なので、特に驚きもせずに言葉を返す。すでにテレビドラマでも主役を務めるほどになっている村瀬には、それなりに仕事も入ってくるだろう。彼女の方は、俺とは反対に笑みを浮かべて「すごいですね」と返している。村瀬も笑顔で「ありがとう」と返し、俺の方を向くとそれを意地の悪い笑みに変えてきた。



「今度はシェイクスピア劇だぞ」

「あのシェイクスピアシリーズでか?」

「おう」



どうだ、と言わんばかりに、村瀬が胸を張った。これには俺も関心が寄せられて、驚いてしまう。彼女の方も、きょとんとして今の言葉に驚いているようだった。

村瀬が今度出演するというシェイクしピアシリーズの舞台は、有名な演出家が総合芸術監督となり、シェイクスピアの舞台をやっているものだった。名もない役者がいきなり抜擢されたり、テレビで有名な役者でも端役しかやらせてもらえなかったりと、いろいろと話題に事欠かないシリーズのものでもあった。基本的には、その演出家は演技力のある役者しか使わないと聞いている。それに、村瀬が出演するというのだ。



「し、か、も、主役ー!」



ピースサインをこちらに向けて、満面の笑顔で報告してくる村瀬。



「すごいじゃないですか」

「ありがとー」

「観にいきますね」

「まじ? じゃあ、チケット送るよ」



彼女も村瀬の嬉しさにあてられたようで、にこにことしながら言葉を交わしている。



「よかったな」

「だろー? もう、まじで嬉しくてさ」



村瀬は残っていたビールも一気に飲みほし、残りの料理を持ってきた店員に追加のビールを頼む。その顔は、さっきから笑みが浮かびっぱなしだ。



「よかったですね」

「うん。ほんと、よかったよ。あ、そういえば、春希ちゃん、なんでこいつの家のこと知ってたの?」



嬉々とした調子のまま、村瀬が無神経にもそう尋ねる。彼女も少し困った顔をしていて、止めようと口を開きかけたところで、彼女の方が早く口を開いた。



「別れたんです。彼氏と。それで、一応共通の友達、に永井さんのこと教えてもらって」



笑いながら、『共通の友達』の部分には疑問符をつけて、彼女が簡単に経緯を話した。話を聞いた村瀬がはっとなるも、すっきりとした表情の彼女に気付いたのか、すぐに先ほどのような笑顔に戻る。



「そうなんだ。じゃあ、今日はお祝いだねー」

「意味分かんないぞ、お前」

「いいだろ、別に。お前がしないなら、俺と春希ちゃんだけでする」



女のように「ねー」と首を傾げながら彼女に同意を求める村瀬を見て、呆れの溜め息が漏れる。彼女の方はおかしく笑いながら、村瀬の言葉に同意していた。


それから店を出たのは11時過ぎで、家に来たいと我儘を言いだす村瀬をホテルに行かせ、俺と彼女の二人は地下鉄で家に戻った。地下鉄でも、外に出てからも、彼女は笑いながら俺と話をしていたが、その途中ずっと少しの距離を開けながら歩いていた。彼女がそうする理由も分かるので何も言わないが、それはそれで満足のいくものでもなかった。

家に帰ってくると、昨日と同じ順番で風呂に入り、昨日のようにリビングで髪を乾かす。彼女が俺の髪を乾かし終わって、それを片付けようと立ち上がる彼女の腕を引っ張り、ソファに座る自分の腕の中に閉じ込めた。



「どうしたの?」



彼女は驚いた声をあげたものの、そこから抜け出そうとはせず、ドライヤーを前にあるテーブルに置いて問い掛けてきた。



「んー? 少し、抱きしめたくなって」

「なにそれ」



俺の答えに彼女はおかしそうに笑って、こちらに身体を寄せてきた。乾かしたばかりの髪から、ふわっと良い香りがする。彼女を後ろから抱きしめ、首筋に顔を埋めた。



「君がそうするのも分かるけど、あんまり離れないでね」

「なにそれ」



おかしそうに笑ったまま、彼女は首をひねってこちらを向いた。顔を上げ、彼女に微笑みかけてからソファの背もたれに寄りかかり、彼女もこちらに抱き寄せた。



「さっきも、少しだけ距離とって歩いてたでしょ」

「それは、まあ、仕方なくない? こっちは、永井さんが住んでる場所なんだから」

「そうなんだけどね。まあ、前とは家の方向がまったく違うから、そこまで心配する必要もないけど」

「そう言われても」



彼女は笑っていた顔を引っ込めて、困ったような顔つきで首を傾ける。そんな彼女の首筋にまた顔を埋めた。



「うん。分かってるよ。単なる俺の我儘」

「永井さんのわがままなんて、初めて聞いた」



またしても笑う彼女に、「そうかな」と首をひねる。彼女が笑ったまま「そうだよ」と返してくる。

彼女の顔からは、こういう話に戸惑っている様子も見られない。笑ってこういう話ができるようになったのは、ある意味前進しているのだろうと思う。



「だめだ。眠い」

「もう寝よっか」



彼女の首筋に顔を埋めていたが、段々と瞼が下がってきた。喜ぶ村瀬のハイペースに付き合っていたからかもしれない。

抱いていた腕を解いて彼女を立ち上がらせ、自分もソファから立ち上がった。ドライヤーを片付けに脱衣所へと行った彼女を待ってリビングの電気を消し、昨日のようにベッドに二人で横になった。



「おやすみ」



そう言った彼女を引き寄せて、向かい合う形になって、俺も「お休み」と返す。彼女が嬉しそうにこちらに寄り添ってきたことに、俺も笑みを浮かべて目を閉じた。







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