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「だって、私は永井さんがちゃんと考えてくれて、こうやって家まで出てくれて、嬉しいと思ってる。ばかみたいに悩んでたくせに、永井さんと一緒にいられる時間が増えるって喜んでるんだよ。こんなんなら、もっと早く言ってくれたらよかったのにって、わがままなこと考えてる」
泣きそうな顔を俺に見せないように下を向いて、彼女は気持ちを伝えてくる。こんな風に言ってくれるのも滅多にないことで、それが俺の気持ちとも一緒で、嬉しいとか触れたいとかそういう感情が湧きあがってくる。
「そんなに考え込む必要ないよ」
顔を伏せる彼女の髪をもう一度撫でてやると、彼女がゆっくりと顔を上げた。
「俺だって同じだから。君が俺のこと考えてたって、ちゃんと分かってる。それなのに、別れたってことが嬉しくて早く言ってくれたらよかったのにって、考えてる。まあ、俺の問題の方はまだ片付きそうにないから、もう少し待ってもらわないとなんだけどね」
最後に苦笑いを漏らして言うと、彼女は泣きそうな顔で笑った。そうして、俺が何か言う前に彼女が近付いてきて、彼女の唇が自分のそれに重なっていた。軽い音をたててそれは離れ、驚く俺を見て彼女は小さく笑う。その顔に、泣きそうな表情は見られなかった。
「もう変に考えたりしないから。ちゃんと待つし、永井さんのこと信じてるから。だから、言ってよ。しんどかったり、まいったりしてる時は。永井さんだけが好きだとか、考えないでよ」
真っ直ぐ俺を見て言う彼女の言葉は、強く感じた。それと同時に、どこかで、そう思っていたのかもしれないと思った。彼女が不安に感じるようなことは、今までも避けてきた。それは俺も彼女も分かっている。だけど、どこかで、彼女よりも強く自分が彼女を求めていると思っていた。理由なんて分からない。ただ、そう思っていただけだ。自分でも気付かないうちに。
彼女が言ったのは、自分も俺を求めてるということだ。知っていたはずなのに、彼女の言葉で、どこかで違うだろうと考えていた自分に気がついた。
「君は、ほんとに」
言葉が続かない。何と言えばいいかすら、分からない。
彼女の方は、何だというように首を傾げている。自分でも何が言いたいか分からず、苦笑いを浮かべて首を横に振った。
「そうやって考えるくらい、君が好きなんだよ」
彼女の言葉に答えるような形で言葉を続けて、嬉しそうに笑った彼女の唇に口付けた。髪を撫でていた手を頭の後ろに回しこちらに引き寄せて、彼女との距離をさらに縮める。もう片方の手で彼女がかついでいるリュックを下ろして、床にそれを落とした。何度かキスを交わしてから、唇を離す。
彼女がまた首を傾げる。それには小さく笑みを返し、彼女の腕を引いて隣の部屋に向かう。
「片付いてるのか片付いてないのか微妙だね」
隣の寝室兼書斎に入ると、彼女がきょろきょろと部屋を見て漏らした。彼女の言葉はその通りなので、反論することもなく「まあね」とだけ返す。実際、ベッドは今朝起きた時に適当に整えただけだし、散らかってないとはいえ、デスクの上は資料や参考文献なんかでほとんど物を置くスペースもない状態だ。
それらを見ておかしそうに笑う彼女を引き寄せて、もう一度唇を重ねた。口付けながら、自分のコートを脱いでいく。脱いだコートを床に落としてもなお、彼女とはキスを交わしたままでいた。彼女のコートにも手を掛けて、ボタンを外していく。彼女は抵抗することもなく、俺に身を任せていた。彼女のコートも床に落として、腰に手を回し彼女をぐっと引き寄せる。反対の手は彼女の頬へと滑らせ、そのまま手を頭の後ろにやって撫でるようにして髪に触れた。彼女の手が、ぎゅっと俺の服を掴む。部屋には、キスを交わす音だけが響いていた。
彼女を押し倒すようにして、すぐそばにあったベッドにゆっくりと倒れ込む。
「優しくできる自信ないな」
一度唇を離して言えば、彼女はまたしてもおかしそうに小さく笑う。それに俺も笑って、彼女からの答えを聞く前に、また唇を合わせた。
「春希、」
キスの合間に互いの名前を呼んで、飽きることなく唇を重ねて、幾度となく彼女に触れた。
***
事が済んで、先に目を覚ましたのは俺だった。
枕に肘をついて、横で身体をこちらに向け心地良さそうに寝息をたてる彼女を見下ろす。片手で眠る彼女の髪に触れ、梳くようにしてゆっくりと撫でる。それでも彼女は小さく声を漏らすだけで、起きることはなかった。
何度も彼女に触れて、自分が彼女に飢えていたのだと自覚させられた。これまでだって毎週会っていたし、キスも交わしていた。それで十分だと思っていたのに、結局はそれだけでは足りていなかった。一度触れてしまえば止めてしまうことは難しく、もっとと求めてしまう。今は彼女の腕の下に隠れている胸元に見える赤い痕が、自分の欲求を表しているよで苦笑が漏れる。
「ん……」
何度か髪を撫でることを繰り返していると、彼女がもう一度小さく声を漏らし、今度はゆっくりとその目を開いた。
「目が覚めた?」
「……ん」
まだしっかりとは覚めてないのか、彼女は何度か瞬きをする。彼女が起きた時に止めていた手をもう一度動かして、ゆっくりと髪に触れる。瞬きをして目が覚めたらしい彼女が、気持ちよさそうに笑みを浮かべる。
「今何時?」
「ん? ちょっと待って」
枕に頭をつけたまま彼女が尋ねてきて、俺は髪に触れている手を一旦止める。身体を反転させて床に置いたはずの腕時計を探した。時計はベッドのすぐそばの床にあって、脱いだ服の上に乗っていた。それを手に取り、時間を確かめる。
「7時半前だけど」
彼女は俺の答えを聞いて、顔を枕に押し付けて「んー」とうなったかと思えば、小さく息をついて顔を上げた。
「帰んないと」
「帰るの?」
思わず聞き返した俺に、彼女は当たり前のように「うん」と頷いた。今度は俺が息をついてしまう。
「泊まっていけばいいよ。というか、泊まってほしいんだけど」
彼女はこちらを向いて、困り顔で首を傾げた。その意味が分からず目で問いかけると、彼女はその顔のまま「だって」と言葉を続ける。
「何にも持ってきてないもん。着替えとか」
それを聞いて、今度はさっきよりも大きく息をついた。肘をつくのを止めて、ごろりとベッドに仰向けになる。その時に彼女の腰に手を回し、反動を利用してぐっとこちらに引き寄せた。彼女は声をあげたものの抵抗する暇なんてなく、なすがままに仰向けになった俺の上に彼女が乗っかる。
「何でいつも何も持ってこないかな」
枕の位置を軽く調節して、彼女と目線を合わせるようにして今回のことや以前のことを思い出して指摘する。彼女はそれに何も言えないようで、視線をうろうろとさせた。
「だって、」
ようやく視線が俺のところで止まったかと思えば、彼女は少しむくれた様子で口を開いた。
「そんなの考える余裕なんてなかったし。とにかく会おうって思って」
だからしょうがないじゃん、と彼女はむくれたまま続けた。その言葉に、俺はまた溜め息をついてしまう。今度は、さっきとは違う意味でだが。彼女はそんな俺を見て、「なに?」と首を傾げた。分かっていない様子の彼女には首を横に振って答え、片手で撫でるように彼女の頬に触れた。そのまま、髪を耳にかけてやり、もう片方の手は彼女の腰に回す。
「じゃあ、今日は必要なものだけ買って、明日着替えとか取りにいこう」
「明日?」
「うん。週末、何か予定ある?」
「ううん」
「それなら、週末はここにいてほしいな」
俺の申し出に彼女はきょとんとして目を丸くしている。
「いいの?」
「だめなわけないよ」
そう答えれると、彼女は嬉しそうにして笑みを浮かべた。