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ぼんやり家でテレビを見ながら今日のことを思い出す。本当に、彼のおかげで色々とふっきれた。変にストップしていた色々なものが動き出せる気がした。メールを送っただけで何かが変わるとは思ってないけど、少なくとも一歩は前進できたと思う。
そう考えていたちょうどその時、ソファに放り投げてあった携帯が着信を知らせた。表示を見れば、番号だけ。ということは、彼氏、じゃなくて元彼氏から。いつもならそのまま無視するが、今日は違う。連絡を先にしたのは自分で、その連絡がメールだけで済むとは思ってなかった。だから、未だ振動を続ける携帯を取って、通話ボタンを押した。
「もしもし?」
『……春希?』
電話から聞こえる声に、そういえば男友達と永井さん以外にも名前で呼んでる人がいたなと思い出した。前だったら当たり前だったことを『そういえば』というように思い出してる時点で、私の中の彼氏という存在がどれほど小さくなっていってるのかを改めて思った。
電話の向こうは、以前のようにうるさい。通話口から聞こえる声には、おそるおそるといった感じが含まれているような気がした。
「なに?」
『なに、じゃないよ。どういうこと? 別れようって』
電話を掛けてきた理由なんて一つしかないのに、それを無視して問い掛けると、向こうからは当たり前に怒った口調でさっきのメールの件を聞かれた。そのことを聞かれるのは分かっていたけど、何で怒られなきゃいけないんだろうか。
「どういうことって、そのまんまの意味だけど。別れたい」
電話の向こうで息を止める音が聞こえた。改めて言われて混乱でもしてるのかもしれない。見えない向こうのことを確かめる術も、意欲もなく、私はソファに置かれていたリモコンを取って適当にチャンネルを変え始める。
『俺、前に嫌だって言ったよね。嫌いじゃないなら、別れないって。確かに、俺も他の女の子と色々あったけど……』
「色々って、付き合ってるってこと? 彼女、いるらしいね。そっちに」
向こうの言葉を遮って言えば、逆に向こうの言葉が失われた。すぐに反論してこないってことは、本当にそういう相手がいたらしい。二人の間に沈黙が流れて、音という音は、こちらのテレビの音と向こうから聞こえる騒ぐ音しかない。
『……誰が、そんなこと言ったの?』
少しして、ようやく向こうから言葉が出た。さっきまでの勢いのある言い方とは違って、真偽を確かめるような口ぶりだ。
「言えないよ。その人に文句でも言われたら嫌だし。でも、嘘ではないと思う。だって、そっちにいる人から聞いたって言ってたし」
『なに、それ。俺のこと信じてくれないの?』
「自分は散々疑ってたくせに、それ言うのって間違ってない?」
向こうが過去に古賀さんや谷原さん、その他バイト仲間と私とのことを疑っていたことを持ち出すと、相手は「だって」と言いつつも先が続かないようだった。こういう状況になって初めて、自分がどれほど私の行動にいちいち難癖をつけていたかを感じたようだ。遊びにいくと言っているだけなのにぐちぐちと文句を言い、電話はしたくないと言えばさみしくないのかと言い。
「別に彼女がいることで何か言うつもりはないよ。単に別れたいってだけ。そっちに彼女がいるなら、別に私のことはいいでしょ」
そう言えば、この面倒なやり取りも終わると思った。浮気がどうのこうので揉める気なんて初めからない。彼女がいるなら、私に固執する必要もないだろう。永井さんのことを言う気にはなれなかったし、これはこれでちょうどよかったような気さえしていた。
だけど、向こうの考えは違うらしい。
『嫌だよ』
「は?」
この期に及んで、こいつは何を言ってるんだ。そんな気持ちが思いっきり出たであろう聞き返しをしてしまった。それでも、向こうはめげない。
『だから、嫌だ。春希とは別れない』
「別れないって、彼女いるんでしょ」
『……それは、彼女っていえるような人じゃない。確かに仲良くしてるけど、彼女とかそういうのじゃないし、春希が一番好きなんだ』
呆れた口調で言えば、向こうは焦ったようにつらつらと言い訳めいたことを並べてくる。リモコンを放って、その手で髪をくしゃりとかき上げた。
『どうせ、あと二、三カ月だよ。そしたらその人とも離れるし、もう少ししたら会えるじゃん。だから……、』
「それ以上先言わないで」
自分では抑えたつもりだけど、予想以上に冷たい声が出た。向こうが慌てて口をつぐむ。
今の言葉で、向こうの考えてることが分かった。それが、いかに最低最悪な考えかということも。向こうの彼女は、向こうの彼女。留学が終われば、彼女は私一人に戻るか、もしくはそのまま二人と続けるか。
あまりの考えに怒りを通り越して呆れてくる。ばれないとでも考えているんだろうか。
『向こうは今だけでもいいって言ってるけど、俺は春希だけだよ』
その言葉で、溜めていたものが大きな溜め息となって出てきた。『今だけでもいい』っていう相手の言葉にそのまま乗っかってる自分が、どれほど最低か分かってるんだろうか。
「そうやって考えたいならそうしてればいいよ。私は、もういい。これ以上付き合う気なんてない」
『なんで』
「今の言葉言って、なんでなんて言える立場?」
苛々した口調を抑えようと頑張ってみるも、それはなかなか難しいことだった。
『違う子と付き合ってるのは、謝るよ。ちゃんとする。だから、別れるなんて言わないでよ』
「だから、彼女がいるのとかはもうどうでもいいんだって」
『じゃあ、なんで。俺のこと嫌いになったの?』
こういう流れになるのが嫌だったから、さっきの段階で終わらせたかったのに。そう思いながら、また溜め息を漏らした。
嫌い、というよりも、もうどうでもよかった。向こうのことよりも、今は自分自身の生活の方が楽しかった。勉強や、バイトや、友達と遊ぶことの方が何十倍も楽しかった。それに、今は永井さんがいる。永井さんが呼ぶ『春希』という声が、どれほど耳に心地良いかは、さっき向こうから呼ばれた時にはっきりと分かった。でも、それを言いたくはない。言ってしまったら、止まらなくなりそうだ。
『他に好きな人でもいるの?』
私の考えなんか気付くわけもなく、向こうは畳みかけるように聞いてくる。
もう、どうにでもなれ。
「いるよ。好きな人、いる。その人と、付き合ってる」
向こうの、何度目か分からない、息を飲む音が聞こえた。
『なに、それ』
「そのまんまの意味。好きな人がいて、その人と付き合ってる」
今の言葉を聞いたら、永井さんはどんな顔をするんだろうか。電話をしている相手より、そんなことが気になる自分が笑えた。それほど、私にとって向こうはどうでもよくなっていた。
『浮気じゃん、それって』
「そうだね。だから、別れようって言ってるでしょ」
『何それ。ひどくない? 俺がいない間に、他の人と付き合ってたの?』
「どっちもどっちだよ。私もそっちも、お互いに許されないことしてた」
『何だよ、それ。俺がどんな気持ちで……』
そっちの気持ちなんて知るかと、言ってやりたくなった。気持ちを無視してくるのは、いつだって向こうだった。連絡したくないと伝えても、さみしいと言ってしてきた。向こうの生活なんて聞きたくないと言っても、どれだけあっちの生活が楽しいかを自慢げに話された。別れたいと言っても、嫌いじゃないなら別れないとかわされた。そんなのを棚に上げて、私だけが悪いように言わないでほしい。