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『別れよう』
地球の反対側にいる彼氏にそんなメールを送ったのは、友達との旅行から帰ってきた次の日の火曜日だった。今度は、のらりくらりとかわされるつもりはない。その後押しをしてくれた共通の友達には、感謝でいっぱいだ。申し訳なさそうな顔をして、それでも知っておいた方がいいと言いながら教えてくれた彼。そんな彼を思い出して、自分も同じなんだけどと少し苦笑いが漏れた。
***
その友達と偶然会ったのは、学校だった。旅行から帰ってきた私は用事があって、春休みだというのに学校に来ていて、彼もまた同じような理由で学校に来ていた。「久しぶり」と言葉を交わした次に、彼は妙に真剣な顔になって、「ちょっと」と言いながら人がいない地下ラウンジに連れていかれた。
「あの、本当は、こういうのって言わない方がいいと思うんだけど……」
ラウンジのテーブルの一つに向かい合って落ち着いて、彼は言い出した。さっきまで真剣な顔をしていた割には、今は困ったように視線をうろうろさせている。そんな顔をされると、こっちまで困ってしまう。そもそも、この男友達とは一回生の時に英語のクラスが同じだったというだけで、そこまで会ったりもしない。彼とはお互い彼氏と彼女が留学しているという共通点はあるけど、普段はすれ違う時に「久しぶり」と言い合うくらいの仲だ。そんな彼と私の間に、真剣な顔をして話し合うことなんてまったくもって思いつかなくて、それだけに何で彼がこんなに困った顔をしているかも分からない。彼女と別れたりでもしたのかな、というくらいが想像の限界だ。
「でも、やっぱり知っておいた方がいいと思ったんだ。春希が頑張ってるのに、あいつが呑気なことしてると思うと、何かやなんだ」
「はあ……」
困った顔をしつつも真剣な表情をのぞかせる彼を目の前にしても、私には話の見当もつかず、ただ頷いて言葉を発するしかなかった。唯一考えたのが、そういえばこの人も私のことを名前で呼んでいたな、というどうでもいいことだった。高校時代に留学をしていたという彼は、非常にフランクな性格で、ほとんど学校では会わない私のことも一回生の頃から名前で呼んでいた。ちゃん付けだったり、さん付けだったりはよくあるけど、呼び捨てにされるのが今のところ家族以外には永井さんからだけなので、余計に違和感を覚えてしまう。
真剣な彼とは正反対の私の無礼な考えなど知る由もなく、彼は話を続けた。
「俺の友達があいつと同じところに留学生として行ってて、そいつから聞いた話なんだ」
「うん」
彼がなかなか話の核心部分に触れないので、私の方は頷いて話の続きを待つしかない。今日はバイトもないから早く家に帰ってゆっくりしたかったのに。そんな呑気な考えも、彼の次の言葉で停止してしまった。
「友達があいつのこと知ってるっていうから話が盛り上がって、春希のことも話題に出したら、そいつが『え、別れたんじゃないの?』って」
「は?」
私の間の抜けた声を聞いて、向かいに座る彼がやっぱりという顔をした。何か言おうとする私を制して、彼が先を続ける。
「で、俺が『別れてないよ』って言ったら、『じゃあ、何であいつこっちで彼女いんの?』だって」
何度も瞬きを繰り返して、目の前の彼の顔を見た。彼の言葉を理解しようと頭がものすごい速さで回転しているのが分かる。いや、理解はしている。整理しきれてないだけかもしれない。要は……。
「浮気してるよ、あいつ」
「……あ、うん」
代わりに彼から答えが出てきて、私はそれに同意するように頷く。たぶん私の顔は未だにぽかんとしたままだと思う。
「ごめんな。急にこんな話して。聞きたくなかったと思うかもしれないけど、知っておいた方がいいと思ったんだ」
彼には私の今の様子が、なぜか、失望とか悲観とかそういう類のものに見えたらしく、本当に申し訳なさそうな顔で謝ってくる。私の方は、単に今の言葉を飲み込むのに時間が掛かっただけで、悲しいとか最低だとかそういう感情はまったくといっていいほど沸き上がってこなかったというのに。
「最低だよな。浮気なんて。春希だって、本当は留学できたのに、行けなくって、こっちであいつのこと待ちながら頑張ってるのに」
「え?」
彼が吐き捨てるように言う言葉の中で、彼が知っているはずのないことが口にされて、私はそこに反応してしまった。彼の方も私の聞き返しで気付いたようで、少しだけしまったという顔をする。『最低だよな』と言った時の顔とは打って変わって、彼はまたしても困り顔で視線をうろうろさせる。
「なんで、知ってるの? 私の話」
視線を彷徨わせる彼に尋ねても、彼は「えーと」と言いながら視線をうろつかせる。
私が留学に行けなかったという事実を知っている人は、本当に数人しかいない。というか、この学校の中だけでいえば、私の友達一人くらいじゃないだろうか。それなのに、何でほとんど交流のない彼が知っているんだろう。
止まった思考がその話題で再び動いて、戸惑う彼から視線を離さずにいると、しばらくして彼がしょうがないというように息をはいた。
「聞いたんだ。教務課の人に。その人、留学関係のことも担当してて、よく話すんだ、俺。で、あいつのこととか春希のこととか話すときあって、教務課に春希がいた時に『春希も留学すればいいのに』って言ったら、そのこと教えてくれた。本当は、試験に合格してたんだって? それも、あいつよりだいぶ良い点数で」
「あー、うん、まあ」
彼に優しい口調で言われて、私は曖昧に答えるしかできなかった。
一体、いつ彼に教務課で会ったというんだ。基本的に周りに明らかに知っている人がいる時以外は周りに気を配らないので、彼が教務課にいたという記憶はまったくなかった。
「ほんと、最低だよ」
優しい顔から一転、眉間にしわを寄せて腹立たしげに彼はそう口にした。
彼が私のことを思ってそう言ってくれてるのはよく分かる。ただ、『最低』と言われる度に、私は曖昧に笑うことしかできないでいた。勝手に私とは別れたということにして浮気をしている彼氏が最低なら、彼氏とは別れられないまま永井さんと付き合っている私も、同じように最低な人間だ。
彼に目をやると、本当に彼氏に腹を立てているのが分かる。それが、私を思ってのことも。そうまでして言ってくれた彼に、嘘をつく気にはなれなかった。
「最低なのは、私も一緒だよ」
「え?」
怒っていた顔をきょとんとさせて、彼がこちらに目を向けた。
「私だって、浮気してるもん」
「……え?」
今度は彼が間の抜けた声を出す。その声は、静かな地下ラウンジにやたらと響いた。私は、自分が今言った言葉に後悔することもなく、ぽかんとしている彼を見て笑った。
「言ってくれてありがと。何か色々ふっきれそう。私のことも、別に言っても構わないよ」
未だにぽかんとしている彼に笑って言い、席を立った。言いながら、脅しめいてるかなとも考えたけど、本心からの言葉なので今さら撤回する気もない。「ばいばい」と手を振って彼に背を向けると、後ろから慌てたように彼が呼び止める声がした。振りかえると、彼も立ち上がっている。
「なに?」
問い掛けると、彼は少し迷ってから、私の方を見た。
「その、あいつよりも好きなの? えっと、その、人のこと」
『浮気相手』とはさすがに言えなかったようで、適当な言葉を探すようにして彼が言った。それに少し笑って、私は彼を見返す。
「うん。好きだよ」
つっかえることも、迷くこともなく、するりと出てきた。その言葉で彼は更に顔を呆けさせる。私はそれにまた笑って、「ばいばい」ともう一度手を振り、今度は呼び止められることなく地下ラウンジを後にした。
彼氏の浮気を伝えられ、自分の浮気についても暴露したというのに、私はやたらと清々しい気持ちでキャンパスを歩いていた。