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「どうにかなってるっていえば、どうにかなってるんだと思います。というか、ならないのもどうかと……」
「まあ、そうなんだけどね」
俺の言いたいことが分かるらしく、永井さんは苦笑いを見せた。一応永井さんがどう考えていようが、形としては未だに『不倫』・『浮気』という形から抜け出せていないのだから、宮瀬がそのことで何にも思わないわけがない。それはもちろん、永井さんにも言えることなんだろうけど。ただ、永井さんが言いたいのは、そういう、一般論的なことじゃない。それは、俺にも分かる。
「正直にいえば、たぶん、混乱してます。で、自分でも何考えてんのか分からなくなってるんだと思います」
「そっか」
永井さんは溜め息ともとれる息をつくとともに、『やっぱり』という顔をした。
永井さんの皿も俺の皿もきれい片付いていて、店員がそれを下げるのと同時に、初めに頼んでおいた食後のコーヒーをテーブルに置いていった。二人ともそのコーヒーに何も入れず、少しだけ飲み、ほとんど同じタイミングでカップをソーサーに置く。
「永井さんの奥さんが出てったことに少しだけ嬉しくなってて、それでも申し訳ない気持ちもあって、そういうこと考えた後に、自分がそんなの考える立場じゃないって呆れるんですって。でも、やっぱり嬉しいものは嬉しかったりでっていう感じで、終わらない考えがずっとぐるぐる頭の中でループしてるみたいです」
「そう、か。やっぱり、タイミング悪かったな。知られるの」
そう言って、永井さんは苦笑を漏らす。
「そのこと知られたの、偶然だったんだ。友達が口滑らせる感じで言っちゃってね」
「そうなんですか」
永井さんの言う『友達』は、たぶん、村瀬健吾のことなんだろう。芸能人と友達なんていうのは、あんまり信じられないけど、宮瀬がわざわざ言ったくらいだから本当なんだろう。永井さんが何とも言えない顔しているのを見て、それから視線を避けるようにコーヒーを飲んだ。永井さんの言葉で、どうして宮瀬があそこまで変に混乱してるのかも分かった。永井さん自身から聞かされたんじゃなくて、寝耳に水のような形で聞かされたのが原因みたいだ。永井さんなら、もう少しタイミングを選ぶだろう。
「宮瀬が混乱してるのって、それを言ってもどうにもならないって分かってるからなんだと思います。どうにもならないって分かってるのに、その考えが止まらなくなって、それでも自分の気持ちは変えられなくて。頭での理解に、感情がついていってないんです」
あの留学のことがあった時と同じだ。分かっていても自分の気持ちがついていけてなくて、誰に何を言ったらいいかも分かってなくて、それでも話し始めたら止まらなかった。
俺が言葉を止めても、永井さんは何も言わなかった。俺は視線を永井さんの目から外していて、永井さんがどこを見ているかは分からない。それを良いことに、俺は言葉を続けた。
「俺は、宮瀬と永井さんの関係に、どうこう言うつもりはありません。どういう形であれ、それは当人が決めたことで、それがあるからといって俺が宮瀬を変な風に見るなんてこともない。もちろん、永井さんのこともです。正直、彼氏なんかよりも、永井さんの方がずっと宮瀬のこと考えてると思います。それであいつは楽しそうだし、嬉しそうだ。それに何かを言うつもりなんてない。だけど、」
そこで言葉が切れて、続きの言葉を探した。言いたいことはあるのに、それをどう言ったらいいか分からなくて、一瞬言葉に詰まる。その時に、どうにもならない気持ちを話す宮瀬の顔を思い出して、顔を上げた。こちらを見ていた永井さんと目が合ったけど、今はそれを気にする余裕もない。
「だけど、宮瀬を混乱させないでください。混乱して、あいつは変に気持ちを溜めるんです。誰かに話せば楽になって、それで済むことなのに、あいつはそれをしない。溜めて、溜めて、限界が来た時にそれを吐き出すんです」
宮瀬は、留学のことがあった時も、涙は見せなかった。俺に愚痴を話す時も、一つの涙も見せなかった。自分の夢が破れたのに、『腹立つよね』なんて笑いながら、その後ろに泣くことを隠した。一人の時はどうかは知らない。だけど、それが怖かった。もし、宮瀬が気持ちを溜めこんで、一人の時だけ泣いていても、俺は何もしてやれない。目の前で泣かれた方が、よっぽど安心できたのに。
今回だって同じことだ。俺は話を聞くことしかできない。宮瀬は『何言ってんだろうね』なんて言って笑うけど、それが一人の時でもできてるんだろうかと思う時がある。何度やっても同じの考えを、何度も頭の中でループさせて、それがどうしようもなくなった時、あいつは一人で泣いてるんじゃないだろうか。混乱して、混乱して、また自分に呆れてるんじゃないんだろうか。笑ってるその奥に、泣いてる姿を見ているようで、それが怖かった。
「気付いてないことないでしょう? あいつは、混乱したら、無理をする。何でもないって笑って、気持ちを隠す。俺はあいつの話を聞くことはできるけど、それで全部が解決するわけじゃない。だから、宮瀬を混乱させないでください」
最後にもう一度目を合わせて言った言葉に、永井さんは少し目を逸らして少しの笑みを漏らした。その笑みに、少しだけ自嘲が見えた気がした。
ずいぶんな我儘を言っていることは、自分にも分かっていた。間違ったことをしているのは、何も永井さんだけじゃない。宮瀬だって、間違ったことをしている。それが自分の首を絞めてもいる。だけど、宮瀬にそれを止めろなんてこと、俺には言えない。卑怯だと言われてもいい。
永井さんは視線を戻して、困ったような、苦い笑みを浮かべた。
「やっぱり、混乱してたんだね」
そんな笑みを浮かべながらも、永井さんはどこか納得したような顔つきをしていた。
「参ったな」
「え?」
困ったように笑みを浮かべながら、その一言を言われた。意味が分からず聞き返すと、永井さんはその顔のまま俺に目を向けた。
「彼女が混乱してるんだろうなとは思ってたんだ。それで、一応自分なりにも動いた」
「動いたって?」
その先を促す言葉に、永井さんはさらに困った顔になる。
「俺も、家を出たんだ」
「……え?」
永井さんの言葉を理解するのに、少しの間が空いた。
「まだ正式に離婚したわけじゃないし、妻もまだ家には帰ってきてない。けど、少しでも進めたくて、家を出た。届も、妻の欄だけ空けて、渡してある」
「いつから、」
「二週間くらい前からだよ。家を出たのは。新しい部屋の方も、だいぶ落ち着いてきた」
先回りされて答えられた永井さんの言葉に、「そうですか」としか返せなかった。何でか、喉がからからに渇いて、コーヒーに手を伸ばす。飲みながら、永井さんが言った意味を考えた。確かに、永井さんは動いた。だけど、それが宮瀬の混乱を解くかといったら、たぶんその答えはノーだ。むしろ、悪くなるかもしれない。自分一人が何もしてないと、さらに混乱するだろう。永井さんも、それを分かってる。
「正式に形がちゃんとするのは、もう少し先だろうね」
コーヒーの手にして言う永井さんは、言ってしまったことで少し気持ちが楽になったようだった。顔にはまだ困ったような笑みが浮かんでいるけど、さっきほどではない。
「宮瀬に、言う気はないんですか?」
俺もコーヒーを飲みながら尋ねる。永井さんの方が先にカップを置く。
「まだ言うつもりはないよ。少なくとも、彼女がふっ切るまではね。今言っちゃったら、それこそ混乱させる」
少しおかしそうに笑いながら、永井さんは言った。それでも、宮瀬を思っていることが、十分すぎるほどに分かる言い方だった。
「もっと分かりやすい我儘だったら、いいんですけどね」
誰がなんて言ってないけど、永井さんには誰のことか分かったようで、優しい顔で「そうだね」と言った。そう言いながら、宮瀬が『こうでないと嫌だ』と分かりやすい表現をするなんてことは滅多にないことを、俺も永井さんもよく分かっていた。
***
駅までの帰り、永井さんが俺の頼みを聞いてくれ、少し遠回りして永井さんが言った新しい家の前を通ってくれた。街の中心部から少し外れたそこは、住宅街のようなところではあったが、それほど交通の便も悪いというわけではないらしい。以前に会ったときに、宮瀬がふざけて『こういうところ住みたい』と不動産屋のフリーペーパーを見ながら言ったところだという。
駅前まで送ってくれた永井さんと、なぜか言われるまま連絡先を交換して、宮瀬には内緒だと笑って言われた。永井さんの車が去っていくのを見送って、俺も駅の中へと進んだ。
ちょうど良く電車が来て、それに乗ったところで、コートのポケットに入れておいた携帯が震えた。空いていた席に滑り込むようにして座り、携帯を確認する。送信者は、宮瀬。
『お土産どれがいい?』
メールには、写真も添付されていた。どこぞの夢の国の主人公の手をかたどった、携帯ストラップだ。宮瀬は今、友達とそこへの旅行の真っ只中だ。行く前に何のお土産がいいかと聞かれて、俺が『携帯クリーナー』と言ったのを覚えてるらしい。
メールを見て、こっちがどんな状況かも知らずにと、思わず呆れた笑みがこぼれた。それでも、その笑みはなかなか消えずに、宮瀬への返信を作成する自分がいた。