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全部話し終えた後で、村瀬健吾がむっと眉間にしわを寄せた。
「よく我慢できるね、そんな奴ら」
村瀬健吾の第一声に、声は出ず、数回瞬きしてしまう。『でしょー?』と村瀬健吾のテンションに乗ることもできず、『そういえば永井さんにもそんなこと言われたな』と呑気に考えてしまった。そんな私に気付いてるのか気付いてないのか、村瀬健吾は怒ったような声のまま続ける。
「目の前であからさまに『やだー』とか言われたら、俺、ぜったいキレる自信ある」
「はあ……」
「『だって声聞きたいし』とか、無理。止むにやまれずとかそういうのならアリだけど、勝手に行ってそれは無理」
ありがたいことに、村瀬健吾は私寄りな意見のようだった。向かいの席で堰を切ったように言葉を並べる村瀬健吾に圧倒していると、横でおかしそうに笑みを浮かべる永井さんが目に入った。
「よかったね」
「うん、まあ」
二人で顔を向けて頷くと、向かいから「春希ちゃん」と勢いよく声をかけられた。
「はい、なんですか」
無視できるような勢いでもなかったので、そちらに向き直って村瀬健吾を見る。
「俺、春希ちゃんサイドだから」
「はあ。まあ、でも、私にも落ち度はあったんですけどね。お金のこととか、あんまり調べてなかったし」
「それでも、俺は春希ちゃんサイドだよ」
先ほどの怒ったような顔が嘘のように、頑なな言葉で宣言された。その表情は嘘を言ってるようなものではなく、村瀬健吾の言葉が本物だと感じられるものだった。それを感じて、自然と顔に笑みが浮かぶ。
「ありがとうございます」
「え?」
今度は村瀬健吾がきょとんとした顔で聞き返してきた。それを見て、さらに笑みが広がる。
「こっちサイドについてくれるって言ってくれて。この話するの、けっこう怖いんですけど、そう言ってくれると嬉しいんで」
「怖いの?」
「怖いですよ? だって、全部話した後に、『お前の方が悪い』とかって言われたら、どうしたらいいか分からなくなっちゃうじゃないですか。だから、そう言ってくれると、嬉しいんです」
「あ、そうなんだ」
少しだけ間の抜けたような声で納得する村瀬健吾に、「はい」ともう一度頷いた。話しすぎて渇いた喉を潤そうと、近くに置いてあった梅酒に手を伸ばしてそれを飲んだ。
「あんまり見るなよ」
横から永井さんがそう言うのが聞こえて、顔をそちらに向ける。見れば、永井さんが呆れたような顔で村瀬健吾を睨んでいて、それに気付いた村瀬健吾が誤魔化すようにへらへらと笑っていた。
「さ、春希ちゃん、どんどん飲んで」
私の視線にも気付いたらしい村瀬健吾が、飲め飲めとあおってくる。とりあえず持ってくるジョッキの中身だけを飲んで、それをテーブルの端に置いた。それとほぼ同時に、店員さんが残りの料理を運んでくる。帰ろうとする店員さんに、村瀬健吾が止める間もなく私の分の梅酒と自分の分のビールを追加した。
11時近くになって、ようやくお店を出ることができた。村瀬健吾のペースに付き合わされて、少し頭がふらふらする。それでもまだ足りないと言う村瀬健吾に、呆れを通り越して勘弁してと思ってしまう。永井さんのコートを掴んで、何とかばれないようにちゃんと立つのがやっとだった。
「あとで部屋来いよ」
駅前のホテルに泊まっているらしい村瀬健吾が、永井さんを誘った。その声を聞きながら、外の冷たい空気に触れて頭が少しだけすっきりしてきて、掴んでいた永井さんのコートを放す。
「行けたらな」
「いいじゃん。万里ちゃんいないんだから。どうせ、家帰っても一人だろ」
村瀬健吾の言葉に、醒めたはずの頭がふらついて、はしっと永井さんのコートの裾を掴んでしまった。頭を小さく振って、村瀬健吾の言葉を頭の中で繰り返す。村瀬健吾は、永井さんが家に帰っても一人だと言った。『万里ちゃん』というのは、たぶん永井さんが前に言っていた『万里子』と同一人物で、それは永井さんの結婚している人だ。永井さんから、その人との話し合いが進まないことは聞いている。だけど、その人が今家にいないことは聞いていない。永井さんが家にいて、その人がいないっていうことは、その人が家を出ていったということなんだろうか。ぐるぐると色々な考えが頭の中を巡って、気分を晴らそうと頭をもう一度小さく振った。
「行ったら? さっきは飲めなかったんだから」
顔を上げて、何でもない風を装って言ってみた。「ね?」と村瀬健吾にも同意を求めてみる。永井さんの顔は、申し訳なさそうな、困ったような、怒っているような、表現のしにくい表情になっていた。それでも、ここで何かを言うわけにもいかず、簡単に「そうだね」とだけ口にする。
「ぜったい来いよ」と叫ぶ村瀬健吾と別れて、私と永井さんは車に乗って、私の家までの道のりを走った。車が走る中、どちらも何も言わなくて、私はせめて酔いを醒まそうと、シートに身体を預けて目を閉じた。
一時間もかからず私の家に着いて、車の中に沈黙が流れた。
「金曜日に、言わなかったことがある」
「うん」
話し始めたのは永井さんで、私はそれに頷いた。その内容は村瀬健吾のおかげでもう分かっていたけど、永井さんが話す言葉を黙って聞いた。
「初めて離婚を切り出した時に、万里子が家を出ていったんだ。それからしばらく帰らなくて、君からの二回目の答えを聞いた日の夜に、また帰ってきた」
その言葉を聞いて、また頭がふらついた。私が永井さんと一緒にいたいと言った日に、その人は帰ってきたということだ。永井さんの左手の怪我も、その時の話し合いでできたものなんだろう。
「その日にも万里子は家を出ていって、まだ帰ってきてない。だけど、その代わりにほとんど毎日大学に来て、弁当なんかを持ってくる。俺よりも、外堀から埋めてくつもりらしい」
永井さんに自嘲の笑みが漏れる。金曜日に言っていた『良い妻アピール』っていうのは、このことなんだろうか。
「言ってくれたら、よかったのに」
やっと出てきた言葉がそれで、自分でも嫌になる。本当に、そんなこと言ってほしかったんだろうか。言えば、余計に自分がぐるぐると悩むだけなのに。きっと、永井さんもそれを分かってた。
「もう君から、拒否の言葉や後ろ向きの言葉は聞きたくなかったんだ」
「拒否なんて、しないよ」
「でも、また『ごめん』って言うでしょ?」
やっぱり永井さんは分かっていて、私はそれ以上何も言えなくなった。
「安っぽい言葉だけど、聞いてほしい。このことは、ちゃんとする。だから、もう何も言わないで」
永井さんの言葉に答えの代わりに頷く。それと同時に永井さんが近付いてきて、唇に永井さんのそれが重ねられた。重ねられた唇はすぐに離れて、私はそれと同時に「お休み」と告げて車の外に出た。
別に、永井さんの言葉を疑ってなんかない。永井さんと一緒にいると決めたくせに、永井さんの今の状況を聞いて勝手に申し訳なくなっただけだ。
「春希、」
後ろで車のドアが閉まる音がして、次には腕を掴まれていた。声を出す暇もなく、腕を引っ張られて、永井さんの腕の中に閉じ込められた。
「ごめん」
苦しいほど強く抱きしめられる。私も永井さんの背中に腕を回して、ぎゅっと抱きついた。
「ごめんとか、言わないで。謝られたら、私も謝っちゃいそうだから」
「万里子が出ていったことと、春希は関係ないよ」
「違う。そのことじゃなくて、」
首を横に振って、永井さんの言葉を否定した。永井さんがどういうことか聞こうとしたのか、腕の力を弱める。それが分かっても、私は永井さんから離れなかった。
「変に、期待しちゃうんだって。思ってたよりも早く済んじゃいそうだなって。いろいろ大変なことが。私が、そんなこと思える立場でもないのに」
言い終わってすぐ、また永井さんに強く抱きしめられた。
「思ってていいよ。期待して。変だけど、君にそう思われてるっていうのが、嬉しいんだ」
「なんで」
少しだけ泣きそうになって、それを笑って聞き返すことで、誤魔化した。でも、永井さんはそれを分かってるのか、片手で優しく私の頭を撫でてくれた。
「春希も、俺を欲しがってるって分かるから」
ぎゅっと、さらに強く永井さんに抱きついた。その通りなんだと思う。欲しがってるくせに、自分の立場を考えたり考えなかったり、永井さんの立場を考えたり考えなかったりして、こうやってぐちゃぐちゃなことになってしまうんだ。
回されてる永井さんの腕の力が弱まって、私と永井さんの間に少しだけ距離があいた。だけど、それも一瞬のことで、永井さんの手で顔を上に向けられて、次には唇が触れていた。背中に腕を回す代わりに、永井さんのコートを掴んで、そのキスを受け止める。ゆっくりとそれは繰り返されて、その度にもっとと欲しがってしまう。
「そんな顔しないで。帰したくなくなる」
唇が離れてから、涙を拭うように私の目元に触れて、優しい顔で永井さんが言った。その手を取って、大丈夫だと笑みを浮かべた。
「来週、また会える?」
「うん。基本的に金曜日は大学にいなくていいから、大丈夫だよ」
「少しでいいから、いつもより長く一緒にいたい」
少しだけ、わがままを言ってみた。今日、ここまで気持ちが吐露してしまったら、いつもと同じだけでは足りない気がした。だけど、言ってすぐ後悔したのも事実で、「ごめん」と下を向いてしまう。
「いいよ。また連絡するから、その時に何するか決めよう」
顔を上げれば、優しい顔のままの永井さんと目が合った。その言葉が嬉しくて、また、笑みが浮かんでくる。
「ありがと」
「俺もそう言おうと思ってたから」
笑みを浮かべながらそう言われ、少し気恥ずかしくなって、視線を外した。上から永井さんの小さく笑う声が聞こえて、それを確かめるより早く、もう一度、今度は短くキスをされた。
「そろそろ帰るよ」
唇が離れて、永井さんがそう言った。頷いて答えると、永井さんは私の髪を一撫でして、車に戻っていく。助手席側の窓が開かれて、運転席に座った永井さんが見えた。手を振って永井さんが出発するのを見送って、自分もマンションの中に入ることにした。金曜日のときとは違って、ほんの少し心の中に引っかかりを持ちながら。