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「けっこう人いるね」
永井さんと並んで歩きながら、周りを見回して言った。
「そうだね。まあ、ここでやるくらいだから、それなりに集客見込みあるんだと思うよ」
「へー」
以前にも来たことのある、隣県の駅に併設された劇場のロビーで永井さんにそう聞かされて納得した。
永井さんに出掛けようと言われた日曜日の今日、舞台を見るために永井さんと隣県に来ていた。タイミング良く知り合いからこの舞台のチケットを貰ったらしく、「よかったらどう?」と昨日連絡が来て、断る理由のない私は即決で「行く」と返事をしていた。
その舞台は、ついさっき開場が開始されて、多くの人が劇場内に入ろうと入り口のところに詰めかけていた。私と永井さんは混雑を避けようと少し遅れて入るために、開場されてもまだロビーで待ったままの状態でいた。
「今日、いつくらいに来るの?」
「誰が?」
ロビーの端の方で永井さんに聞くと、永井さんは本当に分かっていない様子で聞き返してきた。
「誰って、村瀬健吾。来るんでしょ?」
永井さんの様子に少し呆れて返せば、永井さんは今思い出したというように「ああ」と声をあげた。
「たぶん、7時過ぎじゃないかな」
「そっか。でも、私いていいの?」
「そんなこと気にしなくていいよ。あいつの方が君のこと聞きたいって言ってから」
永井さんの言葉に、思わず首を傾げてしまう。なんで、村瀬健吾が私のことを聞きたいんだろう。それが顔に出ていたようで、永井さんは私の顔を見て小さく笑った。
「君とのこと話したら、あいつが君のこと知りたがってね」
「私のことって、普通の大学生ですけど」
「まあ、それ以外にもいろいろ。君が嫌じゃなかったら、だけど」
永井さんの顔に、少し申し訳なさそうな表情が見えた。その顔で、村瀬健吾が何を聞きたいのか、何となく分かった気がした。永井さんが村瀬健吾に私とのことを話したということは、私に彼氏がいるということも話したんだろう。それで、その上で永井さんと一緒にいると決めたことも。別にそれを言わないでほしいなんていう考えはないし、言われて困ることなんて特にはない。何といっても、永井さんが話した相手は、村瀬健吾だ。私からすれば、完全に芸能人で、普段なら接点すらもない人なんだから。ただ、私のことを話すのは、少し気が引けた。どういう状況でこうなったかを話すなら、彼氏とのごたごたや留学の件で揉めたことも話さないといけない。もう何ともないと言いたかったけど、あれを簡単
に流せるほど私は出来た人間じゃない。
「話したくなかったら、無理しなくていいからね。俺も了承したわけじゃないし」
永井さんから視線を外した私を見て、永井さんが言った。もう一度顔を上げて永井さんを見ると、優しくこちらを見ていて、本当にそう思っているようだった。
「ううん。たぶん、話すくらいなら大丈夫だし。味方が増えるなら嬉しいもんね」
笑ってそう言えば、永井さんも笑ってくれた。その永井さんが、いきなり私の背に手を回して、私を自分のところに引き寄せた。逆らうこともできずにそのままされるがままにしたら、次には頬に永井さんのコートの感触がしていた。
「ほんとに、無理することないからね」
「……うん」
片手を背中に回されて抱きしめられたまま、永井さんが小さな声で言った。そこから抜け出すこともせず、私は永井さんの言葉に頷く。少しして永井さんの腕が緩められて、私もそこからゆっくりと離れた。ロビーの人が少なくなってきていて、それを頃合いに私と永井さんも劇場内に入るため入り口の方に向かった。
永井さんが知り合いから貰ったというチケットは、だいぶ舞台に近いところだった。それも、舞台を真正面から見れるところ。
「すごいね」
席に着いてそのことを言うと、永井さんは困ったような顔で頷いた。
「何か、悪いな。こんな良い席のチケット貰ったなんて」
「知り合いって大学の知り合い?」
「ん? まあ、ね」
珍しく歯切れの悪い答え方をする永井さん。私の顔を見ると、そう思われているのが分かったのか、また困ったような顔で笑った。
「最近知り合いになったんだ。正直、知り合いって呼べるのかどうかも微妙だけど」
「何でそんなちょっとひどい言い方なの」
知り合いになったことがあまり嬉しくないような口調で、それを言う永井さんの顔が面白くて、思わず笑ってしまう。
「ちょっとあってね」
「へー」
「ちなみに、知り合いになったのは男だからね」
付け足すように言われて、またしても笑ってしまう。
「別に心配してませんよー」
「そこは心配してほしいだけどね」
残念だ、と少し笑いながら言われて、私の方も笑った。
その時になってちょうど開演のブザーが流れて、二人とも舞台に集中することにした。
***
「また居酒屋か」
駅前にたくさんある中の一軒の居酒屋の前で、永井さんが呆れたようにぼやいた。その様子がおかしくて私は笑った。
舞台を見終わった後、私と永井さんはぶらぶらと街を歩いて時間を潰し、7時過ぎに村瀬健吾から連絡をもらって駅前に戻ってきていた。村瀬健吾が連絡してきたお店は、前回と同じく居酒屋だった。村瀬健吾はすでに来ているらしい。呆れている様子の永井さんを引っ張って居酒屋に入ると、店内にはすでに多くのお客がいた。ここも、前のお店と同じように個室にはすだれがついている。村瀬健吾は、お店の少し奥の方にある個室にいた。
「なんで居酒屋なんだ」
村瀬健吾の向かいの椅子に座りながら、永井さんが不満の声をあげた。村瀬健吾はそんな永井さんの様子を気にすることもなく、にこにこと笑って私に手を振ってきた。
「別にいいじゃん。ね、春希ちゃん」
手を振り返しはするものの、村瀬健吾の言葉には曖昧に笑って首を傾げておく。確か、永井さんは今日車で来ていたはずだ。ということは、帰りも車だろうし、それを考えると『別にいいじゃん』とも言えない。
「いいけど、俺、今日車だからな。飲めないぞ」
「え!」
案の定永井さんが車のことを持ち出して、村瀬健吾はそれに今気付いたというような声を出した。気付いてなかったんだ。そんな気持ちを抱きながら村瀬健吾を見て、隣の永井さんを見ると、永井さんも呆れた目で村瀬健吾を見ていた。
「車かよー」
落ち込む村瀬健吾をよそに、永井さんはメニュー表を取ってぱらぱらとめくり出す。私もそれを覗き込むようにして見ていると、向かいの村瀬健吾が何かを思いついたように「あっ」と声をあげた。何だと思って私と永井さんが顔を上げると、村瀬健吾が楽しそうな顔で私の方を見ていた。
「じゃあさ、春希ちゃん、飲もうよ」
「え、」
いきなりな言葉に私が戸惑っていると、横から永井さんがたしなめるように「おい」と声をかけた。
「いいじゃん。一人で飲むとか面白くない。春希ちゃん、飲めるよね?」
「え、あ、まあ」
「じゃあ飲もう!」
はっきりと頷いたわけではないのに、思いっきり飲む方向で話をまとめられた。ここで飲みませんと言おうものなら、目の前でへこまれることは確実だ。
「あの、ビールじゃなかったら」
「やった!」
向かいでは村瀬健吾に喜ばれ、隣では永井さんに呆れられた。ごめんの意味と帰りお願いしますの意味を込めて、苦笑いしながら首を傾げると、永井さんはしょうがないというように溜め息をついた。
アルコールについての小競り合いが終わって、村瀬健吾はビールを、私が梅酒で永井さんは烏龍茶を頼み、あとは適当に料理を頼んだ。店員さんに注文を終えて、すだれが下がった後に、村瀬健吾がにっこりと笑って私の方を向いた。
「今日はありがとね。来てくれて」
「いえ。こっちこそ、何かついてきちゃって」
「いいよー。俺が春希ちゃんもって誘ったんだから」
そう言って笑いながらテーブルに肘をつく村瀬健吾は、やっぱり芸能人だった。前に『単体じゃそこまでかっこよくない』って言ったのを、すぐにでも取り消したい。笑顔全開の村瀬健吾に、こちらも自然と笑顔になってしまう。
「目の前で他人に見惚れないでね」
横からそんな永井さんの声が聞こえてきて、ぱっとそちらを向いた。私が村瀬健吾に見とれていたことなどお見通しだというような顔で、小さく笑みを浮かべている永井さん。誤魔化すためにへらっと笑うと、永井さんはおかしそうに笑った。その時にタイミング良く、店員さんが飲み物と一品料理を運んできてくれた。ジョッキをそれぞれに配って、料理の乗ったお皿は真ん中らへんに置く。店員さんがいなくなった後で簡単に乾杯をして、頼んだ梅酒を口にした。酎ハイといってもアルコールで、少しの苦みが口に広がる。その苦みに顔をしかめて、もう一口飲んだ。やっぱり、ソフトドリンクとかにしておけばよかった。
私の表情に気付いたらしい永井さんが、自分の烏龍茶を「飲む?」と差し出してきた。それには首を横に振って答え、梅酒の入ったジョッキをテーブルに置く。
「やっぱり、付き合ってんのな」
ぽろっと、向かいに座る村瀬健吾がそうこぼした。私は少し驚いて目を丸くさせ、永井さんは料理を食べながら何でもないように、村瀬健吾の方を見た。村瀬健吾の言ったことはその通りなんだけど、改めてそう言われると、何と言えばいいのか分からない。
「今さら何言ってんだ」
代わりに、永井さんが答えてくれる。その答えは、完全に村瀬健吾の言葉を肯定していて、それにも何でか少し混乱してしまった。永井さんが村瀬健吾に言ったことは舞台を見た時にも分かっていたことなのに、永井さんが村瀬健吾の言葉を肯定して、『だから?』というように返したことに、戸惑ってしまった。自分が思っていたほど、私は私と永井さんの関係を消化しきれてないんだろうか。
「いやー、何か優しいなと思って。お前が」
「普通だよ」
「いや、ぜったい普通じゃない。ねえ、春希ちゃん?」
ぼんやりと二人の会話を聞きながら梅酒を飲んでいると、いきなり矛先が私に向けられた。あんまり話を聞いていなくて、思わず「へ?」と返してしまう。村瀬健吾はそんなことには構わず、もう一度質問を繰り返した。
「こいつって、普段から優しいの?」
「あー、優しいんじゃないですか? 初対面でも愚痴とか聞いてくれましたから」
「愚痴?」
不思議そうに聞き返されて、やってしまったと思った。永井さんが嫌なら話さなくていいよと言ってくれたのに、自分から『愚痴』の内容を話さなきゃいけない状況を作ってる。さすがに困ってしまって、適当に「えーと」と言いながら村瀬健吾から視線を外そうとした。外そうとしたけど、それは少しだけぎこちないものになってしまった。こちらを見る村瀬健吾の目が、本気で私の『愚痴』の内容を聞きたがっているように見えたから。表面的には興味本位のような表情をしているけど、目だけは本気だった。ともすると、その目は、怒っているようにも見えた。何か怒らせるようなことしたっけと考えようとして、すぐにその原因が思い当たった。たぶん、その目が怒っているのは、私の横にいる永井さんのた
めだ。離婚をして、彼氏がいるのに私と付き合う永井さんを、村瀬健吾は本気で心配してるんだ。だから、私がなんでこんなことをするのか、どうしてそうなったのか聞きたいんだろう。そうやって誰かのために怒る村瀬健吾を見ていると、古賀さんを思い出した。周りがどうとかではなく、自分の気持ちで考えろと言ってくれた、古賀さんを。その時の古賀さんを思い出して、小さく笑みが漏れた。
「おい」
永井さんも村瀬健吾の表情に気がついたようで、少し強めな声で村瀬健吾を制しようとする。そんな永井さんの服の袖口を引っ張って、こちらを向いた永井さんに大丈夫と笑みを向けた。その時にすだれが上がって、店員さんが大皿に乗った料理を持ってくる。店員さんも少しだけぴりぴりした雰囲気に気付いたのか、料理を置くと「失礼しました」とやりすぎなくらいの笑顔で去っていった。すだれが下がったのを見て、私はもう一度村瀬健吾のことを見る。
「えっと、まあ、いろいろあって。永井さんには愚痴聞いてもらってたんです」
そう始めて、彼氏のことや彼氏と揉めたごたごた、今も続くごたごたのことも話し出した。