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部屋のドアを開けて、以前に見慣れていた靴があるのを見て、万里子が帰ってきていることを悟った。万里子の靴の隣には、もう一足靴があり、見る限りそれは義母のようだ。ドアの開く音を聞いたのか、リビングの方から、万里子がスリッパの音をさせてやってきた。その後ろのリビングからは、やはり義母が顔を出している。黙って会釈をすると、向こうも返してくれた。
「マサくん、お帰り!」
万里子が、以前と同じようにして言った。その様子に、気付かれない程度に眉間にしわを寄せる。
「お母さんも来ててね、一緒にご飯食べようって」
「……外で食べてきたから、俺はいいよ」
俺の目の前に立って鞄を持とうとするのをさりげなく制して言えば、万里子の顔に微かな苛立ちが見えた。けれど、それも一瞬のことで、すぐに万里子は笑顔になり、「そっか」と言って俺が家に上がるのを待った。内心で溜め息をついて、キーを靴箱に置き、靴を脱ぐと、万里子に連れだって義母が待っているであろうリビングへと向かう。
「お母さん。マサくん、外で食べてきちゃったんだって」
「そうなの」
ドアの近くで待っていた義母は、万里子の言葉に頷くも、その顔はどこか困ったようなものだった。キッチンの方へと歩いていく万里子を見ながら、鞄をダイニングテーブルの椅子に置き、声をかけた。
「答え、聞かせてくれないか」
「えー?」
わざとそうしているのか、万里子は俺の声が聞こえないというように聞き返してくる。ここに義母を呼んだのは、俺を牽制するためだろうか。そうだったとしても、それは俺にとって何の意味もなさない。義母の方を見れば、俺と目が合うとどうしようもないというように首を振った。
「万里。こんなことしても意味ない。先に進もう」
そう言っても、万里子は聞こえない振りを続ける。盛り付けた料理を運んできて、義母に座るよう促した。
「万里」
先ほどよりも強めの声で呼べば、万里子の動きが止まる。
「離婚しよう」
以前にも伝えた言葉を、もう一度口にした。それがきっかけだったようで、この言葉を聞いた万里子の顔が、怒りに歪んだ。
「嫌だって言ったじゃない! マサくんとは別れない!」
「万里子、」
義母が怒鳴る万里子を抑えようと手を差し出した。その手を振り払って、万里子は近くにあったものをこちらに投げてくる。幸い、それは陶器やガラスのものではなく、身体に当たっても痛くはなかった。義母は嘆くように首を横に振る。
「今のまま続けても、いつかはこうなる。なら、その前に離れよう」
「そんなの分からないじゃない!」
「分かるよ。俺が変わるんだ。それを受け入れられない万里とは、きっと続かない」
「いや!」
怒りのままダイニングテーブルを叩き、万里子はその上に置いてある料理の盛られた皿を手で振り落とした。身体を少し横にずらしたものの、左手が皿と中身にぶつかり、痛みと熱さに顔をしかめる。皿はそのままリビングの床に転がって、中身がぶちまけられた。義母が万里子に覆いかぶさるようにして、後ろから腕を回した。万里子は肩で息をして、俺の方を見ている。
「もう、終わりにしよう」
母親に抱かれていても、万里子は首を横に振る。
「内訳なんかは、何もかも万里の好きにしていい。俺はそれに応じるから」
「いや! 絶対に別れないから!」
最後にそう叫んで、万里子は母親を振りほどき、リビングを出ていった。あとから、玄関のドアが閉まる音が聞こえた。義母はリビングの入り口まで追いかけたが、それを待つことなく、万里子は出ていったようだ。話は平行線のまま終わって、リビングには俺と義母の二人だけが残された。
「すみません。勝手なことを言い出して」
入り口のところで立ちすくす義母に声を掛けると、義母はこちらを振り向いて首を横に振った。その意味が分からなかったが、とりあえずは後片付けをしようとキッチンに布巾とゴミ袋を取りにいく。布巾を持ってダイニングに戻ってくると、義母が床に転がった皿を拾っていた。それを受け取り、一旦はダイニングテーブルに置いておいて、俺は床の汚れを拭く。義母がその場を離れたかと思うと、すぐに救急箱と絞ったタオル二つを手に戻ってきた。
「いずれはこうなるんじゃないかと、そう思っていたの」
少しずつ汚れを取っている俺の隣で、義母が静かにそう言った。思わず顔を上げると、義母が悲しげに微笑んでいるのが目に入った。それに何と返したらいいのか分からず、曖昧に笑って、床に座って汚れを拭う。義母もその隣に座って、床に広がった料理を一つのタオルで取り除いていく。
「あなたと万里子は、あまりにも違いすぎて、お互いに歩み寄れないんじゃないかと心配で。その心配が、的中したのね」
悲しげに微笑んだまま、義母は続けた。二人でやったおかげで、床はだいぶきれいになった。汚れた布巾とタオルをそのままゴミ袋に放り込んで立ち上がろうとすると、義母が俺の腕に手を置いてそれを制した。大人しくそれに従って床に座りなおすと、義母は使っていない方のタオルを俺の左手に当てる。そのタオルは冷たく濡れていて、さっき料理がぶつかった個所からじんじんとしながらも熱を取っていってくれる。
「反対では、ないんですか?」
タオルの置かれた左手を見ながら聞けば、義母は微笑みを浮かべたまま首を横に振る。
「反対しても、あの子に幸せは見えないわ。あなたが万里子を見ない以上、あの子が幸せになれることはもうないでしょう」
救急箱の中から包帯や何かの薬を出しながら、義母が言った。俺は自分の左手から顔を上げ、義母に顔を向ける。
義母は、この先俺と万里子が続けたとしても、いずれ何かしらの溝が出来ることを分かっているようだった。
「あの子が怒ってうちに帰ってきたときに、『ああ、やっぱり来てしまった』と思ったのよ。あなたがそれだけ言うなら離れてみたらと言っても、万里子は首を横に振るだけ。小さい頃から上の兄妹に可愛がられて、かまってもらってばかりで、欲しいものが手に入らないことなんてなかったから、意固地になってるのかもしれないけど」
濡れたタオルを取り、近くにあったティッシュで水滴をふき取りながら、義母は続けた。
「お見合いした時も、あの子はあなたを見て一目で好きになったようだけど、私はもう少し考えてみたらと言ったのよ。あなたはどう見ても、万里子とはタイプの違った人だから」
ティッシュをゴミ箱に入れ、少しだけ優しい微笑みを俺に向けてくれた。義母は救急箱から取り出した塗り薬を少し取り、俺の左手に薄く塗り始めた。よく見れば、皿が当たったところが赤く腫れている。
義母は薬を塗る間何も言わず、塗り終わってからも、何も言わなかった。義母は左手にガーゼを当てて包帯を巻き始める。俺を責めることなく、万里子の幸せのためだと言う義母を見ていると、つっかえることもなく言葉が出てきた。
「離婚を切り出す前に、他の女性と関係を持ちました」
「そう」
その言葉を聞いても、義母は怒ることはなかった。義母が返した一言は、そんなことはもう知っているという風にさえ聞こえた。それが、口を軽くした。
「離婚を考えていたのは、その女性と関係を持つよりずっと前からです。それでも、結婚している身でありながら関係を持った事実は変えられません」
「それを、後悔しているの?」
義母が、顔を上げて尋ねてきた。俺は戸惑うことなく、首を横に振る。
「いいえ。勝手な話ですが、その女性が俺のところに来てくれて嬉しいとさえ思いました。その女性といる間は、万里子のことを少しも考えなかった」
自嘲気味な笑みを漏らして言えば、義母はまたしても顔を俺の左手に向けて、包帯を巻くことを再開した。今の言葉で、俺が遊びではなく、本気で関係を持ったのだということは分かっただろうが、それでも義母はそれを問い詰めるようなことはしなかった。
「離婚は、その女性とのことが原因ではありません。その女性が起因になったことは確かですが、今回のこととその女性は、まったく関係のないことです。信じてもらえないでしょうが」
自分でそう言って、本当にその通りだろうなと感じた。彼女は離婚に関係ないと言ったところで、今の現状で誰がそれを信じるというのか。今更そんなことを再確認して、自分が馬鹿らしく思えた。彼女を巻き込みたくないと思っていたくせに、自分がそれを誘発している。
俺が言葉を発しなくなると、義母も黙ったまま包帯を巻いていた。少ししてそれも終わり、義母が使った包帯や薬を救急箱に戻していく。俺はすぐ隣に置いていたゴミ袋を手にし、義母と一緒に立ち上がる。
「今のこと、万里子に言ってもらっても構いません。それからもう一度話しあっても遅くはないでしょうから」
「いいえ。万里子には伝えません。それを伝えたところで、万里子のプライドを傷つけるということ以外、何が起こるというの」
「そうですね」
分かっていたことを目の前で言われ、またしても自嘲の笑みが漏れた。
俺がキッチンに行ってゴミ袋を捨ててリビングに戻ってくると、義母は救急箱を片付け終えており、帰り支度をしていた。
「万里子のこと、お願いします。もし、詳細が決まれば、連絡ください」
「ええ、分かっているわ」
コートを身に付けた義母を玄関まで送り、もう一度リビングに戻った。
ダイニングの椅子に置いてあった鞄を手にリビングのソファに座って、大きく溜め息をつく。皿のぶつかった左手が、じんじんと痛んだ。少し熱を持っているから、軽い火傷もしているようだ。ソファに身体を沈めてぼーっとしていると、鞄の中に入れてあった携帯が震えた。それを取り出して画面を見れば、珍しく、そして久しぶりに彼女からメールが来ていた。
『おやすみ』
たった一言だが、それだけで笑みが浮かんでくるのが自分でも分かる。彼女といる時にも感じていたが、彼女が本当に俺を求めているんだと、このメールで改めて実感する。自分の立場を無視しても、一緒にいたいと。
義母は、万里子のために俺のしたことを黙っていると言った。きっと、相手が普通の女だと義母は思っているだろう。立場を無視して、一緒にいるべき相手を裏切ったのは、俺だと。実際、その通りだ。村瀬だって、そう思っていた。ただ、俺も、そして彼女も、自分の立場を無視している。お互いに一緒にいるべき相手を裏切って、別の人間を求めている。普通の人間なら、何を馬鹿なことをと笑うだろう。それでも構わない。周りを気にしないほど、俺は彼女を求めている。彼女も、応えてくれた。それだけで、十分だ。
そこまで考えて、一人の男のことを思い出した。いつだって彼女のことを見守っていて、そばにいて、近くにいるであろう男のことを。彼は、彼女の出した答えを笑ったりはしないんだろう。見守って、変わらずにそばにいるんだろう。
その代わりに、彼女を奪った俺を、恨んだりするんだろうか。そんな男には見えないけどな、と考えて、馬鹿なことを考えているなと笑えた。
笑ったまま、彼女への返信を、画面を開いた。