3
ここに来たのはいつぶりか。そうやって考えてしまうほど、彼女とこのカフェに来たのは久しぶりなことだった。
俺たちが来なかったからといって、ここは変わることもなく、いつもと同じような客足で、変わらない時間が流れている。
ただ、同じ中にも、おかしなことが一つあった。俺たちが店に入ると、なぜか店員の女の子と男が大げさに反応していて、店長らしき男はそれを呆れた目で見ていたのだ。彼女もそれに気がついたらしく、いつもと同じ席についてから「変なの」とこぼしていた。
「今日、レポートプリントアウトしてなくて出せなかったんだって?」
いつもと同じように紅茶を頼んで、それを飲みながら彼女に聞いてみた。彼女は一瞬何のことか分かっていないようだったが、すぐに思い当たったようで、少し呆れた表情になる。
「よく聞いてたね」
「まあね」
「今日出していいなんて思ってなかったし。せっかく書いたのに」
そう言って、彼女は下唇をちょっと突き出して拗ねた顔をする。俺がそれに笑うと、恨めしげな目をしてこちらを見てきた。
「別にいいけどね。今出して、へこみたくないし」
教室で言っていたのと似たようなことを言って、彼女も紅茶のカップを手に取った。それを両手で持ちながら紅茶を飲みだす。俺には彼女の言葉の意味が分からず、少しだけ首をひねった。
「だって、その場で添削するんでしょ? それで『ちょっと……』みたいなこと言われたら、普通へこむでしょ」
俺の顔に気付いた彼女がそう続ける。彼女の言葉を理解して、思わず笑ってしまった。
「そんなこと気にするんだね」
「するよ。単位かかってるんだから。だいたい、永井さんの出した課題、難しいし」
「そう?」
「課題出した瞬間のみんなの顔見てないの?」
そう言われて、課題を出したときのことを思い出そうとしたが、彼女の言う学生の顔なんてまったく覚えていない。というか、スライドで説明していたから、学生の顔なんて見ていない。それが顔に出ていたらしく、彼女は呆れた顔をして、カップをテーブルに置いた。
「友達曰く、『まじありえない』そうですけど」
「ほんとに?」
「ちなみにその友達はまだ手つけてないみたいだったけどね」
「採点するの怖いな」
彼女の言葉に苦笑いをこぼして言うと、彼女は面白そうに笑いだす。
「頑張って採点してね」
にやにやと面白がっているような笑みを浮かべて、彼女は続けた。それに肩をすくめて返し、紅茶を一口飲んでテーブルに置く。
「春休みは何か予定あるの?」
その問いかけに、彼女は持っていたカップを置く。それから、嬉しそうな顔をした。
「友達と旅行行くんだ」
「お土産買ってきてあげる」と続けて、彼女は笑った。そんな彼女を見て、こちらも自然と笑みが漏れてくる。
「永井さんは何か予定ないの?」
「どうかな。短期研究員のやつは前に断っちゃってるから、たぶん何回か発表会があるくらいで、他はわりかし暇かもね」
「そっか。研究員って、何するの?」
「その名の通り、研究かな。まあ、実験とかはないから、主に論文書きに追われるけど。他の人と共同でやったりもするよ」
以前に行った研究員としての内容を話すと、彼女は興味深そうに聞き入ってくる。
「興味あるの? こういうこと」
一通り話し終えたあとにそう聞けば、彼女は少し考えるようにして首を傾ける。
「たぶん、好きだよ。そういう、勉強とかは」
「院とかは行かないの?」
俺の言葉に、彼女は小さく笑って、困った顔をする。どうしたのかと思って、目で先を促せば、彼女はその顔のまま話しだした。
「行けたらいいなって思うけど、どうなんだろうね」
そう言って笑ったが、その笑いが空元気なように思われて、先が気になってしまう。それでも、彼女はその先を続ける気はないようで、また別の話を振ってきた。少し気にはなったが、大きなことでもないかと考えなおして、彼女との話を続けることにした。
いつもは5時くらいにここを出るのが、久しぶりに来たからか、気付けば6時を過ぎていた。そろそろ帰ろうかと彼女が言い出したので、俺も頷く。だが、立ち上がる前に提案が浮かんで、彼女が立ち上がる前に口を開いた。
「夕飯、食べていこうか」
「え?」
横の椅子からコートを取ろうとして、彼女がきょとんとしたようにこちらを向く。それから、少し戸惑ったような顔になった。
「え、でも、」
「今日くらい遅くなっても大丈夫だよ。ちゃんと連絡はするから」
そう言っても、彼女はまだ戸惑っている。
連絡なんてしなくても、家に万里子はいないんだから大丈夫だが、それを彼女に言うつもりはなかった。言えば、彼女はそれを気にして、ついてくることはしないだろう。
「これからだって一緒にいる時間は限られてるんだ。初めくらい、一緒に食べよう」
彼女の目を見て言うと、彼女はやっと頷いてくれた。彼女が戸惑いながらも、俺と一緒にいたいと思ってくれていることは間違いないみたいだ。彼女の返事を見てから二人して席を立ち、久しぶりのカフェを後にした。
カフェからほど近い場所にあったレストランで食事をしてからも、俺と彼女は一緒にいた。近くにあった商業施設に入り、中に入っていたチェーン店でコーヒーとラテを買って、そこの三階にある外のベンチに座ってゆっくりした。そこからは周りの風景がよく見えて、軽い展望場になっていた。
「あー、週末だと車いっぱいだー」
ベンチに座りながら柵の向こうにある下を見下ろして、彼女が楽しそうに言った。食事の後も一緒にいることに後ろめたさを感じていたようだが、今はその様子が見えない。後ろめたい感情がなくなったのか、隠しているのか。それは分からなかったが、見た限りじゃ彼女も俺といることを嬉しく思っているようだった。
「来週で授業終わりだね」
下を見ていた彼女が、ふいにそう言うのを聞いて、顔を彼女の方に向ける。
「さみしい?」
「それはない。バイトもあるし。ちゃんと会ってくれるんでしょ?」
俺の問いかけに、彼女は笑って首を横に振った。こちらを見ながらされた質問に、笑みを浮かべて数回小さく頷いて答える。それを見た彼女は、満足そうに笑って「よかった」と返してくる。
風が吹いて、彼女の髪が揺れる。それが彼女の顔にかかったのを見て、手を伸ばし、髪を耳にかけてやる。耳にかけている途中で彼女と目が合い、彼女が小さい笑みを浮かべた。
「来週で終わりでよかった」
「なんで?」
手を彼女から離して聞き返すと、彼女は訳知り顔になって、こちらを見てきた。
「永井さんが誰かに誘惑されずにすむから」
一瞬何のことか分からず、目を丸くしてしまう。訳知り顔で笑う彼女を見て少ししてから、ようやく何を言っているかに思い当たった。
「見てたの?」
「見てたし、聞こえてましたー」
わざとらしく語尾を伸ばす彼女に笑って、コーヒーを一口飲んだ。
彼女が言っているのは、今日レポートを提出しにきた女子学生のことだろう。いつの間にかいなくなっていたと思っていたが、どうやらあの場面を見ていたらしい。
「知らなかったんだけど、あの学生、三時間目の授業にもいたよ」
「わー。よっぽど好きなんだね」
ちゃかしているような口調で彼女は笑う。
「面白くなかった?」
ラテを飲んだ彼女に問いかければ、彼女は「んー」と声をあげて悩む素振りを見せる。
「面白かったような、面白くないような」
「何それ」
彼女の言葉に、今度は俺が笑ってしまう。彼女も笑っていたが、それには少し困った顔がついていた。
「永井さんが困ってるのは面白かったけど、あの人が永井さんを好きそうなのは嫌かなあ」
「そういう一般的な感情を持ってるのは嬉しいんだけど、何で俺が困ってたら面白いの」
「めんどくさいなあ、みたいなのが丸分かりだから」
意地の悪い笑みを浮かべながら彼女が返してきた。それを見て、苦笑が漏れる。
「知らないんだろうけど、『先生』ってポジションだけで女子的にはかっこよく見えるもんなんだよ」
「そんなの知らないよ」
「じゃあ、今から知っといてね」
彼女の言葉に笑いながら頷けば、彼女は満足そうにして、ラテを口にした。
***
彼女の家に着いたのは、9時近かった。万里子が家にいないことを知らない彼女は、未だに後ろめたさを感じているようだが、それを顔に出したり口にしたりすることはもうなかった。
「じゃあね。送ってくれてありがとう」
家の前に着いて、彼女はそう口にしてシートベルトを外した。そして、そのままドアに手をかける。
「春希、」
外に出る前に彼女を呼べば、彼女は少し驚いたような顔をしてこちらを振り向いた。それに微笑み、自分のシートベルトを外して、振り向いた彼女の頬に触れる。もうそれに戸惑いを見せることのない彼女を引き寄せると、彼女はそれに素直についてきた。頬に手を触れたまま唇を重ねて、ゆっくりと彼女を感じる。何度か重ねることを繰り返して、彼女を放した。
「お休み」
離れてるのか触れてるのかの距離でそう告げると、彼女は数回頷いて笑みを浮かべた。その笑みが何を示すのか考える暇もなく、もう一度短く唇を重ねられ、彼女が離れた。
「気をつけてね」
彼女はそれだけ言うと、俺が何かを返す前に車を出ていった。窓の外を見れば、にこにこと手を振っている彼女がいて、してやられたと苦笑いが浮かぶ。彼女に軽く手を振り返して、俺は車を発進させた。