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いつも通り、車を駐車場に止めてそこから出ようとして、無意識に溜め息をついた。そんな自分に気が付き、今度は苦笑が漏れる。
彼女から答えを聞いて、一週間が経った。思った通りというか、彼女の答えは『永井さんとは一緒にいない』というものだったが、それが俺とのことを考えてから出したかというと、それは違ったようだ。いろんなものが頭の中でごちゃごちゃとなって、それなら俺と会わないとなったのかもしれない。納得しようとしたが、やはりそんな答えでは無理だった。今日、もう一度彼女からの答えを聞く。聞かせてくれるかどうかは分からないが、今日出たものならば、どんなものであっても受け入れるつもりだった。
万里子の方は、離婚を切り出した次の日以来、家には帰ってきていない。たぶん実家に帰っているんだろうと思い、実家の義母に確かめれば、やはりその通りだった。今は万里子のしたいようにしてくださいとだけ伝え、その電話を切ったのも、離婚を切り出した次の日だ。正直、この部分に関しては、申し訳ない気持ちがある。家を出るなら、万里子ではなく、俺だ。
今日までのもろもろのことを思い出して、もう一度溜め息が出た。車の中のデジタル時計を確認して、ようやく車を出ることにした。
「来週の授業で最終レポート出してもらうけど、今日持ってきた人いたら出していいよ。今見て、来週もう一回出してもいいし」
今日もいつも通り授業を終えて、終わりにそう告げると、いつもの席に座っていた彼女が顔を引きつらせた。周りにいた二人ほどの友達が、にやにやと笑って彼女を見ている。その様子に内心首を傾げながら、教室の真ん中にある教卓の椅子に座って、レポートと今日のミニレポートが提出されるのを待った。
俺が教室に入ってからも、彼女はいつも通りだった。変に顔をこわばらせることもなく、かといって不自然に目を逸らすわけでもなく。いつも通り、俺と彼女がただの知り合いでいたときのように、友達と話したり、授業を聞いたりしていた。
「どんまい、宮瀬」
「別にいい。今出して、どん底に落とされたくないし」
椅子に座って、早くも提出された一人の学生のレポートを読んでいると、彼女の友達と彼女が話す声が聞こえた。読みながらその話を聞くことで、彼女の引きつった顔の原因と彼女の友達のにやにやとした顔の原因が分かった。どうやら彼女は二週間前にはレポートを完成させていたらしいが、面倒がってそれをプリントアウトしていないということらしい。まあ、別に期限は来週だし、俺も本当に今日出す学生がいるとは思っていなかった。
「んー。微妙に筋が通ってないところがあるよ」
「え、どこですか?」
彼女から意識を外して、目の前に立つ女子学生にレポートの指摘をした。学生は俺の手元を覗きこむようにして、指摘したレポートを見ている。簡単にレポートの添削をして、それを学生に返す。学生をお礼と共にそのレポート受け取ったが、すぐに席に引き返すことはせず、その場に立ったままでいた。
「どうかした?」
レポートを両手で抱えるようにして持つその学生に尋ねれば、学生は少し恥ずかしげに笑みを浮かべて、小首を傾げた。
「先生、指輪、外したんですね」
「え? ああ、今日は忘れてきたんだ」
左手を指しながら言われた言葉に、何でもないというように嘘をつく。本当はだいぶ前から外していたが、それに気付いてることもないだろう。そう思ったが、その予想は外れた。
「嘘。だって、だいぶ前から外してたじゃないですか。何かあったんですか?」
初めの言葉は拗ねたように、最後の問いかけは心配するように聞かれた。
「何にもないよ。修理に出して、するの忘れてただけだから。最終レポート、忘れないでね」
その言葉を最後にするようにして言って、目の前に立つ学生の次の質問を封じた。学生は不満が残っているような顔をしたものの、素直にレポートを持って引き返す。その後ろ姿を見ながら、溜め息をつきたいのを堪えて、椅子の背に寄りかかった。授業終了のチャイムが鳴るまでもう少しあるが、ほとんどの学生が教室から出ていく。視線を前に向けると、たまたま出ていく先ほどの女子学生と目が合った。それには気付かない振りをして、端にある教壇に移動しようと席を立つ。端に移動して、鞄の中に今日つかったレジュメを仕舞いこんでいく。どうも、あの女子学生に変な意識を持たれているようだ。自惚れであってほしいが、指輪のことを聞いてきた時の学生の目と態度のことを考えれば、それも間違いじ
ゃないような気がする。というか、じゃなかったらわざわざ指輪のことなんか聞かないだろうし、気付いていたとしても普通なら無視しようと考える年齢だ。
溜め息をつきながら彼女が座っていた席を見れば、彼女もいつの間にかいなくなっていた。
三時間目の授業で、さっきの女子学生がここにもいたことに初めて気がついた。
二時間目の授業と同様に最終レポートのことを告げ、今回も早めに授業を終える。またしても、女子学生がレポートを手に教壇に来た。「さっきぶりですね」と笑って言われ、「そうだね」と返した。レポート内容は不出来というわけではないが、ところどころ筋の通っていない部分や、意味が分からない部分があって、一番採点が困るパターンだ。レポートを読みながら、70点後半かなと目星をつける。今回も簡単な添削をつけて、レポートを学生に返した。
「じゃあ、最終、頑張って」
女子学生が何か言いたそうにしていたのは見えたが、それは無視して後ろに並ぶ学生のレポートを受け取った。
三時間目が終わって、やっぱり間違いないんだろうなと思った。女子学生の表情は、いつかの劇場で見た女性のものと同種のものだ。威力を発揮していた指輪がなくなり、それの所在を確かめようとしていた。好意を寄せられても、俺はあの学生の名前も知らないのに。
この授業に登録している学生も、二時間目と同じくらいに7,80人はいる。一回生から登録できるものだから、もしかした二時間目のものより多いかもしれないくらいだ。その中で特定の学生の名前と顔を一致させるなんて、はなから無理な話だ。あの女子学生が二時間目にも三時間目にもいたことを、今日初めて知ったくらいなんだから。そう考えれば、彼女のことを知ったのは、本当に偶然でしかないのだと改めて思う。彼女が一番初めにレポートを提出して、それが他に抜きんでて優れていて。今思えば、その優秀さがあったから、彼女に会えたのか。
「考えすぎか」
自分の考えに笑って、教壇の上を片付けた。
キャンパスを抜けて駐車場に戻りながら、携帯の履歴を確認する。全ての授業が終わっても、彼女からの連絡はなかった。ということは、先週から答えは変わっていないということなのかもしれない。自分から言い出したことだ。それも仕方ない。少しの心残りはあるものの、彼女の意志を妨げはしない。
「遅いよ」
車を止めてあった場所まで来て、彼女の声が聞こえた。見ていた携帯から顔を上げると、車のボンネットに寄りかかっている彼女と目が合う。
「なに、やってるの?」
てっきり連絡は来ないものと思っていて、今彼女がここにいることをうまく処理できない。それでも歩いて彼女のそばに行けば、少しずつそれを飲みこんでいけた。
「永井さん待ってた」
彼女は一旦俺から視線を外したものの、ゆっくりと俺を見上げてそう言った。
きっと、答えを告げに来たんだろう。そう思って、もう何も言わずに彼女からの言葉を待つ。彼女は一度息を吐いて、口を開いた。
「やっぱり、彼氏とは別れられなかった。別れたくないって言われた。もう好きじゃないけど、はっきりそう言えなくて、ずるずる流された」
彼女の視線が下に落ちて、言葉が止まる。何を言うでもなくそのまま立っていると、彼女がゆっくりと腕を上げて、俺のコートを掴んだ。
「ごめん。勝手で。ひきょうで、ごめん」
顔を上げないまま、彼女は言った。泣く、まではいかないも、その声は微かに震えていた。
この言葉の続きがどちらに向かうかなんて、俺には分かるわけもなく、ただ彼女の次の言葉を待つことしかできない。彼女は一旦息を吐いて、「けど、」という声とともに顔を上げた。
「けど、永井さんといたい。こんなんだけど、今は永井さんといたい」
「ごめん」と、彼女は続けた。不安で覆われたその顔が、少しだけ泣きそうになった。
彼女の言葉を聞いて、顔を見て、自分でも安堵したのが分かった。これだけ不安で泣きそうになっても、彼女は俺を求めてくれた。
鞄を持っていない方の手で、彼女の頬を一撫でし、引き寄せてその唇を塞いだ。一度だけ触れたそれを離し、また彼女の頬を撫でる。彼女の顔から泣きそうなそれは無くなった。代わりに、目を開いて驚いている。
「ちょ、」
混乱する彼女に、笑みが漏れる。
「そう思ってくれてよかった」
「よくないよ。今の私の立場で、永井さんといたいなんて」
彼女はそう言いながら自嘲気味に笑って、俺から視線を外す。それでも、その手はまだ俺のコートを掴んでいて、それが彼女の気持ちを表しているようだった。
「立場のことを出されると耳に痛いんだけど」
「あ、ごめん」
俺の言葉に、彼女が今気がついたというように顔を上げる。俺は言葉とは反対に顔には笑みを浮かべて、彼女を見下ろしていた。
「不謹慎な話だけど、立場とかどうでもいいと思えるほど、君が欲しいんだ。それに君が応えてくれただけで嬉しい」
「……変なの」
「変でもいいよ。君がいるなら」
そう言えば、彼女の顔にやっと安心したような笑みが浮かんだ。それに俺も笑みを返して、彼女の頬を撫でる。
「家の前で待ってて。迎えに行くから」
撫でていた手を離し、彼女にそう伝えると、彼女は何のことだと首を傾げる。
「久しぶりにあそこに行こう」
「ああ。うん、分かった」
『あそこ』と言えば、彼女も俺の言っていることが分かったようだ。彼女と初めて会った時から通っているカフェ。今日は金曜日で、授業が終わった金曜日はいつもそこへ行っていた。彼女はどうか知らないが、俺は長いことそこに行っていなくて、何となく今日は行きたい気分だ。彼女も同じ気持ちなようで、俺の言葉に頷くと名残惜しげにコートから手を離し、自分の原付の元へ行くために俺に背を向けた。
彼女が原付のところに向かったのを見送って、俺も車に乗り込む。鞄を助手席に放り投げて、車のエンジンを掛けた。