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結局、うまい伝え方なんて何一つ考えつけずに、金曜日を迎えてしまった。
永井さんは、私が決めるまで待つと言ったけど、それがいつになるのか自分でも分からない。それなら、今日言ってしまおうと思っていた。後に持ち越すより、今言ってしまった方が楽な気がした。どうせ、あと少しで、永井さんの授業も終わる。会わなくてすむ。思い出しても、会うことがないなら、大丈夫だ。
「おはよ」
先に教室に着いて携帯をいじっていると、後から来た友達が横に座りながら声を掛けてきた。携帯を仕舞って友達の方を向く。
「はよー」
永井さんのことを頭の隅に追いやって、へらっと笑ってみせた。
授業が始まる前も、その最中も、終わった後も、永井さんはいつも通りだった。いつものように舞台背景を説明して、先週出されたミニレポートの内容で教室を笑わせて、教壇に座ってDVDを観て。その手にだけ、いつもの指輪がなかった。
「ちょっと聞きたいことあるから、先行ってて」
「わかったー」
授業が終わった後、友達にそう伝えて、教壇の周りや教室に人がいなくなるのを待つ。何気ないように携帯をいじって、動く人たちから浮かないようにした。
最後の人たちが出ていったのを見て、ゆっくりと歩いて永井さんのいる端っこの教壇に近付いた。永井さんは以前のようにレジュメをすべて整理してから、私の方を見た。
「意外と早いんだね」
椅子に座って、目の前に来た私に永井さんがそう言った。言葉の割には、別段驚いている様子も、戸惑っている様子も見えない。
「うん」
そうやって頷いて、永井さんの顔を見た。永井さんはいつものように、小さく笑っている。もう何度思い出しかも分からない、『春希』と呼ぶ声を、また思い出した。そんなのを全部頭から追い出して、口を開く。
「やっぱり、永井さんと、一緒にいることはできない。私は彼氏がいるし、永井さんは、結婚してるし。あんなことしておいて最低だけど、永井さんとは、無理だよ」
頭の中を全部そのことでいっぱいにして、ちゃんと永井さんを見て、そう口にした。永井さんの顔から笑みが消えたけど、その顔は怒っているでもなく、悲しんでるわけでもなかった。じっと私のことを見て、今の言葉を探っている感じだった。
「ちゃんと彼氏とも話して、続けることになった。だから、永井さんとは一緒にいない」
言い終わってから少しして、永井さんが小さく息をはいた。
「そっか。君がそう言うなら仕方ない」
永井さんの言葉を聞いて、ばれないように心の中で安堵する。でも、永井さんの言葉には続きがあった。
「でも、それが君自身で考え出したことじゃないなら、納得しない。彼氏と続けるって決めたのは、君? 両方?」
永井さんは涼しげな顔して聞いてくるけど、その目はしっかりと私を見据えていて、少しだけ、逃げ出したくなった。
「ちゃんと俺の事見て」
「見てるよ」
「違う。逃げないで、俺のこと考えて、それで答えを出して」
永井さんは、分かってた。やっぱり。私が永井さんのことを何一つ考えないで永井さんとのことを決めたこと。
「俺は、曖昧でも何でも、君が欲しいって言ったよね。君がこのまま何となく彼氏と続けたままでも、俺を選んでくれたらと思ってる。それで君が誰かに冷たい目で見られて、それが嫌なら、もう何も言わない。俺のことが嫌いじゃない限り諦めないとは言わないけど、せめて君自身の答えを聞かせてほしい。俺がどうとか、周りがどうとか、そうじゃない答えが欲しい」
そこまで言い切られたら、もう永井さんを真っ直ぐに見ることはできなかった。
永井さんは分かってるんだ。私が、古賀さんを失うことを恐れていることを。それで、それを言わなかったことを。分かってても、永井さんは私を望んでいた。真っ直ぐな永井さんのそれに、私は向き合わなかった。
「春希、」
永井さんが、私の名前を呼ぶ。思わず視線を永井さんに戻すと、さっきより柔らかくなった目でこちらを見ている永井さんと目が合った。
「正直に言えば、曖昧なのは俺も一緒で、まだ家を出た状態じゃない。このことはちゃんとするつもりだけど、それがいつになるかは分からない。それでも、君を欲しいと思ってる。だから、曖昧だとかどうとかで悩む必要はないよ」
「勝手なのは俺も同じだよ」と、永井さんは続けた。そして、座ったまま私の腕を取り、ゆっくりと自分の方に引き寄せた。永井さんのすぐ目の前に立たされて、どうしたらいいか分からず、目が泳いでしまう。永井さんはそんな私を見て笑みを漏らし、指先で私の頬を撫でた。しばらく頬を撫でられて、今度は手で頬を包むようにされた。右も、左も。それから、永井さんの顔が近付いてくる。それを見て、自分でも不思議なくらい、自然と目を閉じていた。
ゆっくりと重なった唇から、永井さんを感じる。驚きとか、戸惑いとか、嫌悪とかなんて、一つもなかった。何も不思議に思わず、自然に受け止めていた。
「来週まで待つから。来週まで考えて、それでも考えが変わらなかったら、もう何も言わない。どんな答えだろうと、ちゃんと受け止めるよ」
少しだけ顔を離してそう言われ、頷くしかなかった。頷く私を見て、永井さんは私から手を放す。自惚れかもしれないけど、そうする永井さんが、名残惜しそうに見えた。
「それじゃあね」
教壇に置いてあった鞄を手にとって、永井さんが私の横を通っていった。
後ろでドアが閉まる音を聞いて、のろのろと自分もドアの方へと向かう。
私は一体何がしたいんだ。彼氏とも別れられず、古賀さんに軽蔑されることを恐れ、永井さんと離れることもできなかった。ばかみたいだ。一度は決断するくせに、それを実行することもできない。相手の言葉に、ほいほいと流されてしまう。自分を勝手だと思う自分が、勝手な人間で、ひきょうな人間に思えた。
授業のあった棟を出て、友達といつもご飯を食べる場所に向かう。その途中にある喫煙スペースで、見知った人たちを見かけた。その人たちは、本来ならここにいるはずもなく、いる必要もない人だった。片割れの人が私の方を見て、なぜかあたふたしている。
「何やってるんですか? こんなところで」
「あ、宮瀬ちゃん」
声を掛けると、あたふたとしていた一人がへらっとわざとらしい笑みを向けてくる。その隣に立つ人は、『だから言わんこっちゃない』という風に溜め息をついている。この人たちとは、以前バイト帰りにご飯を食べたお店で会ったことがある。古賀さんの友達だと教えられたこの人たちは、会った瞬間から、なぜか私に親しげに話しかけてきた。特に今あたふたしている人。
この人たちは、古賀さんの友達で、古賀さんと同じ大学の人たちだ。だから、ここにいる理由がない。それを不思議に思って尋ねただけなのに、あたふたしていた方は「えっと、」やら「あー」という言葉を繰り返すだけで、なかなか教えてくれない。見かねたその人の友達が、代わりに教えてくれた。
「明法の友達に会いに来たんだけど、そいつ教授に呼び出されててさ。今待ってるところなんだ」
「あ、そうなんですか」
そう答えながら、周りを見回す。古賀さんから『よく一緒にいる奴ら』だと聞かされていたので、その本人もいるかもと思ったんだけど、どうやら古賀さんは来ていないようだった。
「古賀は学校で教授から呼び出し。呼び出しっていっても、手伝いとかなんだけどね」
「優秀だから」と、その人は私の考えを読んだかのように言った。それに頷いていると、横からあたふたしていた方が「そうなんだよ」と大げさなくらい合いの手を打つ。教えてくれた私の前に立つ人が、うっとうしそうに顔をしかめた。
「古賀のこと聞いた? あの、美香ちゃんっていう子のこと」
顔を元に戻したその人が、そういえばと尋ねてくる。横にいた人が、『え、』というようにその人を見た。
「あー、うん。聞いたよ。良かったよね」
古賀さんの友達なら、美香ちゃんとのことを知っていて当然だ。水曜のことを思い出しながら、笑いながら頷いて答える。
「古賀ってさ、ほんとに美香ちゃんのこと好きだと思う?」
あたふたしていた人が、頷く私に質問する。その顔は、やけに心配そうだった。
「そうだと思うけど。古賀さんは優しいけど、嘘で付き合ったりはしないよ」
そう答えると、その人はほっとしたように安心した笑みをみせた。「そうだよなー」なんて言いながら、顔を笑みでいっぱいにする。真っ直ぐな人だなと、そう思った。古賀さんのことが心配で、それでもそれを気付かれないようにして。この人の性格上、本人は気付かれてないと思ってても、すぐにばれたりするんだろうけど。
本当は、古賀さんが美香ちゃんを好きかどうかなんて知らない。付き合ったという報告は受けたし、たまにデートのことなんかも聞いたりするけど、二人の間で美香ちゃんとのことを深く話したことなんてない。それは、しちゃいけないような気がしているからだ。二人とも。
「じゃあ、友達が待ってるんで」
「あ、うん。ばいばーい」
にこにこしながら、手を振ってくる。その横にはその人を呆れたような目で見ている人がいた。
二人から離れ、小さく息をつく。
『来週まで待つから』
永井さんの言葉を思い出す。
こうやって日があくと、私はまた悩む。古賀さんに言うべきか、どうか。古賀さんは美香ちゃんとのことなんか気にせず、何かあれば言えと言ってくれた。だけど、それを本当にその通りにしていいんだろうか。今現在で、美香ちゃんのことを無視して、以前のように何でも相談して。それに、事が事だ。私が一番怖いのは、古賀さんと美香ちゃんがどうにかなることじゃなくて、古賀さんを失うことだ。こんな曖昧な自分を、古賀さんは軽蔑しないだろうか。
と、そこまで考えて、またかと自嘲した。また、永井さんのことを考えていない。
私は結局、何が欲しいんだろう。