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次の日、隣で眠る彼女を仕方なく残し、俺は前日と同じ会場に向かった。それでも、その日は特にやることもなく、昼過ぎにはホテルに戻ることができた。
「あれ、服買ったの?」
ホテルに戻り、部屋のドアを開けると、さすがに彼女も起きていた。昨日とは違う服を着て。泊まる用意を持ってきていないんだから、当然着替えなんか持ってきているわけがない。その彼女が昨日とは違う服を着てるということは、朝起きてから買い物に行ったんだろう。
彼女は俺が部屋に入って声を掛けると、ぱっと両手を広げて服を見せてきた。
「うん。起きてもすることなかったし、今日の分だけ買ってきた」
「上だけだけどね」と言いながら、それでも彼女は嬉しそうに笑う。確かに、彼女がはいているジーンズは昨日と同じもののようだった。まあ、上が変わるだけで全体が違うように見えるのだから、それはそれで良いんだろう。
それよりも、彼女の言葉から察するに、彼女は明日までしっかりここにいてくれるようだ。明日は月曜日だが、祝日なので問題はない。彼女のことだから、今日帰ると言いだすのではないかと少し心配していた。
「いても、いいんだよね?」
一応安堵の気持ちを持っていたんだが、彼女にはそれがどういう顔に見えたのか、困ったようにそう尋ねてきた。鞄をベッドに置いて、ソファのところまで行ってその前に立っていた彼女に微笑みかける。
「帰るって言われたらどうしようかと思ってたよ」
そう言えば、彼女はほっとしたような笑みを見せる。それと同じくらい俺がほっとしているのを、彼女は分かっているんだろうか。
帰ってきたら昼ご飯に行こうと決めていたので、二人して部屋を出る準備をする。彼女がクローゼットからコートを取り出して着ていた時に、思い出したように声をあげた。そして、少し非難するような顔で俺の方を見てくる。
「なに?」
その視線の意味が分からず問いかけると、彼女はむっとしたように口をつぐんだ。
「……あんまり痕つけないでよ」
彼女の言葉に『ああ』と合点がいく。試着する時にでも見えたんだろう。昨日俺がつけた痕が。
「先につけられたのは俺なんだけどね」
ベッドから鞄を取りながら言うと、彼女は意味が分からないといったように俺のことを見てきた。鞄を持って、コートとマフラーを着た彼女を見下ろす。着ていたシャツのボタンを数個開けて、肩らへんが見えるようにした。
「ここ。小さいけど、痕がついてるんです。意識してなかったみたいだけどね」
赤く痕になっているであろう場所を指しながら言うと、彼女は何も言えなくなって、憮然としたままドアの方に身体を向けた。それに笑うと、またしてもむっとしてこちらを見返してくる。
「おあいこだよ、これで」
ボタンを閉めながら言えば、彼女は何も言えないままドアを開ける。俺はそれに笑って、彼女の後に続いた。
彼女の機嫌は、昼ご飯を食べた頃にやっと直った。美味しいものを食べると気分が良くなると、彼女は嬉しそうに笑ってそう言った。
「それは安上がりでいいね。今度拗ねられたら、美味しいもので釣るよ」
「じゃあ、ものっすごい高いので」
「俺の財布と折り合いがついたらね」
こじんまりとしたレストランを出て、そんな会話を交わしながら市街を二人して歩く。日曜日の今日は、やはり人が多かった。家族連れもや友達同士もいるが、やはり目がいくのはカップルで、皆休日の午後を楽しんでいるようだった。
街の通りを歩きながら、隣を歩く彼女の手を取った。周りを歩くカップルと同じように手を繋ぐと、彼女は驚いたようにこちらを見上げてくる。それには気付かない振りをして、彼女が手を放さないように、ぎゅっと手を繋ぐ。少しして、彼女も俺の手を握り返すように繋いできて、彼女に気付かれないように笑みを浮かべた。
「またああいう服着てよ」
横断歩道で止まっている時に、向かい側の歩道にいる大学生くらいの女の子を指差して言った。彼女は見えにくいのか、少しだけ目を細めてその女の子を見る。それから、「ああ」と声を出した。
「ああいうの一応持ってるけど」
「うん。前に見たことあるけど、似合ってた」
「覚えてたらね」
少し照れたように彼女はそう言って、青になった横断歩道を渡り始める。
俺が指差していた服は、以前に彼女が村瀬の舞台を観にきた時に着ていたようなものだった。丈が短めで、裾がふわっとしているズボンのようなもの。最近大学でもよく見るけど、名前までは知らない。
横断歩道を渡り切って、先ほどとは反対の歩道を歩く。彼女の服を買うため、その途中にあった大きめのファッションビルに入ることにした。
ビルの中も、人が多かった。人ごみが苦手らしい彼女は、その人の多さに若干引いていたものの、服を買うためと溜め息をついてエスカレーターを上がっていく。正直、俺の方はこんなところ久しぶりすぎて、どこをどう行ったらいいか分からず、彼女についていくだけだ。それでも、彼女と一緒なら女ものの店に入っていくのも特に何とも思わないので、店の前で所在なさげに待つ男を横目に、彼女の服選びに付き合った。
彼女は俺の注文通りに、あの女の子が着ていたようなボトムを選んでくれた。
「お客様、細いですね」
店員の一人が、服を試着した彼女に向かって、少し驚いたような声で言う。試着室は店の奥にあるものの、店員の声はそのテナントに十分聞こえていて、何人かの客が彼女の方を向いていた。彼女は顔を引きつらせて「はあ」と困ったように言うしかなかった。それがおかしくて店員の後ろで笑っていると、彼女が目で『笑うな』と制してくる。結局、ボトムはそれに決まり、同じ店で上の服も買うことにした。
「何もあんな大きい声で言わなくてもいいのに」
店の袋を持ちながら、彼女が呆れたように言った。
「いいじゃない。細いなんて、みんな羨ましがるよ」
「私はこの細さに危機感覚えてるんですけどね」
彼女も彼女なりに自分の体型を気にしてるようで、困ったような顔つきになる。
「周りは気にしなくてもいいと思うけど、ちゃんと食べてね」
「食べてるよー」
昨日と同じような会話をして、エスカレーターを降りていく。
ビルを出たところでまた彼女の手を取り、ぶらぶらと通りを歩く。今度は、驚いた顔も、手を放すようなこともせず、俺の手を握り返してくれた。
ホテルに帰ってきたのは、8時頃だった。彼女の服を買った後に俺の服を見にいったり、近くにあった観光場所に行ったりとして、外で夕飯を食べて帰ってきた。
昨日と同じ順番でシャワーを浴び、髪を乾かし、ソファに座ってゆったりとしていた。彼女は昨日よりも身体を楽にしていて、パソコンを開く俺の隣でのんびりと本を読んでいた。明日はどうしようかと話して、彼女がガイド本通りに動いてみようと言うので、そうすることにする。部屋は彼女が本をめくる音と、俺がキーボードを打つ音しかしなかったが、二人とも別段それが気になるというわけでもなかった。ゆっくりとしたその時間を壊したのは、ドレッサーのテーブルに置いてある俺の携帯だった。
「出ないの?」
携帯に気付いた後もそれを無視してパソコンを打つ俺に、彼女が遠慮がちに聞いてきた。それには小さく笑って応え、パソコンを打ち続ける。携帯のバイブ音はしばらくして止んだが、またすぐに鳴りだす。彼女は声には出さないものの、それを気にしていた。パソコンを打つ手を止めて、ドレッサーに手を伸ばし、携帯を手に取った。掛けてきたのは、万里子だ。手の中で鳴り続けるそれには出ず、電源を切った。
「……ごめん」
携帯をソファの横に置いてある鞄に仕舞うと、隣に座っている彼女が小さな声でそう言った。
「君が謝る必要ないよ」
そう言うも、彼女は困ったような笑みを浮かべ、読んでいた本を閉じる。
「違うよ。永井さんのためじゃない。言えば、私が楽になるから言った」
本を自分の隣に置いて、彼女がそう言った。そして、俺の方を向いて、何ともないようにして小さく笑う。
「言わないようにしてたんだけど、無理だった。ごめん」
小さく笑う彼女の下には、悲痛で歪む彼女が見えた。こんな風に、彼女は自分の気持ちを隠そうとする。泣きたいのに、笑って。怒りたいのに、笑って。言いだしたいことを、飲みこんで。
パソコンの画面を保存してから電源を切り、何も言わずに彼女の手を取ってソファを立った。大人しくついてくる彼女をベッドに座らせて、その頬を両手で包んだ。
「この件に関して、君が謝る必要なんてない。君をここに来させたのも、俺だから。でも、言って君が楽になるなら、どれだけでも言っていい。そのことを、謝る必要もない」
揺れる彼女の瞳を見ながら、「ただ」と続ける。
「今は俺を見てほしい。先のことなんか考えないで、俺の事だけ考えてほしい。明日が終われば、君の自由にしていい。君が何かしらの決断をするまで、ちゃんと待つから」
最後の言葉に、彼女が目を開いて驚いた顔をする。そして、何か言おうと口を開きかけるのを、目で制した。
分かっていた。彼女が、まだ迷っていることを。何かにぽんっと背中を押されたように、俺のところに来たことを。きっと、明日が終われば、彼女はまた連絡を断つ。俺を遠ざけるためでなく、何かしらの決断をするために。
「俺は、曖昧でも何でも、君が欲しいと思ってる。どれだけ君が不安定な気持ちを持ってたとしても、手に入れておきたいと思ってる。ただ、君が欲しいだけだ。だから、君を呼んだんだ」
彼女の顔が、泣きそうになる。
彼女は自分を勝手だと、卑怯だと言う。それは、俺も同じだ。不安定な彼女を呼んで、抱いて、俺をしっかり覚えさせて、彼女の中の俺を占める部分が増えればいいと思った。悩む間に、俺とのことを思い出すようにした。少しでも、俺を選んでくれるように。
「明日が終われば、どう思ってもいい。でも、今は、俺を欲しがって」
ほとんどその言葉と同時に、彼女に口付けていた。余裕なんて、冷静なんて、そんなものはない。天秤なんて、はなっからないも同然だ。彼女のことしか考えていない。彼女しか、欲しがっていない。
何度も合わせる口付けに、彼女も応えてくれた。頬に触れている俺の手に自分のそれを重ねて、袖口を引っ張った。それに引かれるようにして、彼女をベッドに押し倒す。
「春希、」
名前を呼んだ。初めて抱いた時と同じように、何度も彼女の名前を呼んだ。彼女が俺を思い出すように、何度も呼んで、繋がった。
***
次の日の朝、先に目が覚めた。彼女が、抱きつくようにして眠っていた。
しばらくして起きた彼女と、ごろごろとベッドでじゃれ合って、ぎりぎりまでふざけていた。
昨日決めていたように、ガイド本通りに街を巡って、夕方にはそこを出た。
家まで送ると言うのに、彼女はそれを頑なに拒否した。確かに、彼女の言う通り、彼女を送って自分の家に帰るとなると、予告していた時間よりもだいぶ遅くなってしまう。折れない彼女を見て仕方なしに、俺の住む県から電車に乗ってもらうことにした。それでも彼女は断ろうとしたが、この日最後のわがままだと言えば、頷いてくれた。
彼女を駅前で下ろして、自分の家に向かった。もしかしたら彼女と触れあうことはないかもしれないというのに、別れ際に何かを言うでもなく、いつもと同じように「じゃあ金曜日に」と別れた。そうすることで、何か期待を持ちたかったのかもしれない。
マンションの駐車場に車を止めて、一度運転席で溜め息をついた。これからが、一番大変かもしれない。きっと、電話に出なかったことを責められるだろう。離婚について、なぜと言われるだろう。嫌だと言われるかもしれない。それでも、それを止めるつもりはなかった。誰とのためでもない。これからの生活を考えられない万里子とは、もう一緒には暮らしていけない。
『女より、自分のこと優先だろ』
三日前の村瀬の言葉を思い出す。その通りだ。結局、自分の研究を優先させたいから、万里子とは別れる。もし万里子がそれに理解を示したとしても、この決断を変えることはないんだろう。
車を出ようとしたところで、携帯が鳴った。万里子だろうと思いながら開くと、それは万里子ではなく、村瀬からだった。
『ばーか』
二日前に送られてきたのと同じメールが送られてきて、思わず苦笑する。
『ばかでいいよ』
村瀬にそうメールを返して、今度こそ車を出た。
エレベーターで上がって、家の階に着く。
「ただいま」
家に着いて、いつもと同じように声を掛けた。部屋の奥から、万里子がスリッパの音を鳴らしてこちらにやってくる。
「マサくん、何でメールも電話も出ないの?」
怒ったような口調と顔で万里子がそう言い、俺に答えを求めてくる。車のキーを靴箱に置いて、そんな万里子を見やった。
「うん。ごめん」
それだけ言って、靴を脱ぎ、部屋に上がる。そのまま万里子の横を通って、リビングへと向かった。万里子が怒って後ろからついてくる。二人ともがリビングに着いたところで、俺は後ろの万里子を振りかえった。
「万里、話があるんだ」