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これは恋なんだけど  作者: 空谷陸夢
Story 13. どうしたって変われない
38/111



近場の店で当面必要なだけのものを買い、夕飯に出かける。時間も時間だったので、大半の店は閉まっていて、明日の服なんかは明日買うことにした。

近くのレストランで食事をしてから、少しだけ散歩をして、ホテルに戻ってきた。



「明日の朝は早いから、寝てていいよ」



部屋に戻るときにそう言えば、彼女は「うん」と頷く。朝が弱いことは、俺よりも彼女の方が分かっていて、それに逆らうつもりはないようだ。



「何時くらいに帰ってくる?」

「自分の分は今日終わってるから、お昼には帰ってこれると思う」

「そっか」



部屋に着いて、彼女は着ていたコートをクローゼットのハンガーに掛ける。俺も自分のコートをハンガーに掛けてクローゼットに仕舞うと、その中からスーツケースを引っ張り出した。彼女は部屋の奥に行っていて、たぶん、買ってきたものを整理している。俺はスーツケースの中からロングTシャツを取り出して、ケースをまたクローゼットに仕舞い、彼女のところに歩いていった。



「はい。これなら着れるでしょ。シャワー、先に使っていいよ」



ベッドの上で買ってきたスウェットズボンのタグを切っている彼女にTシャツを差し出す。



「ありがと」



それを笑顔で受け取り、買ってきたものと一緒に彼女はバスルームへと向かった。

彼女がバスルームに向かうのを見送って、自分は部屋の奥にあるソファに座る。ズボンから携帯を取り出す。彼女と出掛ける前に、携帯の電源は切っていた。電源を入れると、二通のメールと数件の着信履歴が残されいた。メールは、村瀬と万里子から。電話は、すべて万里子からだった。



『ばーか』



村瀬からのメールは、この一言だけだった。どうせ馬鹿だよ。そう思いながら、村瀬からのメールに苦笑する。

彼女が来ても冷静でいられると思っていた馬鹿だ、俺は。こんなにも自分が彼女を欲しがっていたなんて気付かなかった馬鹿だ。彼女か万里子かなんてこと、考えることもしなかった。万里子のことなんて、考えてもいなかった。彼女が部屋の前にいるのを見た瞬間、余裕とか、冷静とか、そういうものはどこかに飛んでいった。

そんな自分にもう一度苦笑して、鞄からパソコンを取り出す。昨日と同じようにケーブルを繋いで、パソコンを立ち上げた。万里子からのメールは、開いていなかった。

しばらくパソコンに向かって明日の下準備をする。自分の分は終わったが、それなりに調べたいことはまだあった。キリの良いところまで書きあげたところで、バスルームから彼女が出てきた。その髪はまだ濡れていて、髪が簡単に拭いただけのようだった。



「何してるの?」



俺の座るソファのところまで歩いてきて、彼女が首を傾げながら尋ねた。



「明日の準備だよ。そこに今日発表した資料があるから、読みたかったら読んでていいよ」



テーブルの上に広げてある今日の資料を指して言えば、彼女は興味深そうにそれを手に取った。俺が貸したTシャツはそこまで大きくはなかったようだけど、袖の部分はやはり大きかったのか少しまくってある。パソコンの画面を保存して立ち上がり、彼女をソファに座らせた。



「そのファイルにも色々入ってるから、どうぞご自由に」

「頑張って解読する」



笑って言う彼女にこちらも笑い返して、俺はバスルームに向かった。

着替えを手にバスルームに行き、彼女なら解読とまでいかなくとも、しっかりと内容を理解するだろうと予想できた。彼女との関係を差し引いても、彼女にはこの分野の勉強に対する才能があると思っていた。それに気付いている教授がどれほどいるかは知らないが。

そんなことを考えながら服を脱ぎ、何の気なしにバスルームの鏡に目を向けた。そこで、自分の肩らへんに赤い痕があることに気付く。何だと思いながら、鏡に近付いてその痕をよく見る。それには、小さな歯型のような痕があった。何でこんなところに、と思ったすぐ後で、その原因に思い当たる。

さっき、彼女を抱いたときだ。正面から彼女を抱いていた時に、彼女が声を我慢するためか、しっかりと俺に抱きついてきていた。その時に、唇を肩に当てられていたんだろう。夢中だったのは、どっちだったんだか。今の今まで気付かなかったんだから、自分は相当いっぱいいっぱいだったに違いない。赤い痕を見ながら笑みを浮かべ、鏡に背を向けた。


バスルームから出ると、彼女はソファの上で体育座りをするように座っていて、真剣な表情で資料やパソコンを見比べていた。



「何か面白いもの見つかった?」



タオルで髪を拭きながらソファに近付いて彼女に聞くと、彼女は顔を上げて苦笑いした。



「これ読んで面白いと思えるほど賢くないよ。こういう解釈もあるんだなあって、すごいなって思っただけ」

「まあ、解釈なんて人それぞれだからね。君のレポートも、けっこう面白いと思うよ。俺は」

「ほんとに?」



俺の言葉に彼女は嬉しそうに笑う。よく見れば、彼女の髪は未だに濡れたままだった。



「まだ乾かしてないの?」



髪を指してそう聞けば、彼女は持っていた資料をテーブルに置いて、困ったように首を傾けた。



「だって、ドライヤー、バスルームにあるし」

「ああ、そっか。待ってて」



タオルを首に掛けて、来た道を引き返す。バスルームからドライヤーを持ってきて、ソファの隣にあるドレッサーのコンセントにコードを指し込んだ。



「はい、後ろ向いて」

「優しいねー」



ドレッサーの椅子を近くまで引っ張ってきてそれに座り、彼女に後ろを向くように促す。彼女はおかしそうに笑いながらも、肘かけを背にして、俺に背中を向けた。ドライヤーのスイッチを入れて、彼女の髪を乾かしていく。彼女は気持ちよさそうに目をつむっている。



「そういえばさー」



ドライヤーをしている途中で、彼女が少し大きめの声で声を掛けてきた。



「何で部屋こんなに広いの?」



「こんなに」と言いながら、彼女は腕を広げて部屋を表現する。



「本当はシングル予約してたんだけど、部屋が使えなくなったとかでグレードアップになったんだ」

「えー。そんなのほんとにあるんだ」



髪を乾かしながら同じように大きめな声で返すと、彼女は少し驚いたような、羨ましそうな声をあげた。

髪が完全に乾いて、ドライヤーのスイッチを切ると、彼女がくるりと俺の方を振り返った。



「なに?」

「乾かしてあげる」



少し楽しそうな顔で言われ、文句も言わずにドライヤーを手渡す。椅子を鏡の方に向き直して、自分も鏡を見るようにして座りなおす。彼女はソファから立ち上がって、スイッチを入れたドライヤーで俺の髪を乾かし始めた。鏡に映る彼女は楽しそうにしていて、俺の顔にも自然と笑みが浮かぶ。



「なに笑ってんの?」



それに気がついた彼女が不思議そうに問いかけてくる。



「君が楽しそうだから」

「何それ」



俺の答えにおかしそうに笑って、ドライヤーを続ける。

乾かし終わると、ドライヤーのスイッチを切って、コードを抜きにドレッサーに近付いてきた。「もう寝ようか」なんて言いながらコードを縛る彼女の腕を引っ張って、椅子に座る自分の膝に彼女を座らせた。彼女が持っているドライヤーを取って、ドレッサーのテーブルに置く。



「どうしたの?」



膝に横座りになった彼女が驚いた顔で尋ねてきた。俺は手を彼女の腰に回して、彼女との距離を近付ける。その距離に、彼女が戸惑うことはなかった。



「別に? やっぱり細いよね」



彼女の問いには適当に答えておいて、彼女の腰に腕を回したまま別の話題を振る。彼女は首を傾げたあとに、「んー」とうなった。



「細い、のかな? 服買う時に試着したら、店員さんにびっくりされたことはあるけど」

「それは十分細いうちに入るよ」

「特に気にしたことないから分かんないだよね」



俺の肩に手を置きながら、何でもないようにして彼女は言った。普通こんなことを言おうものならただの嫌味にしか聞こえないんだろうが、彼女は本当にそう思っているような言い方をするので、同性からもあまり反感を買うことはないようだ。



「俺としては、もう少し気にしてほしいけどね」

「なんで?」

「細すぎるよ。ちゃんと食べてるのか心配になる」

「食べてるよ。さっきも食べてたじゃん」



彼女が不満げに俺の言葉に言い返す。

確かに、先ほど夕飯を食べていた時も、彼女はしっかりと食べていた。それでも細いような気がして、心配になる。



「永井さんだって、細いよ」

「標準だよ。だいたい、俺と比べる対象いないんだから、分からないでしょ」

「じゃあ、永井さんは私と比べる対象いるんだ」



彼女の言葉に眉を上げてそちらを見れば、彼女はにやにやとした顔で俺を見ていた。



「だてに大学で教鞭とってませんから」

「たまに高校でも教えてるもんねー」



動じずに答えたそのすぐ後に、彼女が面白がるようにして付け足してきた。これには驚いて、彼女の方に顔を向ける。俺の驚いた顔が面白かったのか、彼女はしたり顔で笑っていた。



「なんで知ってるの?」



思わず質問してしまう。

確かに、週に一回だけ、高校で教えていたことがある。普通科の高校ではなく、芸術科のようなものがある高校だけど。



「永井さんのいる研究室のプロフィールに書いてあった」

「ああ、そういうこと」



彼女の答えに納得して、小さく息をつく。彼女は「びっくりした?」と言って、おかしそうに笑っていた。

彼女が見たプロフィールは、たぶん、大学のホームページのことだ。院に関しては研究室ごとにホームページがあって、そこに教授や准教授のプロフィールも載せてある。俺の分は写真がないが、名前はしっかりと載っているので、すぐに分かっただろう。



「サイトに行くほど俺に興味持ってくれて嬉しいよ」



彼女を膝から立たせて、自分も椅子から立ち上がり、彼女の手を引いて歩きながら言う。



「見つけたのはだいぶ前だけどね」

「どれくらい?」

「確か、後期の授業始まったくらいだよ。前期に受けた何かの授業で、永井さんの名前聞いたことあったんだ」



それを聞いて、歩いていた足を止める。彼女を振りかえると、彼女は何でもない風に肩をすくめていた。



「参考文献探してる時にも見つけて、授業取ることになったから、検索してみた。だから、名前だけなら前期から知ってたよ」



笑って言う彼女に、思わず溜め息をついてしまう。彼女が戸惑ったように「なに?」と声をあげたのを無視して、すぐそばまで来ていたベッドに腰を下ろす。



「あのね、あんまりそういうこといきなり言わないで」

「なんで?」

「びっくりするし、けっこう嬉しいから」



目の前で立ったままの彼女の腰を引きよせて、ぐっと二人の距離を近付ける。座っている俺と彼女では、少しだけ彼女の方が高くなる。彼女は俺の言葉を聞いて、また面白そうに顔に笑みを浮かべた。



「永井さんも同じでしょ」

「何が?」

「私の名前知ってたし。私も、知っててもらってびっくりしたけど、それなりに嬉しかったもん」



その彼女を言葉を聞いて、初めて彼女とまともに言葉を交わした時のことを思い出す。確かに彼女は、あの時驚いた顔をしていた。あの時から、彼女との繋がりができたのだ。



「他にもいっぱいいるのにね、学生」



そう言う彼女からは、『何で自分だったんだろうね』という意味が含まれていて、小さく笑ってしまう。そんなもの、俺にも分からない。初めは、優れたレポートを書く学生で、どういう子なのか興味を持っていただけだ。それでも、それを彼女に言う気はないけど。



「たまたまだよ」



俺の髪をいじっていた彼女が、この言葉で俺の顔を見下ろしてきた。



「嘘だ。ぜったい何かあるでしょ。永井さん、嘘つくの下手なんだから」

「それでも教えてあげない」



そう言って、片手を彼女の頭の後ろに回して引き寄せた。ゆっくりと唇が重なって、俺と彼女との間に距離がなくなる。



「朝早いんでしょ」

「頑張って起きるよ」



キスの合間にそう言えば、彼女はまた何か言おうと口を開く。それを自分の唇で塞いで、彼女の身体を更に抱き寄せた。ベッドに倒れ込む時に、ソファの方で携帯のバイブが響いたが、俺はそれを無視する。



「鳴ってるよ?」



バイブの種類で俺の携帯だと分かったのか、彼女が首をかしげて言った。



「いいよ。どうせ、村瀬とかだから」



言いながら、彼女の髪を撫でて、もう一度キスをする。鳴っていた携帯も、しばらくして切れた。電話は、きっと、万里子からだ。俺も彼女も、それを分かっている。それでも、今はどちらかを天秤に掛けることもなく、彼女を選んだ。

合わせた唇の合間に息を漏らして。彼女に触れて、触れられて。さっきよりも深く、彼女を求めた。






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