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『……帰る?』
二日前に言われたこの言葉と、あのことを、今日までで何度思い出しただろう。
私の行動が、永井さんを怒らせていることは分かっていた。劇場で会ったときに逃げたことも、遠ざかるようにしていたメールも、そのどれもが永井さんを苛立たせていただろう。でも、それでも、永井さんはもう私を混乱させないと言った。ただの味方でいると。それを、あの人はその日のうちに覆した。
永井さんが誘われそうになったと言って、それに嫌悪を感じたことは自分でも覚えている。なぜ、と聞かれても、それは分からない。別に永井さんは私のものではないし、私がそんなものを感じる権利がないことも分かっている。第一、永井さんは結婚しているのだ。それなのに、永井さんの言葉を聞いて、何かが嫌だと思った。意味が分からない。自分も、永井さんも。
あの日の夜だって、たぶん永井さんが家に着いたであろう時間に、『お休み』とメールが送られてきた。そんな永井さんに苛立って、返信なんかしていない。日曜日に掛かってきた電話も無視した。何がしたいんだ。土曜日のキスも、ただの気まぐれだったんだろうか。そう考えるものの、たぶんそれはないだろうと思っていた。
いたずらに触れるだけのものではなかった。何度も求められて、繰り返されて、触れた唇から永井さんを感じていた。初めは意味が分からなくて、ただただ驚いていただけだった。突き返そうと思えば、そうできた。それでも、そうしなかった。自分から求めたわけではないけど、永井さんを拒否したわけではない。それが余計に、私を混乱させた。きっと、永井さんもそれを分かっている。
「せんせー!」
「はいはい」
以前の金曜日にみていた高校生の女の子が手を振って私を呼ぶ。定期テスト対策が終わって、だいぶ気が抜けたようだった。今日は普段通りの授業で、学校の進度に合わせたものをやっている。
講師用の丸椅子に座って、雑談を交えながら問題の解説をしていく。
「もー、聞いてよー」
「聞いてるって。彼氏がどうした」
一通り解説を終えて、女の子が不満そうに顔を膨らませた。こういう顔をする時は、たいてい彼氏がらみだ。
「先生ってさ、どっからが浮気だと思う?」
「はい?」
思わず聞き返せば、生徒はいたって真面目な顔をして私の方を見返していた。きれいな顔立ちの目が、じっと私を見ている。
「さあ……」
「一緒に歩いたりするのは?」
「それくらいは別にいいんじゃない?」
曖昧に答えると、彼女の方からぽんぽんと線引きの質問を投げかけてくる。
「やっぱり、手繋ぐとかキスするとかくらいからだよね。浮気って」
「そうですね」
ぱらぱらと教材をめくって、何でもない風にして生徒の言葉に同意しておく。そのどちらもを、二日前にしてしまっている私は、完全にアウトだ。自分から望んだ、望んでないにかかわらず。
生徒の話を聞けば、どうやら生徒と彼氏のその基準値が違うらしい。生徒は今言ったように、相手に触れるところからが浮気と考えているのだけど、彼氏の方は彼女が男と歩くだけで嫌らしい。嫌と言っているだけで、それを無理やり止めさせるようなことはしないらしいけど。
この女の子の彼氏は、確か社会人だったよなと、生徒の話を聞きながら思いだす。名前は忘れたけど、大きな会社に勤めていると聞いたことがある。だったら、彼氏の嫌という気持ちも何となく分からないでもない。要は、年の離れている彼女に同年代の男が言い寄ってこないか不安なだけだろう。素直にそう言えばいいのに、恥ずかしがって言えないだけで、余計に面倒な言い方をしている。
「いいねえ」
「何が?」
生徒が話し終わってからそう言うと、生徒は意味が分からないという顔をした。
「そういう可愛らしい恋愛がしたいよ」
「彼氏作ったらいいじゃん。先生、めんどくさがってそういうことしないだけでしょ」
生徒の言葉に肩をすくめて答えておく。周りから痛い視線を何となく感じたけど、それらは無視しておく。
生徒には、彼氏がいることなんて言っていない。一応塾内ではそういうことを言わないという決まりがあるが、あまり守っている講師はいない。私の場合、それを守っているというよりも、言えば面倒だから言っていないだけだ。今の状態なら、なおさら。
生徒に次のページを指示して、椅子から立ち上がる。そうして、壁に寄りかかって思い浮かんだのは、やっぱり永井さんだった。
***
「美香ちゃんとはどうなったの?」
バイト終わり、いつも通り駐輪場の定位置に着いた。コンクリートブロックに座った古賀さんがお茶を飲みながら携帯を開いているのを見て尋ねる。古賀さんはお茶のペットボトルを傾けながら、私の方を見てきた。
「特にこれといった進展はないけど」
「けど?」
ペットボトルの中身をぐるぐる回しながら言う古賀さん。その続きが気になって先を促すと、古賀さんはもう一度お茶を飲んでから口を開いた。
「日曜に電話した」
「おー」
古賀さんの言葉に思わず声をあげる。古賀さんはペットボトルのふたを閉めて、鞄の中に仕舞った。
「どんな感じだった?」
原付に座ったまま身を乗り出すようにして聞くと、古賀さんはその時のことを思い出そうとしているのか、「んー」と首をひねった。
「声は可愛かったな」
「おー」
「まあ、二人とも緊張して無言になった時が何回かあったけど」
それを聞いて笑ってしまう。携帯を手に話題に困っている古賀さんが目に浮かんだ。古賀さんも笑って、「それから」と続ける。
「今度の土曜に、遊ぶ約束した」
「まじで?」
この言葉には驚いてしまって、それを顔に出したまま聞き返してしまった。なぜか古賀さんは困った顔をして、「ああ」と頷いている。
「よかったね。……で、いいんだよね?」
その顔の意図が分からず、何となく付け足すようにして聞いてしまう。古賀さんはその顔のまま、数回頷いた。
「たぶん」
「たぶんて」
「正直分からない。初めて会うし、そもそも会いたいのかも分からないし」
そう言って、ますます困ったような顔をする。手にしている携帯が、だらんと下を向いていた。
「確かに、紹介だしね」
「それだよ」
そう言って、古賀さんは小さく溜め息をついた。
しょっちゅう私に女の子を紹介しろと言っていたものの、本人は本当に彼女が欲しいかどうか分かっていないらしい。私の方も、何となくそれを分かっていたから、古賀さんの言葉は聞き流す程度にしていた。それが、今は別の人によって紹介という手順上にいる。ただメールする段階なら良かったんだろうけど、いざ会うとなると、それがしたいのかどうなのか分からなくなったんだと思う。しかも、今回は藤田さんという監視人付きだ。
「まあ、会うだけ会ってみたら?」
「そう思ってるんだけど、会ったら絶対にさあ……」
その言葉の先を続けずに、もう一度溜め息をつく古賀さん。
何となく古賀さんの言いたいことは分かった。藤田さんという監視人がいる以上、会ったらそれなりの態度を示さないといけないということだろう。それが、古賀さんを逡巡させてもいる。根が良い人の古賀さんは、会うと決めたことをキャンセルするなんてことはできないだろうし、藤田さんにも悪い思いはさせたくないんだろう。きっと、土曜日に遊ぶことも古賀さんから提案したにちがいない。そういうところは、変に真面目だった。
「お前はどうなの?」
ぼーっと悩む古賀さんのことを考えていると、今度は古賀さんの方から質問をしてきた。どうやら、もうそのことについて考えたくないみたいだ。
「どうって?」
質問の意図が分からず、首をかしげて聞き返す。本音を言えば、意図となることがありすぎて、どれのことか分からなかったんだけど。
「永井さんとだよ。距離取るとか先週言ってただろ」
「ああ……」
古賀さんの言葉で、またしても永井さんのことを思い出してしまった。
「それなりだよ。今はそんなに連絡とってないかな」
「そっか」
「うん」
古賀さんが頷いたのを見て、私も頷く。
私から連絡をとっていないことは本当だ。ただ、向こうからは来るけど。実を言えば、バイト終わりに携帯をチェックすると、永井さんからのメールが一通来ていた。それは、開いてもない。
二人とも特に何も言わなくなって、ぼんやりとした時間が流れている。古賀さんに永井さんのことを聞かれると分かっていたけど、土曜日に起きたことを話すつもりはなかった。さっき、古賀さんから美香ちゃんとのことを聞いて、その気持ちはますます強くなった。自分のことで悩んでいる古賀さんに、面倒なことを話して困らせたくない。話せば、古賀さんは相談に乗ってくれると分かっていた。それでも、今は話したくない。
古賀さんを困らせたくないというよりも、そのことを話して、古賀さんに見放されたくないという気持ちの方が、断然大きかった。
いつもはこの沈黙も何とも思わないけど、今日ばっかりは違って、二人ともが早々に自分の場所から立ち上がった。
「じゃあな」
「うん。また何かあったら聞くよ」
「おう」
いつもとは逆な会話をして、古賀さんにばいばいと手を振った。
少しずつ、私の中の色々なバランスが崩れていっているようだった。