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これは恋なんだけど  作者: 空谷陸夢
Story 11. 食われる気分
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目の前の一人掛けソファに座る彼女は、居心地が悪そうに視線をうろうろさせている。小さな丸テーブルを挟んだ向かいに座っている俺は、肘かけに肘を掛けて頬杖をしながらそんな彼女を見ていた。

俺が彼女を引っ張って連れてきたのは、ショッピングプラザの一階に入っていた大型コーヒーチェーン店だった。店に入っても彼女の手は放さず、連れだったままカウンターで彼女が以前に頼んでいたものと自分の分のコーヒーを注文した。そして出てきたそれをトレイで持って、店の奥の方にあるソファ席に座ったのだ。



「俺が怒ってるの、分かってる?」



彼女を見たまま尋ねると、彼女は遠慮がちにこちらを見て、諦めたように数回頷いた。そして、俺がオーダーしたラテを飲む。

俺も、自分で口にして、どうやら本当に彼女の態度に多少の苛立ちを覚えていたのだということを再認識した。



「ごめん。あんな態度とって」



彼女は素直にそう口にした。彼女が言っているのは、劇場でのことだろう。確かに、あれにも腹が立ったことは事実だ。ただ、あれだけじゃない。ここ数日の彼女の態度が、俺を苛立たせている。少しずつ、何もなかったかのように、俺から距離をとろうとしていることに。それに付随して、先ほどの彼女を見ていた男のこともあった。



「さっきのことだけじゃないよ」



暗に最近の彼女の態度を指して言えば、彼女は決まり悪そうに視線を俺から逸らせた。それがまた、俺を苛立たせた。

どうも、さっきの自分の認識を訂正しなければいけないみたいだ。『多少』の苛立ちではない。彼女の態度に、『かなり』苛立っているようだ。



「何をそんなに頑なに拒否してるの。俺と君の距離が近くなるからって、誰かが悲しんだり、怒ったりするわけじゃない」



彼女はそれを聞いて、ぎゅっと唇を合わせる。それから、視線を泳がせることなく、俺の方に向いた。



「近くなってるって分かってるなら、それなりの距離保ってよ」



そう言う彼女の目は真剣だった。

彼女の言葉が、二週間前の出来事を指しているのはすぐに察しがついた。そして、俺が彼女を混乱させていることを、彼女が分かっているということも。



「俺と君との間には、何もないでしょ」

「……それ、本気で言ってる?」

「たぶんね」



俺が答えると、彼女の眉間にしわが寄った。俺はそれに気にせず、目の前のコーヒーに口をつける。

俺と彼女の間に何もないことは本当だ。何かがありそうだったことはあるけど。それだって、結果的には何もなかった。なら、今のところは何もないということでいい。



「それより、何で今日いたの?」



コーヒーを置いて、話題を変えた。彼女はそれに顔をしかめたけど、何か異論を唱えるでもなく、小さく息をついただけだった。



「授業で今日観た舞台のDVD少しだけ見たから。気になって調べたら、ちょうどここでやってたし、観にきた」

「そうなんだ」



両手でラテの入ったカップを持ちながら、彼女は言った。ラテを冷ましながら飲む彼女を見ながら、やっぱりそれなりに優秀なんだなと思う。

彼女は俺の授業でも、たぶん、最終成績はトップに入るだろう。彼女の全体の成績は知らないが、この分野に関してそれなりの力を持っていることは、授業を通して知っていた。彼女がDVDを見たという授業も、演劇だったり舞台といった芸術文化に関係しているものだと思う。この分野の勉強のために留学を目指していたという話も、以前に聞いていた。あれだけのレポートを書くくらいなら、本当に行けなくてもったいないと思ったことも覚えている。こっちで勉強しても彼女なら何かを得られるだろうが、彼女のように西洋舞台を中心に興味を持っているなら、やはり現地で勉強することが一番だろう。

そんなことを思いながらコーヒーを飲んでいると、今度は彼女の方から質問を投げかけられた。



「永井さんは何でいたの?」



カップをテーブルに置きながら尋ねてくる彼女に、何でもないといったように肩をすくめた。



「知り合いの教授からチケット貰ったんだ。言ってくれたら、余ってたからあげたのに」



そう言えば、困ったように彼女は笑う。どうあっても、俺との距離を縮めたくないらしい。



「舞台の後、あんなところで何してたの?」



代わりにそう聞くと、彼女は「ああ」と苦笑いを漏らした。



「こっちの友達とご飯食べる約束してたんだけど、サークルの人から誘われたってドタキャンされた」

「残念だったね」

「まあ、その誘われた人が、友達の好きな人だったから、いいかなって」



彼女はそう言って微笑んだ。他人の幸せを、そのまま素直に受け取って、喜んでいた。もちろん、それは仲の良い友達だからというのもあるんだろうけど。連絡が来たときも、こんな顔で笑ったんだろう。それを、あの大学生の男が見ていたのかもしれない。



「喜ぶのはいいけど、もう少し気をつけた方がいいよ」

「何が?」



意味が分からないといった顔で、彼女が俺の方を見てくる。どうやら、本当に先ほどの男のことは目に入っていなかったようだ。



「君が座ってた隣で、大学生の男が君のことずっと見てたから」

「え?」



彼女が思いっきり顔をしかめた。俺が肩をすくめると、呆れたというように息をつく。



「よくそんなの気付いたね」

「まあね」

「もしその人が話しかけてきてたら、面白がって見てたでしょ」



口の端を上げて、彼女は笑ってそう聞いてきた。コーヒーを飲もうとして持ったカップを膝で止めて、彼女の顔をじっと見る。



「いや。話しかけさせるなんて嫌だったから、その前に動いた。雑誌はそのための口実だよ。放っておいたら、君はそのままついていっちゃいそうだったからね」



俺の言葉に、彼女が固まる。



「……嘘、ついてよ。そこは」



そして、また最初のように視線をうろつかせてラテのカップを手に取った。俺は持っていたコーヒーを口元まで運んでそれを啜る。



「無理だよ。本当にそう思ったんだから」



コーヒーを置きながら彼女の言葉を断る。椅子に深く座って、彼女の方をじっと見た。彼女はカップを両手で持ったまま、小さく溜め息をつく。



「私のためにじゃなくて、それとペアのやつをはめてる人のためについて」



言いながら、彼女の視線が俺の薬指に注がれる。俺は左手をテーブルの上で広げて、自分でもその手を見た。その薬指には、しっかりとシルバーの指輪が光っている。



「……わかった」

「え?」



自分の手を見ながら言うと、彼女はラテを飲んでいた手を止めてこちらに目をやった。



「君がそんなにこれを気にするなら、もう君を混乱させるようなことはしないよ。ただ、君の味方でいる」



「どう?」と聞けば、彼女は何のことか理解していないような顔つきをした。だが、少しして、安心したような笑みを浮かべる。それから、何も言わずに数回頷いた。俺もそれに笑みを返し、またコーヒーのカップを手に取った。

事実を言えば、今の言葉はほとんどその場限りのものともいえなくはない。それでも、彼女が俺の指に光るものを気にしてる以上、何かをする気には今はなれなかった。ただ、この気持ちがいつまで続くか自分でも定かではない。それを、彼女に伝えるつもりはないけど。



それから一時間ほどして、その店を出た。時間は7時を少し過ぎていて、外はすっかり暗くなっている。電車で帰るという彼女を無視して、駅前の駐車場に止めていた車に乗らせることにした。聞けば、今日は元から友達と家で飲む約束をしていたらしく、最寄り駅から歩いて帰るつもりだったらしい。夕方に見た男のことを考えれば、送っていったほうが安心だった。


劇場のある駅から彼女のマンションまでは、一時間程度だった。マンションの窓からは光が漏れているが、外には誰もいなかった。



「じゃあ、ありがとう」



「これも」と雑誌の入った袋を掲げて彼女が言う。



「どういたしまして」



彼女は俺の言葉に小さく笑って、シートベルトに手を掛けた。シートベルトを外す彼女を見ながら、あることを考える。

彼女は、俺に距離を保てと言った。そして、自分からも距離を取ろうとしていた。それは、彼女自身も少なからず俺に近付いてきていると自覚しているからだろう。俺も彼女に近付いていて、彼女もそうならば、何を拒否する必要があるのか。その答えは、当たり前に、俺の薬指に行きつく。当然のことだ。けれど、彼女が俺に近付いているかどうかを曖昧にしたくはない。



「そういえばさ、」



そう言って、シートベルトを外した彼女の視線をこちらに向けさせた。彼女は顔をこちらに向けて、俺の次の言葉を待った。その顔には、戸惑いなんかは表れていない。



「今日、劇場で女の人が隣だったんだ」

「うん」



彼女は何でもないようにして頷く。



「帰り際に、その人に誘われそうになった」



彼女の顔に、ほんの少しの嫌悪感が表れた。けれど、すぐに面白そうにして笑った顔に変わる。



「ほんとに?」

「たぶんだけど。前通った時にマフラーが落ちて、拾ったのを渡したときに指輪見て、ちょっと残念そうな顔してた。でも、そこから動かなかったから、もしかしたらマフラーもわざとで、ただの話しかける口実だったのかなって」

「それで?」



彼女は面白そうな顔をしたまま続きを促す。俺は窓に肘をついて、彼女の方を見た。



「別に。『先進んでますよ』って言って、それっきり」

「なーんだ」



面白がっていた顔を、つまらなさそうにして彼女が言った。



「でも、良かったね。まだ誘われたりして」



口元に面白がっているような笑みを浮かべて、彼女は続けた。その顔には、一瞬だけど浮かんだ、先ほどの嫌悪感のようなものは見られない。元からなかったのか、それとも隠したのか。そんなの、どうでもいい。彼女も、俺に近付いている。



「そうだね」



彼女の言葉に頷きながら、窓から肘を離して、自分のシートベルトを外す。



「良かったよ。君に嫌われてるわけじゃないみたいで」

「嫌いとか……」



彼女が言おうとしたその先は知らない。彼女が今、どんな顔をしてるかも。

シートベルトを外した俺の手は彼女の頬を包むようにして触れていて、上半身のほとんどは運転席から離れていて、唇は彼女のそれに触れていた。

少しして、初めは触れていただけのそれを、今度は角度を変えて求めた。何度も、何度も。触れては離れる音が、車の中で静かに響いていた。

彼女からは求めてこない。その代わり、離れることもしない。俺は、離れるなんて考えてもいない。



「……帰る?」



それでも、無理やり彼女の唇からゆっくり離れて、そう問いかけた。頬に触れていた手はそのままで、彼女との距離も近い。離れて初めて見る彼女の顔には、今日会ったときと同じように驚きと戸惑いが混じっていた。

目が合うとすぐに、彼女はドアに手を掛け、車を降りていった。ドアを閉め、何も言わずに、何でもないようにしてマンションの入り口の方に歩いていく。

彼女がマンションの中に入ったのを見届けて、自嘲的に笑みを漏らす。『帰る?』だなんて。どんな答えを期待していたのか。

制御するつもりはなかった。最後の賭けともいえる言葉に彼女が反応したときから、こうなるつもりだった。ただ、あれほど自分が求めるなんてことまでは、考えていなかった。



「……そうでもないか」



自分が今考えたことを、言葉で否定する。触れたら止まらなくなると、どこかで分かっていたのかもしれない。それを、俺は容認した。容認したからには、彼女がどう考えようが知ったことではない。距離を取ろうとするなら、それが出来なくなるくらい近付けばいい。

初めて彼女を求めたときから、そう決めていたのかもしれない。

もう一度小さく自嘲の笑みを漏らし、車をスタートさせた。


今まで何も感じなかった薬指が、初めて苦しいと感じた。






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