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どういうつもりなんだ、あの人は。
腕を組んで塾の窓を見ながら思った。外はもう真っ暗で、窓には自分の姿がはっきりと映っていた。その顔は、けっこうなしかめっ面をしている。それもこれも、全部永井さんのせいだ。
「せんせー。おーい。せんせー」
「……へ?」
じっと窓を見つめていたら斜め後ろから生徒の呼ぶ声がして、慌てて振りかえる。高校生の女の子が、呆れたようにこっちを見ていた。
「先生、さっきから窓見すぎてて怖いよ」
「申し訳ございません」
わざとらしく頭を下げて女の子の解いた問題を見ていく。もうすぐ学期末テストだという女の子の問題を見ていき、間違っていたところを解説していく。女の子はふんふん頷きながら話を聞いていて、それが一段落つくと、またこっちを見てきた。
「なんかあったの、先生」
生徒が少し首を傾げて聞いてくる。そんな彼女を見て、かわいいなあなんて考えてしまう私は相当頭がおかしくなってきているのかもしれない。いや、実際、この子はかわいいんだけど。私服なんて着たら、たぶん私よりも大人っぽく見えるだろう。
「いやー、最近レポート溜まってきたから、何から片付けていこうかなあって考えてた」
「うわー。レポートとか大学生っぽい」
「大学生ですから」
生徒の言葉に胸を張って答えてやる。受験生でもある彼女は私の発言に羨ましがって、笑いながら「腹立つー」と返してきた。私もそれに笑い返し、次のページを指示して立ち上がる。今度は、窓側の壁に寄りかかって腕を組んだ。
このよく分からない状態を、誰に聞けるというんだろう。友達にも無理だし、ましてや生徒になんて言えるわけない。
車の中でおかしな雰囲気になった先週の金曜日。あれから永井さんは、特にそのことを気にする様子もなく連絡を寄越してくる。私もそれには返しているけど、永井さんほど先週のことを気にしていないわけではないので、返信は控えめだったりする。いつもなら永井さんと会う金曜日だけど、今日は風邪で講師が足りないという塾からの要望に都合良く乗っかり、永井さんと会うことを回避してきた。一週間経ってもまだ混乱したままだっていうのに、こんな状態で永井さんと会うなんて絶対に無理だ。本当に、あの人はどういうつもりなんだ。自分の立場を、薬指にある証を、しっかり覚えていてほしい。
そんなことを思いながら、小さく溜め息をついて顔をあげた。そうしたら、少し離れたブースで教えていた古賀さんと目が合って、古賀さんが何か尋ねるように首を少し傾けた。私はそれに何でもないという風にして肩をすくめ、また壁にい寄りかかって問題を解く生徒をぼんやり眺める。
最近では、私は金曜日にシフトを入れていないので、金曜日に塾に来ることはほとんどない。たとえ講師が足りないと言われようが、自分の休日は断固として守ってきた。けれど、今日に限っては、その主義を少し曲げている。他の講師は私が今日来たことについて何にも不思議に思っていないけど、古賀さんはたぶん不思議に思ってる。金曜日に私と永井さんが会ってることを知ってる古賀さんは、私が今日塾に来たのを見てぎょっとしていたんだから。その時は、古賀さんはもう授業に入っていて、私に塾にいる理由を聞いてこなかった。だから、この最後の授業が終わって、二人で喋ってるときに聞かれるだろうなとは予想している。というか、聞いてくれた方がありがたい。そうしてくれれば、今のこのやや
こしい状況を相談できる。本当は、あんまり聞きたいことでもないけど。でも聞かなかったら、頭がこんがらがってどうすればいいか分からない。
全部、永井さんのせいだ。
***
「で、何で今日塾来てんの?」
塾が終わって、二人して塾の駐輪場の定位置に落ち着くと、案の定古賀さんはそう尋ねてきた。さっきまで聞いてほしいとか思っていたくせに、いざとなるとどう答えていいのか分からなくなって、とりあえず口を開かなくていいように鞄から財布を探す。古賀さんはそんな私をちらっと見て、自分の鞄から携帯を取り出しそれをいじり始めた。そんな古賀さんを横目に、鞄から財布を取り出した私は、道路の向こう側にある自販機に歩いていく。そこで自分の分の温かいミルクティーと古賀さんの分のコーヒーを買って、元の場所に戻った。
「はい」
コーヒーを差し出すと、古賀さんは少し驚いた顔をしてそれを受け取った。私は元いた自分の原付に座る。
「んで、どうしたんだよ」
コーヒーを開けて古賀さんが再度尋ねてきた。私も缶を開けて、一口飲んでから口を開く。
「ちょうどいい時に、ちょうどいいヘルプのお願いが入ったから」
何となく、曖昧にして答えてみる。古賀さんはコーヒーを飲んで、意味が分からないという顔をしてこちらを見ていた。私はそれにへらっと笑って、またミルクティーを飲む。古賀さんは反対の手に持っていた携帯をコートのポケットの中に仕舞って、今度は意味が分かったというように私の方を向いた。
「つまり、永井さんから逃げてきたと。そういうことですか」
「そうとも言うね」
古賀さんが呆れたように溜め息をついた。
「なに、ケンカでもしたか?」
「ケンカとかならいいんだけどねえ」
コーヒーを飲みながら聞いてくる古賀さん。私も自分のミルクティーを飲みながら答える。
ケンカなんていう単純なものだったら、ここまで悩む必要もない。ケンカだったりをしてお互い避けるどころか、あの人は何の変わりもなく連絡をしてくる。だいたい、私と永井さんはケンカなんてする間柄なんだろうか。週に一度会って、お茶するくらいなのに。
私の答えを聞いて、古賀さんは『じゃあ何だ』というようにこちらを見てきた。
「分かんない。永井さんとの付き合い方も、自分がどうしたいかも」
そこまで言って、ふーっと息をはいた。吐き出した息が白くなって、空気中に消えていく。古賀さんは、何も言わずにコーヒーを飲んでいた。
なんかもう、何が言いたいのかも分からなくなってきた。
「近いんだよ。永井さんとの距離が。なんかさ、私と古賀さんがこの距離にいるのはオッケーでも、永井さんとだったらアウトじゃん? なのに、永井さんはそんなのまったく気にしてないし」
『この距離』と言いながら、私と古賀さんに出来ている距離を腕を振って示す。私の原付は古賀さんの座っているコンクリートブロックのすぐ隣に止めてあって、私と古賀さんとの距離も近い。
古賀さんはコーヒーの缶を両手で持ちながら、首を少し傾げた。
「別にいいんじゃないの。永井さんが結婚してるからって、友達止める必要もないだろ。そんな気にしすぎんな」
「気にしすぎっていうか、永井さんが気にしてなさすぎるんだよ。結婚してんのに」
そう言うと、古賀さんは少し困ったように苦笑いを漏らした。私はその意味が分からず首を傾ける。
「だったら、お前も一緒だろ」
「なんで?」
「忘れてるみたいですけど、あなたにも一応彼氏という人がいるんですが。地球の反対側にですけど」
「うん。知ってる」
「じゃあ、何で結婚してる永井さんとお前のこの距離が駄目で、彼氏のいるお前と俺とのこの近さはオッケーなんだよ」
「意味分からん」と、古賀さんが私と同じように腕を振って二人の間の距離を示しながら言った。
それを聞いて、ああそっか、と思う。何だか最近はこの感じが当たり前になりすぎてて、変だと思うことすらしなくなっていた。古賀さんとの距離も、近いなんて思ったことなかった。私にとって、古賀さんとのこの距離は、なくてはならないものだった。永井さんが気にしてなさすぎっていうのもあるんだろうけど、永井さんが私にとって、何か新しい人だったから、この距離に違和感を覚えたということもあるのかもしれない。
それだったら、古賀さんとのこの距離も、止めた方がいいんだろうか。そんな久しぶりなことを思った。
「お前が気にしてなきゃ、俺も気にしてない。だから、いちいち俺たちとのことで悩む必要もない」
考えが顔に出ていたのか、古賀さんが何でもない風にそう言ってくれた。その言葉に、ひどく安心する自分がいた。悩むっていうことは、つまり、私が古賀さんとのこの距離を維持したいと思っているからで。それが無理だったら、私にとっての頼りの柱が無くなってしまう。だから、古賀さんの言葉は、素直に嬉しかった。
古賀さんはコーヒーを一口飲んで、また口を開く。
「お前がぶっ倒れないように、いつでも話くらいは聞くから。何かあったら、すぐに言えばいい」
そう言って、古賀さんは笑う。私もそれを聞いて、安心して笑みを向ける。
古賀さんは、根っからの一番上の長男体質だ。本人はそう思っていなくても。なんだかんだ文句を言いつつも、結局は自分から助けを買って出るようになってしまっている。そんな古賀さんに今一番甘えているのは、他の誰でもない私だ。古賀さんがいてくれる、味方になってくれる、欲しい言葉を言ってくれる。それがあるから、私は腐らずにいられる。古賀さんに甘えているから、『彼氏がいるから』とか『彼氏のおかげで』とか言われても、笑って受け流せる。古賀さんが、私の安心に繋がっていた。
「だから、永井さんのことも別段気にする必要ないと思う。 けど、お前が何かかしら引っかかるところがあるなら、距離をとってみたら?」
「うん、そうする」
そう言ってみてから、やっぱり永井さんの指輪を思い出した。
「結局、永井さんが結婚してるから変な感じするんだろうね」
「かもな」
二人してそんなことを言って、同じタイミングでコーヒーと紅茶を飲んだ。それからお互い何も言わなくなって、ぼーっとしていたら、微かな携帯の振動音が響いた。自分のを確かめるけど、それは私のものではなく、古賀さんの携帯から。
古賀さんは缶を持っていない方の手でポケットから携帯を取り出し、何やら操作をしだす。私も、その間にメールのチェックをした。メール件数は二件。彼氏からと、永井さんから。よりによって、どちらも面倒なものだった。
永井さんからのメールは、気をつけてバイトから帰るようにという内容と村瀬健吾が今度出るらしい番組のことを知らせる内容だった。こんな風に、永井さんは先週のことなんか一切持ち出さず、連絡を寄越してくる。今は、返信を送る気力もない。そう思って、携帯をコートのポケットに仕舞った。彼氏からのメールは、開いてすらない。
また缶を両手で持ち、足をこつんこつんと原付にぶつけて古賀さんを見る。古賀さんは、何やら悩むようにしてメールを打っていた。
「そんな難しいメール?」
私の声に気付いた古賀さんが顔を上げて、声になっていない声を出して首をひねった。
「いや。前に藤田さんに言われた紹介。おとといの夜向こうからメール来た」
「へー。どんな感じ?」
古賀さんは、何も言わずにメール画面を見せてくれた。原付から身を乗り出して、その画面を見る。
「『私もバイト二つ掛け持ちしてるから、気にしなくていいですよ。古賀さんは何かサークルとかやってるんですか?』 おー、なんか可愛い感じ」
本文を声に出して読み上げ、感想を述べる。送信者欄に『横山美香』とあるそのメールは、可愛らしい絵文字や顔文字で装飾されていて、いかにも藤田さんの友達という感じを醸し出していた。
古賀さんは私の前から携帯を自分の手元に戻し、また本文を打つ段階で悩みだした。そんな様子がおかしくて笑ってしまう。
「何悩んでんの?」
「いや、俺、サークル入ってないから。その後に続く文考えてる」
「なるほど。ただ、メールするだけじゃないんだね」
「俺には藤田さんっていう監視人がいるからな」
真顔でそう言って、古賀さんは携帯に目を戻す。私はその言葉に笑って、紅茶を飲んだ。それから古賀さんは、返信をするのかと思いきや、途中で諦めたようで、携帯をポケットの中に仕舞った。
「もう無理。家帰ってから考える」
首を横に振って言い、残ったコーヒーを一気に飲むようにして缶をあおった。私も残り少なくなったミルクティーを飲み干す。そうして、二人どちらともなく立ち上がり、道路の向かい側にあるごみ箱に向かっていく。
「まあ、永井さんのことはあんま気にすんなよ」
「そうする。古賀さんは、美香ちゃんのやつちゃんと考えるんだよ」
「はいはい」
それぞれ原付と自転車のところに戻ってきて、帰り支度をしながら言い合う。私が準備を終えると、古賀さんは自転車に乗って手を上げてきた。
「じゃあな」
「うん。ばいばい」
手を振りあって、古賀さんが行くのを見送った。私も音楽プレーヤーのスイッチを入れて、原付をスタートさせる。大通りに出る角を曲がって、その先にある信号機で止まった。その目の前を、古賀さんが横断していく。
古賀さんに紹介があった。それは、良いことだ。ただ、それは良いことだけど、それがはっきりとした形になってしまえば、私と古賀さんの関係は変わってしまうだろう。変わらざるを得ない。古賀さんは、私に彼氏がいようとこの距離を気にしていないと言ったけど、それは彼氏が地球の反対側にいる今だからこそだろう。あっちが帰ってくれば、二人の関係は何かしら変化があるはずだ。彼氏が帰ってこなくとも、藤田さんの紹介が上手く形になったときも同じだ。大きな変化はなくても、何かが変わる。
信号が青に変わって、ぶーんと原付を進める。500メートルほど行って、また角を曲がってバイパス道路に出た。
古賀さんとの関係が変わってしまったら、私は古賀さんという支えと安心を無くしてしまう。そうなったら、私は永井さんを頼るだろうか。味方だと言ってくれた永井さんに。さっきは距離を置くとか言っていたのに、自分に悪いことが起こりそうになると裏返しの考えを持つ自分に笑ってしまう。永井さんとこれ以上近付いてはだめだと、ちゃんと分かっているのに。
古賀さんとの関係が変わるかなんてことは分からない。でも、そうなっても大丈夫なようにはなっておかないといけない。それは、永井さんに頼るということではなく、自分の中で消化できるようになるということだ。これなら、永井さんから距離を置く理由にもなる。近くに味方になってくれそうな人がいると、その人を頼りにしてしまう。永井さんを、そういう人にしてはいけない。永井さんを一番の頼りにするべき人は、私じゃない。その人は、もう永井さんのそばにいる。
私は、ただの友達であろう。偶然知り合った学生であり、友達。今期が終われば、永井さんとの繋がりもなくなる。それでいい。よく連絡を交わしていたけど、段々と疎遠になっていった人。よくあること。
近付くよりも、そうして離れていく方がずっと楽だ。
そう結論付けて、家までの道のりを走った。