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「はい、ありがとうございました」
そう言って、彼女がテーブルを滑らせて紙袋を俺に渡してきた。なんだと思って中を見ると、それは俺が先週から彼女に貸していた俺のコートだった。透明のビニールが掛かってるってことは、ご丁寧に、クリーニングまで出したらしい。彼女の着ているコートは、以前の彼女のもので、見た限り傷跡なんかもまったく目立っていない。
「クリーニングなんか出さなくてもよかったのに」
「いいの。そこは礼儀なんだから」
袋を受け取って横の空いた椅子に置きながら言うと、彼女はそう言いきって、テーブルの上にある紅茶に手を伸ばした。
今日は、珍しく彼女から連絡をもらって、いつものカフェに来ていた。彼女と知り合ってからほぼ毎週のようにここに来ている。やっぱり、平日の俺たちが来る時間はお客は少なく、彼女と同じような年代の女の子たちや近所の奥さんたちが子供連れで来ているような感じだった。彼女に連れられてここに来るようになって、コーヒー一辺倒だった俺がたまに紅茶を飲むようになった。そんな俺を見た研究室の院生が、ひどく珍しがっていたのを覚えている。
彼女という存在が、少しずつ俺の生活に入り込んできているようだった。
「それで、どうでした? 久しぶりの休暇は」
椅子に深く腰掛けてそう尋ねれば、彼女はえらくすっきりした顔つきになって、紅茶のカップを置いた。
「何かね、バイトがないっていうだけで、すごい楽だった。明日は久しぶりに友達と買い物に行くんだ」
やたら嬉しそうに話す彼女に思わず笑みが漏れる。
「よかったね。だったら、来週からもセーブしなよ」
「うん。来週からは少しコマ数減らしたんだ。休んだおかげで、けっこう異常な生活してんだなって再認識した」
彼女はそう言って笑う。俺もそれにつられて笑って、紅茶を一口飲んだ。
確かに、以前の彼女の生活は異常かもしれない。前は、家にいる時間がほとんどないと言っていたくらいだ。今はそれほどでもないらしいけど、学校とバイトの往復ばかりしていた時は電気代がわずか千円だったという時もあったらしい。いまどきそんな学生がいるのかと笑ったけど、案外本当かもしれない。
「原付も無事に返ってきたし。よかったよかった」
「ミラーだけだったっけ?」
「うん。車体も傷ついっちゃったけど、それはどうしようもないから」
「そうだね」
彼女の原付の車体の擦り傷を思い出して笑ってしまう。道路に横滑りしたという彼女の原付は、転がった側のミラーだけが割れて変な方向に曲がったらしいけど、それは飛び出した男の子の親からしっかりと修理費が出て、修理してもらったという。今日、いつもの商業施設で返ってきた原付を見たが、ミラー以外は正常らしかった。ただ、その車体は擦った痕がひどく、原付に入っていた文字がかすれて見えるくらいだった。あれでよく気絶するだけで済んだと思う。
俺が笑うのを見て、彼女も自分の原付の状態を思い出したらしく、両手で顔を覆って笑った。
ひとしきり笑うと、彼女は手を顔から離し、袋に入ったコートを指差す。
「永井さんは、コートのこと、何にも言われなかった?」
彼女の顔が何か面白いことを期待しているような顔になる。
「別に。知り合いに貸したって言ったから、特に何か言われたりはしなかったよ」
俺が肩をすくめて答えると、彼女は少しつまらなさそうな顔をしたものの、「なら良かった」と言うので、それなりに心配はしてくれていたようだ。
実際には、何か言われたりはした。今は袋に入っているこのコートが特によく着ていたというのもあって、誰に貸したのか万里子はしつこく聞きたがった。万里子も俺が金曜日は別の大学に行っていることは知っていて、大学の知り合いに貸したのだと言っても、簡単には信じてくれなかったのだ。『大学の知り合い』には間違いはなく、本当のことを言ったのだが、万里子はどんな人なのかを知りたがった。仕方なく、大学の教授が自分のコートに水をこぼして使えなくなったから貸したという嘘をつくと、万里子は変に思いながらもそれ以上は何も聞かなかった。けれど、これを彼女に言うつもりはない。言えば、また変に気を使うだろうことは分かっている。そうなれば、彼女からこの間の飲み会での出来事を
聞くことはできない。
彼女の方を見ると、彼女は息を吹きかけて紅茶を冷ましながら飲んでいた。先週、自分も味方だということを伝えた時は戸惑っていたが、今はそんなことは忘れてしまっているかのように普段通りにしている。彼女が話しだすのを待とうか、自分から聞くかを考えていると、テーブルに置かれていた彼女の携帯が振動した。
俺がそれに目を移すと、彼女もカップをテーブルに置いて携帯を手に取った。そして、何事もないようにして、携帯を隣の椅子にあるリュックの上に放る。
「電話じゃないの?」
「ん? ああ、まあ、いいの」
彼女は曖昧にそう言って、俺から目を逸らした。しばらくして振動音は止んだが、すぐにまた鳴りだす。確認した彼女がうんざりしたような顔になる。どうやら、相手はあの彼氏らしい。
「出た方がいいよ」
俺が見えない携帯に目を向けて言うと、彼女も観念したように携帯を取って通話ボタンを押した。
「もしもし?」
電話に出ながら、彼女は俺に外を指差し、席を立った。そのまま彼女は店の出口に向かい、外に出て電話を続ける。
俺はゆっくり紅茶を飲みながら、外で話す彼女に目をやった。彼女は、ここからでも分かるくらい苛々した様子で電話を続けている。電話に出たときも、声に若干の棘が混じっていたなと思いだす。しかし、ほとんど毎週彼女と会っているけど、この時間に彼氏から電話が掛かってくるなんて珍しいと思う。
ものの五分ほどで、彼女は電話を終わらせ中に戻ってきた。
「大丈夫?」
席に戻ってきた彼女は、苛々したのを隠そうともせず、携帯をリュックの上に放り投げる。両腕をテーブルの上で組んで彼女に尋ねると、椅子に座った彼女は大きく息をついた。そして、飲み会の場で見たような、泣きそうな顔になる。俺と目は合わさない。
もう一度は尋ねずに、ただ泣きそうな彼女を見る。彼女は足も腕も放りだすようにして伸ばして座り、ゆっくりと俺に目を向けてきた。
「何で、私が責められないといけないの」
彼女はそう言って、唇をぎゅっと合わせる。
きっと、知り合い――俺といるから電話はできないと彼氏に言ったのを、彼氏が納得しなかったんだろう。地球の向こう側にいる彼は、彼女がこちらで何かをやっていて、自分の時間を過ごしていることを考えたりしないんだろうか。
「きっと、大半の人が君を悪いように言うかもしれないけど、俺や君の事情を知ってる人たちは、君を責めたりなんてしないよ」
「やっぱり、悪いのかな」
「どうかな。君の事情を知らない人たちからしたら、そうかもね」
彼女は、俺の言葉に苦笑いを浮かべる。
「でも、少なくとも、俺は君を責めないよ。今だって、泣きそうなのを我慢してるのに、悪くなんて言えないでしょ」
「そんな顔してる?」
「うん。前に飲み会で会った時と、同じ顔だ」
彼女が自嘲的な笑いを漏らして、俺の視線から逃げる。俺は何も言わないで、彼女がこちらに来るのを待った。
「あっちは、私が今何してるかとか、考えたことあるのかな」
少しして、彼女が俺を見て呟いた。
「今日やこの間のこと見てると、あんまり考えてないみたいだね。というか、考えてるけど、自分が一番だと思いたいんじゃないかな」
「ああ……」
彼女が何となく納得したように頷いた。思い当たる節があるんだろう。
彼氏は彼女が何をしてるかということに関してはほとんどお構いなしで、考えてたとしても、自分が何よりも優先されていたいと考えているような気がする。付き合っていたら、そんな気持ちを持っても当然なのかもしれない。でも、今は普通の恋人とは状況が違うことを、彼氏の方は理解する必要がある。彼女の今の生活は、きっと、バイト関係が中心になっている。そうさせたのは、間違いなく留学という問題であり、彼氏もそれに関係しているはずだ。それでも、向こうには伝わらないのだろう。そのはがゆさが、彼女を苛立たせる原因にもなっている。
「電話できないって言ったらさ、私が悪いっていうみたいにして、『じゃあ、いいよ』とか言うんだよ。ごめんとか、やっぱり大丈夫とか言ってほしいのが見え見えで、なんかやだ」
彼女は呆れたように鼻で笑う。
それを聞いて、本当に俺が考えているような人間なんだろうなあと思ってしまう。どうあっても、彼女には自分が必要だと思っていてほしいみたいだ。俺が知る限り、彼女に必要なのは恋人という名前がついただけの人間ではなく、彼女の味方になって、そばにいてくれる人間だ。上辺だけ味方になんかなるんじゃなくて、本当に、絶対的に味方になってくれる人。それが、彼女が求めているものなんだろう。
「勝手に行っておいて、さみしいなんて、意味が分かんない。電話もしたくないって言ったし、メールもしたくないって言った。連絡なんて取り合いたくないって、言った」
彼女はそう言って、また俺から視線を外す。ただ、今度は気まずさとかそういうことからではなく、自分が泣きそうになるのを必死に耐えるためだ。
彼女は、この彼氏がいない期間を、何事もなく過ごしたいのかもしれない。彼氏が留学に行っていたという事実や、自分が行けなかったという事実を、全部なかったことにして、彼氏が帰ってきてからも何事もなくやっていきたいと。
何も知らない人間から見れば、それは彼女の勝手なエゴかもしれない。けれど、彼女はそれも分かった上で、そうしたいと望んでいるんだろう。そうすれば、自分の夢が叶わなかった現実を無視できる。彼女が連絡を断ちたいと思っている理由の根底には、きっと、それがある。
「……勝手だね」
俺から視線を逸らせたまま、口の端を上げて彼女がそう呟いた。そして、目の前にあるカップに手を伸ばす。
今の『勝手』は、彼氏にではなく、自分に言ったものだろう。勝手、か。勝手じゃない人間なんていないだろうし、自分のことを勝手だと認識してる人間の方がよっぽどマシだと俺は思う。
「君の思うようにしたらいいよ。何を思うか、何をするか。それに何かを言う人もいるかもしれないけど、気にしなくていい。君の事を理解してくれる人は、ちゃんといるんだから」
彼女がカップをテーブルに置くのを待って言えば、彼女は逸らせていた目を俺に戻していた。そして、少し驚いたような顔をする。
「君の生活の上では、何かを決める権利は君にだけあるんだから」
「でしょ?」と最後に付け足せば、彼女は少しの間ぽかんとした後、やっと笑顔になって「ありがとう」と言った。
俺もそれに笑って返し、腕をテーブルから離して紅茶を飲む。
「ほんとに、こっちにはこっちの都合があることも考えてくれたらいいのに」
「それが出来るならとっくにやってるよ。出来てないから、君をそこまで苛立たせるんでしょ」
俺がそう言うと、彼女は「そうだねー」と言いながらおかしそうに笑った。先ほどまでの泣きそうな顔は、彼女の表情からなくなっている。少しは、すっきりしただろうか。そんなことを思いながら、紅茶を啜った。