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病院の売店で弁当とお茶を買い、ロビー付近で塾に電話をした。この時間なら、もう教室長はいるだろう。数回のコールで、ドンキーが電話に出た。
俺は宮瀬が事故に遭ったことと、脳震盪を起こしたこと、貧血気味であることを話し、来週の宮瀬のシフトを全部はずしてもらうように頼む。ドンキーは初め嫌そうな声を出したが、教室で倒れたらどうするんですかと脅しめいたことを言うと、渋々ながら俺の頼みを受け入れてくれた。俺ができる限りカバーするというのが条件だったけど。携帯を切って、溜め息をついた。宮瀬も入りすぎだが、ドンキーもドンキーで、宮瀬一人に頼りすぎだ。人が足りていないというのも知っているが、それなら他の人にも頼めばいいのに。それに、他の奴も誰かをあてにしすぎている。週三日以上シフトに入っているのは、俺や宮瀬を含めてほんの数人だ。講師が二十人はいるのに、なんで人が足りないんだよ。そんないらい
らを抱えながら、宮瀬のいる処置室に戻った。
処置室に戻ると、宮瀬にも昼ご飯が配られていた。そして、服が病院で患者が着るような服になっている。
「なんか、脳震盪起こしたから、一応レントゲンとらないといけないんだって」
「ふーん」
俺の視線に気付いたのか、宮瀬は両手を広げて説明した。俺は元の椅子に座り、自分の弁当を広げる。宮瀬は俺の買ってきた弁当を見て、羨ましそうな声をあげた。
「私もそっちがいい」
「だめ。病人は大人しく病院食を食べてなさい」
「けち」
宮瀬はそう言って「いーっ」と俺を威嚇したあと、病院食の蓋を開け始めた。
まあ、事故っていっても怪我は少ないからそれなりに元気なんだろうな。目を覚ました時はぼんやりしてたけど、今はほとんどいつもの宮瀬だ。
「そういや、お母さんの方は大丈夫だったのか?」
「ん? うん」
ご飯を食べながら、宮瀬が頷く。俺も弁当に箸をつけて、宮瀬の方を見た。
「すごい怒られたけど。こっちに来ることは回避できた。でも、バイト禁止令が出た」
どうしよう、と困った顔で俺を見てくる宮瀬。
「そのことなら、さっきドンキーに電話で言っといた。なんか文句たらたらだったけど、来週のシフトは全部なしにしたから、ちゃんと休め」
もぐもぐと口を動かしながらさっきの電話のことを告げると、宮瀬の顔がぱっと嬉しそうに変わった。
「ありがとー。あ、でも、そしたら古賀さんとか大変じゃない?」
自分の空きを心配して、宮瀬の顔が少しかげった。
「別に。来週は課題もないし、大丈夫。とにかく、今は休め」
「……ありがと」
少しの間があった後、宮瀬はそう言って、俺に向かって微笑んだ。俺もそれに小さく笑って返し、食事を再開した。
食事が終わった後、少ししてからナースが空の車いすと共に宮瀬のベッドまでやって来て、レントゲンをすると告げた。宮瀬は車いすに若干の抵抗を示したが、ベッドから下りる際にまたしてもふらついてしまい、結局車いすに乗るはめになった。ついていこうかと迷っていると、ナースの人が「五分程度で終わりますから」と見越したように言ったので、ここで待つことにする。宮瀬が『来ないの?』というように俺を振りかえったが、安心させるように笑ってやると、しょうがないというようにナースに押されてレントゲンへと向かった。
ナースの言うとおり、ものの十分ほどで宮瀬は戻ってきた。またベッドに座ると、ちょうど点滴液がなくなったところらしく、ナースの人がてきぱきと新しいものに変えている。ナースの人がカウンターの方へ戻ると、宮瀬は枕を立てた柵に寄りかかって、ぐーっと伸びをした。
「お前さ、」
そんな宮瀬を見ながら声を掛けると、宮瀬は「ん?」と言って俺の方を向く。
「体調悪いなら、ちゃんと休めよ。それか、誰かに言うとか。貧血気味だって言われただろ」
「ああ……」
俺の言葉に宮瀬は気まずそうに視線を逸らす。
「だって、言ったら迷惑かなと思って」
「何で迷惑になるんだよ。病院から電話あって、心配したんだぞ」
「……ごめん」
宮瀬は小さく謝って、視線を下に落とした。俺は小さく息をついて、宮瀬を見る。
「何かあったんなら、誰にでもいいから、言ってくれ。いきなり何かあったら、どうしようもできない」
「うん」
「今週からずっと体調悪かっただろ?」
そう聞くと、宮瀬は少し驚いたように俺を見た。
「毎週お前と顔合わせてるんだ。それくらい分かる」
宮瀬が何でと尋ねる前に答えを言ってやる。
「頼むから、無理しないでくれ」
「……うん」
宮瀬は頷いて、少し泣きそうな顔になった。
「ちゃんと言うよ、今度から」
「そうしてくれ」
俺が息をはいてそう言うと、宮瀬は小さく笑って俺を見た。それに気付いて、目線で「なに?」と尋ねる。
「今日ね、目が覚めて、古賀さんのこと見た時、何でって思ったんだけど、古賀さん見た時に安心した」
「え?」
「何か分かんないんだけど、『ああ、古賀さんだ』って思って、『良かった』って思った。ほんとにありがとう。来てくれて」
宮瀬はそう言って笑う。思わずそれを見て、視線を逸らしてしまった。
「いいよ、別に。心配したってこと分かってくれたら」
「うん」
視線を逸らしたままそう言えば、宮瀬はさっきよりは元気のある声で頷いた。
そのまま午後も宮瀬に付き添っていて、その間に医者やナースの人が採血やら何やらと検査をしに来た。時計が3時を少し過ぎたころ、サイドテーブルに置かれていた宮瀬の携帯が振動した。俺も宮瀬もその音に反応して、携帯を見る。画面には『永井柾也』と表示されている。宮瀬はその名前を見てまずいというように「あっ」と声を漏らし、携帯に手を伸ばした。
「もしもし? あー、うん。ごめん。今日はちょっと……」
永井さんからの電話に言いにくそうに答えている宮瀬。そういえば、金曜日は永井さんの授業があるって言ってたっけ。授業にいなかった宮瀬を心配して、永井さんが掛けてきたんだろう。
「いや、ちょっと、学校行く時に事故って……。え? いや、大丈夫だから。古賀さんも来てくれてるし」
そこまで言って、宮瀬は溜め息をついた。俺の名前が出てきて顔を上げるも、宮瀬は何でもないという風に顔を横に振る。
「医大だよ。明法の近くの。……はい、待ってます」
そう言って、宮瀬は憂鬱そうに携帯を切った。
「どうした?」
「永井さん、今から来るって」
「ああ、そうなんだ」
宮瀬はそう言って少し考え込むようなしぐさをする。俺も、できればあんまり永井さんには会いたくない。でも、今は来てもらった方がありがたかった。
「ちょうど良かった。俺、もう行かないとだから」
「あ、そっか」
宮瀬は携帯の時計を見て俺の言葉に頷く。
今日はバイトだから、今から家に帰って塾に行くとなると、もうここを出なければならない。今は宮瀬を一人にしておきたくなかったから、誰かにいてほしい。それが、たとえ永井さんでも。
永井さんは、ほんとにすぐにやって来た。まあ俺のところから自転車で15分なら、車の永井さんがもっと早いのは当たり前だけど。
処置室に入ってきた永井さんは、宮瀬の姿を見とめると、大股でこちらにやって来る。
「大丈夫なの?」
そして、開口一番でそう尋ねた。珍しく、慌てているようだった。俺の中で、永井さんは何事にも動じないような人間になっていたんだけど。
宮瀬が頷くのを見ると、永井さんは安心したように息をついた。
俺はそれを見て、立ち上がる。宮瀬も永井さんも俺の方を向いた。
「もう行くな?」
「あ、うん。ありがとう」
宮瀬が、一瞬、さみしそうな顔をした気がした。けど、宮瀬はすぐに笑顔になってお礼を言ってきた。
「バイトから帰ったら連絡するから、ちゃんと休んどけよ」
「うん」
宮瀬が頷くのを見て、俺はコートやマフラーを羽織る。
出口に向かおうとしたところで、もう一度宮瀬を見下ろした。
「ほんとに、何かあったら言えよ?」
「……うん」
そう安心したように微笑む宮瀬を見て、思わず、宮瀬に触れそうになった。それも、肩とかじゃなくて、頬に手を置きそうになった。腕を動かしかけたところでそれに気付き、ぐっと腕を身体の横にとどまらせる。宮瀬は、そんな俺に気付いていないようだった。
「じゃあな」
そう言って、手を上げて処置室の入り口に向かう。その時、永井さんがこちらを見ている気がしたけど、それには気付かない振りをして、処置室を出た。
早足で病院の駐輪場に向かい、自分の自転車に鍵を通して、大きく息をはいた。
何をしようとしたんだ、俺は。よりによって、宮瀬に触れようとしたなんて。そんなことすれば、宮瀬との関係がくずれてしまうことくらい分かっているのに。そして、たぶん、それを永井さんは見ていた。あの人は、あれで動けないでいる俺を知っただろう。宮瀬との関係を、維持しようとする俺に、気付いただろう。何であんなことしたんだ。
今さら後悔が押し寄せてくる。
それでも、宮瀬が俺を必要としてくれているってことを知って、何かを求めてしまったんだ。それをしちゃいけないって分かってるにもかかわらず。
「何やってんだ」
一人呟いて、手で顔をぬぐった。
もう忘れよう、さっきのことは。結局、何もなかった。それでいい。来週は宮瀬に会わないんだ。それで、全部リセットしよう。
そう考えて、自転車を漕ぎ始めた。
永井さんが見ていたかとか、あの人が何をするかとか、そんなことは考えないようにして、ただ自転車を漕いだ。