side K 1
知らない番号から電話が掛かってきたのは、金曜日の午前中だった。
たまたま二時間目の授業がなかった俺は、ぐだぐだと友達と大学の中にあるカフェテリアで喋っていた。テーブルに置いておいた携帯がいきなり鳴って、画面を見るも、まったく知らない番号。初めのコールは無視して友達と会話を続けていたけど、それからすぐにもう一度その番号から電話が鳴った。
「出たら?」
「誰だよ、これ」
友達が電話を促してきて、俺はコーヒーを飲みながら携帯の通話ボタンを押した。「もしもし?」と少し警戒して電話に出ると、その向こうから少し安心したような女の人の声が聞こえてきた。
『古賀博己さんですか?』
「はい、そうですけど」
コーヒーのカップを持ったまま女の人の声に答える。勧誘かなんかかと思っていたが、女の人の次の言葉で持っていたカップを落としそうになった。
『あの、宮瀬春希さん、ご存知ですか?』
「え? あ、はい、まあ」
何で宮瀬がここで出てくる。カップをテーブルに置いて電話に集中した。向かいに座っている友達がなんだというようにこちらを見てきたが、俺もまだ何も分かっていないので、それには首をひねって答えた。
『こちら医大付属病院なんですが、宮瀬さんが事故に遭われて、意識不明で先ほどこちらに運び込まれてきたんです』
「え? 事故? 大丈夫なんですか?」
『事故』という単語に俺も友達もぎょっとなる。
『はい。大きな怪我はありません。ご家族にも連絡したんですが、誰も出られなくて。宮瀬さんの携帯を拝見して、古賀さんのお名前が一番最初にありましたので、ご連絡しました』
「えっと、明法の近くの医大ですよね?」
『はい』
「じゃあ、今から行きます」
それだけ言うと、俺は携帯を切って、残っていたコーヒーを一気に飲み干した。
「おい、大丈夫か?」
俺の慌てた様子を見た友達がそう聞いてきた。俺はそれに頷きながら立ち上がって、鞄とコートを引っ掴む。
「悪い。午後からの授業全部休む。宮瀬が事故ったらしい」
「宮瀬って、お前とバイト一緒の?」
「ああ」
コートを急いで羽織って友達に簡単に事情を説明すると、俺はさっさとカフェテリアを後にした。
***
医大付属病院は、俺と宮瀬の大学の中間地点にある。自転車で急げば15分も掛からない。
たぶん過去最短の速さで病院に着いた俺は、受付で宮瀬のことを尋ね、そこで教えられた処置室に向かった。
処置室で眠っていた宮瀬は、どんな怪我をしているかと思えば、顔に少しガーゼが貼られているだけだった。ベッドに横に置いてある点滴は、宮瀬の腕に繋がっている。ちょうど近くに医者っぽい人がいたので、名前を名乗ってから宮瀬の状態を尋ねる。
「何でも、歩道から飛び出してきた幼稚園児を避けようとして原付を思い切り横に切ったせいで、原付が横転して道路に横滑りしたらしいです。幸い今の時期は防寒具のおかげでそこまで大きな怪我はありません。それでも、顔の方は少し擦り傷が出来てしまってますが。後は、足にも少し擦り傷と切り傷が」
それを聞いて大きく息をついた。何だ、そこまでひどくはないらしい。事故っていうから、てっきりもっとひどいものかと思っていた。
「でも、電話では意識不明で運ばれたって……」
それを言うと、その医者はカウンターにあったカルテを開いて、俺に説明する。
「ああ。怪我はありませんでしたが、横転した衝撃で脳震盪を起こしたんです。それと、若干貧血気味だったようで、それも影響しているのかもしれません。もう少しすれば、目を覚ましますよ」
「分かりました。ありがとうございます」
医者に礼を言って、宮瀬が眠るベッドに近付いた。コートやマフラーなんかをベッドの上にそっと置いて、すぐそばにあった椅子に座る。
宮瀬の頬から顎にかけてガーゼが貼ってあった。本当にそれ以外に怪我らしい怪我は見当たらない。この点滴も、事故のせいというよりは貧血のためだろう。
そういえば、と思い出す。大学の授業が後期に入ってから、宮瀬は毎日バイトに入っていた。最近になって金曜日だけは外すようになっていたが、それでもそれ以外の日は最初から最後までほぼ全部のシフトに入っている。それに加えて、こいつは学校の方も手を抜かずにやっている。学生なんだから当たり前だが、朝から学校に行って、夕方から夜まではバイトで、家に帰るのは早くても10時半過ぎ。家に帰ってからは、学校の課題をやって。それを毎日やっていたら、身体が悲鳴を上げて当然かもしれない。宮瀬は少しくらい体調が悪いと思っても、それが完全に表面に出るまでは休まない性質だ。無理をしてでもそれをやる理由は、やっぱり留学の件があるからだろう。それに行けなかった分、精一杯自分の出
来ることをやって、誰かに認めてもらおうとしてるんだ。
水曜日にバイトで会った時、何となく調子が悪そうだということは気付いていた。ぼーっとしてる時もあったし、疲れた顔をしていた。大丈夫かと尋ねた時に返ってきた「大丈夫」という返事を、そのまま鵜呑みにしてしまった。あの時に無理にでも次の日のバイトを休ませておけば、少しは体調も良くなっていたかもしれないのに。
宮瀬が事故を起こしたことと体調不良は関係ないかもしれないけど、そう思わずにはいられなかった。眠っている宮瀬を見て、自分が情けなくなった。
しばらくして、宮瀬が目を覚ました。初めはぼんやりとした表情だったが、何度か瞬きをして、自分がどうしてここにいるかを理解したようだった。
「大丈夫か?」
椅子に座ったまま、宮瀬を覗き込むようにして声をかけた。宮瀬は俺を見つけて、『何で?』という顔をしたが、俺が説明するより早く医者がこちらにやって来た。
「宮瀬さん? ここがどこか分かりますか?」
「……びょういん」
「どうしてここに来たかは?」
「……こけたあとに、たおれたから」
「はい。じゃあ、これは何本?」
「……いっぽん」
「じゃあ、指を目で追って」
医者が指を左右上下に動かすと、宮瀬はゆっくりと視線でそれを追った。数回それを繰り返すと、医者はペンライトで宮瀬の目を見る。
「……よし。大丈夫だね。その点滴が終わって、もう一つやったら帰れるよ。その間に色々検査も済ませていくから」
医者はそう言うと、カルテに何かを書きこんで、カウンターの方へと戻っていった。点滴を見ると、あと半分ほど残っている。これをもう一つか。
宮瀬に目を戻すと、さっきよりはだいぶマシな表情をしていた。
「大丈夫か?」
さっきと同じ質問をすると、宮瀬は小さく頷く。そして、また目で俺がここにいる理由を尋ねてきた。
「病院から電話もらったんだ。お前の親がどっちも出なかったらしくて、携帯見て履歴の一番上に名前があったんだと」
「……そっか」
そう言って、宮瀬は視線を前に戻したかと思うと、いきなり「あっ」と声を漏らした。なんだと思って宮瀬を覗き込む。
「原付……」
「あほか。それより自分の心配しろ」
よりによって転がった原付の心配をする宮瀬に呆れてしまう。
「だって、壊れたらぜったい買ってもらえないじゃん」
「そんなもん、請求したらいいだろ」
「そうだけど」
一応事故の責任は飛び出した方にあるんだから、後からでもその親が来るだろう。意識不明の原因も、横転した時の脳震盪だっていうし。
それでもうーうーと宮瀬は唸っている。どうやら、意識は完全にはっきりしたみたいだ。そう思った矢先、処置室のドアから小さな男の子とその母親らしき人が入ってくるのが見えた。男の子の方は、幼稚園の制服を着ている。母親はカウンターで何かを尋ねていて、尋ねられたナースがこちらのベッドを指していた。たぶん、飛び出した子とその母親だ。
二人の親子は手を繋ぎながらこっちに向かってきた。男の子は泣きそうな顔をしている。
「宮瀬春希さんですか?」
母親が確認するように宮瀬を見ながら言った。宮瀬はその声の方を向き、誰だか分かったのか、急いで起きようとする。が、まだ脳震盪を引きずっているらしく、起き上った瞬間によろけて倒れそうになる。咄嗟に手を出して宮瀬を支えた。母親も慌てたように近付く。俺は宮瀬の背中に手をやって支えてやり、片方の手で枕を立たせて宮瀬が寄りかかれるようにする。ベッドの柵に寄りかかって、宮瀬は親子と対面した。
「この度は本当に申し訳ありませんでした」
母親が深々と頭を下げる。宮瀬はそれを見てぎょっとなって手を横に振った。
「いや、そんな謝らないでください。別に大事故ってほどのものでもないんですし」
「でも、この子が飛び出したせいで事故になって、意識を失ったんですよね」
「あ、いや、まあ……」
墓穴掘ってどうする。
宮瀬は母親に正しいことを言われてまごついている。
子供の方が前に進み出て、母親と同じように頭を下げた。
「ごめんなさい」
「うん。大丈夫だよ。でも、今度からはしないでね」
宮瀬がそう言うと、男の子は泣きそうになりながらも頷いた。宮瀬もそれを見てほっとしたようだ。
その後は、宮瀬と母親の方で連絡先を交換し合い、後日手続きやら何らかのお詫びをすると言って、親子は帰っていった。
親子が帰ったあと、宮瀬は親に連絡はしないでくれとナースの人に頼み込んでいた。
「ダメですよ。事故で救急車が出たんですから警察にも連絡が入ってますし、それにさっき一度ご家族には連絡しました」
それを聞いて宮瀬が固まる。
「じゃあ、掛けなおしてきたら、私に話させてください。ちゃんと全部言いますから」
宮瀬はそう言って必死にお願いする。ナースの人も折れて、それは許可してくれた。
「よかったー」
宮瀬はナースの人がカウンターに戻っていくのを見ながら胸をなで下ろす。
「なんでそんな嫌がるんだよ」
「だって、事故って倒れたなんて知ったら、確実にこっちに飛んでくるんだもん」
「そりゃあな」
宮瀬の言葉に俺は頷く。誰だって、自分の子供が事故って倒れたって聞いたらすっ飛んでくるだろうよ。
「ただ脳震盪で倒れただけなんだから、こっち来てもらうのも悪いでしょ」
「別にいいと思うけど」
「いいの。じゃなかったら、原付とか取り上げられそう」
本音はそれか。
宮瀬の言葉を聞いて呆れたという顔をすると、宮瀬は小さく笑ってごまかした。
「それより、来てくれてありがとうね」
「ん? ああ、ちょうど授業なかったからな。検査とか全部終わるまで、ここにいるよ」
「え、いいよ。別に。午後からも授業あるんでしょ?」
「気にすんな。まあ、バイトの時間になったら帰るけどな」
バイトという言葉を聞くと、宮瀬は「そうだねえ」と意地の悪い顔になった。
「ドンキーがうるさいもんねえ」
「良かったな。今日バイトなくて」
俺がそう言うと、宮瀬は「ラッキーラッキー」と言って笑った。それに俺も笑っていると、ナースの人が電話の子機を手にこっちに歩いてきた。
「宮瀬さん。お母さんから掛かってきたよ」
ナースの言葉を聞いて、若干まずいという顔つきになったものの、宮瀬は大人しく電話を受け取った。宮瀬が電話をする横で時計を確認すれば、もうお昼を少し過ぎていた。処置室を見渡せば、順々にお昼の病院食が配られていっている。俺も何かを買ってこようと、電話している宮瀬に合図して、その場を立った。