side N
彼女の『相談相手』というのに、たぶん、今日初めて会った。『古賀』という名前しか分からなかったけど、彼が彼女に今一番近い人間だということは、間違いないだろ。
そして、自分がまだ彼女にとって『友達』という枠を超えていないということも、分かった。
夕方、彼女と別れた後、いつもの商業施設に入っている本屋に立ち寄ったことが、ある意味彼を知るきっかけになったのかもしれない。
彼女が話題に出していた本を買おうとその施設の本屋をうろついていると、学会なんかで何度か会ったことのある教授と鉢合わせしてしまった。聞けば、何人か俺の知っている教授たちと軽く飲むのだと言う。ほぼ強引に誘われて、時間までその教授と話をしていた。途中、万里子に今日のことを電話で伝えると、ひどく不機嫌な声が返ってきた。俺も本当は行きたくなったのだけど、中年特有の強引さに押し切られ、結局は行くことを了承した。
「帰りはだいぶ遅くなるだろうから、先に寝てていいよ」
『マサくん、最近外食多くない?』
「ごめんな。なるべく早く帰るから」
多くないかと聞かれても、実際外で食べたのは二週間前に村瀬と彼女と食べたときだけだ。その前の日にあった学会の後も飲みに誘われたが、断っている。それでも、さすがに今日は悪いと思っているから、素直に謝っておく。万里子の小言を二つ三つ聞いて、ようやく携帯を切った。
今日の場所だという隣駅の居酒屋で、彼女と遭遇したときは驚いた。そして、その時に、彼に会ったのだ。たぶんバイトの後なのだろう彼は、スーツ姿なものの、シャツをズボンから出しており、ネクタイもしていなかった。その時は彼とは会釈だけで別れたが、彼が彼女の『相談相手』だということは何となく分かった。
彼女と別れて席に戻れば、何のことはない、俺の位置からは彼女たちの席が見える。店の奥にいたその団体は、何人かがスーツ姿で、私服姿もちらほら見える。彼は、その席の一番端っこに座っていた。彼女はトイレから戻ってくると、彼の横に落ち着き、何やら話をしている。しばらく普通にしていたかと思うと、彼女はいきなりテーブルを叩くようなしぐさをして、何かを手に立ち上がろうとした。しかし、酔いが回ったのか、よろけて隣の彼に倒れこんでしまう。彼は咄嗟に彼女を受け止めていたが、それが何やら気にくわなかった。彼女は周りの人間に一言二言何かを告げると、大急ぎでホールを突っ切って店の入り口の方へと消えていった。
もしかしなくても、彼女に何かがあったんだろう。そう思って、彼女が出ていって少ししてから、その後を追うようにして入り口の方へと向かった。
店の入り口まで来ると、透明のドアの向こうに彼女がしゃがんで顔を伏せているのが見えた。手には、携帯を持っている。彼氏から連絡でもあったんだろうか。
ドアを開けて声を掛けると、彼女はゆっくりと顔を上げてこちらを向いた。その顔は、今にも泣きそうな顔だった。大丈夫だと言う彼女に近付いて、彼女を見下ろす。
「大丈夫じゃないでしょ。そんな泣きそうな顔して」
そう言いながら眉をひそめると、彼女は曖昧に返事をする。それを聞いて自然と顔が険しくなるのが自分でも分かった。
黙って彼女を見下ろしていると、彼女は所在なさげに視線を泳がす。どうあっても、俺と話すつもりはないらしい。彼女の顔に、混乱が見てとれた。俺は早く席に戻りたいという彼女の思いを無視するかのように、ドアと彼女の間に立って、その手を阻む。
そうしていると、後ろのドアが開く音がして、先ほどの彼の声が聞こえた。彼女が「古賀さん」と声を漏らす。その声に彼女を見ると、彼女は傍目から分かるほど身体の力を抜いて、安心したような顔つきになった。
その時だ。古賀という彼が彼女の相談相手だと確信したのは。
彼は彼女に下で待つように告げると、自分は中へと戻っていってしまった。彼が戻っていって、彼女の方を振り返ると、彼女は俺に向かって曖昧に笑い「ごめん」とだけ言って、下へと降りていってしまった。
その後、彼に彼女のことを聞けば、「混乱してるけど、すぐ戻る」と言われた。俺には、彼女が混乱してることは分かるが、それを取り除くことは出来なかった。コートを持ってさっさと外に向かう彼には出来るんだろうか。そんなことを考えながら、自分の席に戻った。
***
彼女は、どう言えば俺が引きさがるかを心得ているようだった。帰りの車の中でそう思った。
教授たちとの食事も終わって帰ろうとしたとき、彼女を見つけて送ると言ったのを、彼女は首を横に振って断った。そして、俺が何も言えないように暗に万里子のことを指して早く帰るよう促した。
確かに、彼女は混乱していた。きっと、彼氏から連絡があったのだろう。そして、その混乱を解いたのは、あの『相談相手』だった。
彼女の混乱の原因の一つには、俺も含まれていると思う。俺が、そうなるようにしたのだから。自分の立場を使って、彼女の中にあるメーターを混乱させようとしている。それは、成功しているみたいだ。彼女が俺に何も言おうとしなかったことが、良い例だろう。きっと今までなら、何も考えずに俺に話をしていた。それで、彼女の気持ちが楽になるんだから。でも、しなかった。ということは、俺との距離の掴み方が分からなくなってきていて、どうしたらいいか分からないのだろう。
以前のように、話すところは話す、止まるべきところは止まる、という形じゃなくなってきただけいい。混乱して止まったなら、少しは俺の余地がある。
彼女とどうにかなりたいわけではない。ただ、特別な感情を持っているかと聞かれれば、答えはイエスだ。つい一カ月ほど前は、そんな感情もなく、ただ彼女に興味を持っていただけだった。できるなら、彼女に信頼される人間になりたいと思っただけだった。彼女の相談相手と肩を並べるくらいに。それが、そこへの執着へと、彼への嫉妬へと変わった。変わったというよりも、変わり始めていると言ったほうがいいか。今日初めて彼を見て、自分の変化に気がついたのだから。
馬鹿らしいとも思う。自分の立場で、そんなことを言う権利がないことも分かっている。それでも、彼を見て心底安心したような表情になった彼女を見て、何かが変わったのは事実だ。それに嘘をつくつもりはない。
問題なのは、その気持ちと万里子への気持ちのどっちが大きいかということだ。万里子を裏切る気は当分ないだろうけど、彼女が求めればそれを受ける気はある。
「……結局、彼女とどうにかなりたい、ってことか」
車中で一人呟いて、自嘲する。
ただ、彼女には彼がいる。お互い求め合っているようだけど、幸いなことに、それはしっかりとした形にはなっていないい。それは、彼氏という存在がストッパーになっているからだろう。その彼氏が帰ってきてしまえば、彼と彼女の関係は何らかの終わりを迎える気がする。もちろん、それは俺も同じだ。だが、今一番彼女に近いのは、彼だ。それはきっと、彼も分かっている。だからこそ、彼女との間で保たれたバランスを壊したくないと思っている。なら、別にくずさなくてもいい。彼女には、下手な嘘や小細工は通らない。真っ直ぐに、正攻法にいくだけだ。
***
次の日の朝、彼女がしっかり帰ったかどうかを確認するためにメールを送った。
『帰ったよー。昨日はほんとごめん』
『いいよ。俺でよければ、また話聞くから』
そのメールからはしばらく開きがあって、夕方頃に返信がきた。
『話せたら来週話すよ』
それを読んで、自然と笑みが浮かぶ。
「マサくん、最近楽しそうだね」
「そう? まあ、ちょっと良いことがあったからね」
買い物の最中に、万里子がそう聞いてきた。それに嘘でもなく、かといってすべてを話すわけでもなく答える。万里子が気になって「何のこと?」と聞いてきたが、それには答えないで買い物を進めた。
その時に、俺と万里子の薬指にあるものが目に入ったけれど、それには気にしない振りをした。