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何だか、妙な感じになってきたな。
電車に揺られながら、最近の出来事を思ってそう考える。
留学スペースでキレてしまった日から、なぜか永井さんと友達と呼べる関係になってしまった。『知り合いの先生』という程度では済まされないくらい、そこら辺の友達や学生よりも付き合いがあると思う。これが普通の先生ならまだしも、厄介なことに、永井さんは結婚している。まだまだ若手と呼べるくらいのあの人は、授業のときでさえもいつも左の薬指にシルバーの指輪をしていた。一緒に授業を受けている友達がそれを見て、「あんな人が旦那さんだったらいいよね」と言っていたのを覚えている。私も、指輪の存在を隠すことなく普通にしている永井さんを見て、『いい生活送ってるんだろうな』と思ったことがある。
けど、永井さんと仲良くなった今は、その指輪があるからか、いまいちあの人との距離がつかめない。結婚しているということ以上に厄介なのが、永井さんが過保護ともいえるくらい私のことを気遣ってくれていることだ。こっちが気を使って線引きしているラインを、あの人はわざと気付かない振りして簡単に超えてくる。私が考えすぎなだけかもしれないけど、永井さんは距離を測りかねている私をよそに、いとも簡単に私に近づいてきている気がする。
「考えすぎ、か」
電車の窓の外を眺めながら、ぽつりと呟いた。
それでも、よく交わすメールやたまに掛かってくる電話のことを考えると、どうしても永井さんの指に光るシルバーの指輪を考えてしまう。今日だって、授業が終わってすぐ『暇だから会おう』とメールが来て、私のお気に入りのカフェで話をしていたのだ。同じ舞台を見た次の週も、今日も。こんな風に、永井さんがうちの学校に来る金曜日は、いつも会っている。
一つ息をはいて、永井さんのことを頭から追い払った。彼氏のことや古賀さんたちとの曖昧な関係のこともあるのに、それに加えて永井さんのことまで考えたくない。
そう思ったところで、電車が駅に到着するアナウンスが車内に流れた。私は斜めにかけた鞄の紐を握って、扉の方に向かう。
今日は、バイト仲間との飲み会だ。特に何かあったわけでもないが、就職活動で忙しくなる三回生を激励するためと冬季講習に向けての力溜め等を理由に、金曜日のバイトが終わった後開かれることになっていた。金曜日にシフトを入れていない私は飲み会からみんなに合流する。バイト先も私の家から隣駅なら、飲み会場所も隣駅ということで、今日は電車を使って一駅隣まで来たのだ。
駅前の居酒屋前に行くと既に何人かがいて、私に気付いた女の先生が手を振ってくる。私も手を振り返して彼女たちの輪に加わった。
「あと何人くらい来てないの?」
「あとは中山と古賀くらいかな。二人してドンキーに捕まってる」
今日の幹事でもあるスーツ姿の男友達に聞くと、彼はにやにや笑って最後の言葉を付け足した。私もそれに笑って「災難だねえ」と返す。
『ドンキー』というのは、私たちの塾の教室長のことだ。女の教室長なんだけど、身長に見合った体重ではなく、一度混乱を起こしてヒステリック気味に教室のカウンターを叩いていたことからこの名前がついた。たぶん、今も二人して彼女の話に付き合わされているんだろう。
私は時計を見て、間に合うかなと考える。今日の開始は一応10時半ということになっているけど、今で既に10時20分を過ぎてる。基本的に私たちが飲み会を行うのは、週末のバイト終わりだ。一番最後の授業が9時半に終わって、後片付けをして、と考えるとどうしてもこの時間になる。
けど、私の心配は杞憂だったようで、それから数分しないうちに中山さんと古賀さんの二人が現れた。私は二人に手を振り、それに気付いた古賀さんが手を上げて応えてくれる。中山さんは私に簡単に「よっ」と言うと、輪の端っこで煙草を吸っていた洋くんに向かって手加減なしにボディーブローをくらわせた。ぎりぎりで気付いた洋くんが咄嗟に身体を引くも、ほとんどが脇腹に入ったらしく、苦しそうに悶えている。
「なになに!」
「うるさい! こっちはドンキーの相手してきて疲れてんだよ」
洋くんの反論は無視して中山さんは「早く入ろう」とみんなに先だって店に入っていく。みんなもぞろぞろとそれに続いた。苦しそうにお腹をさすりながら、洋くんも店に入っていった。
「相変わらずだねえ、洋くんは」
「谷原サンドバッグなんだろ?」
洋くんの後ろ姿を見ながら言うと、横に立っていた古賀さんがにやっと笑いながら言った。私はそれに笑って、みんなに続いて店に入る。古賀さんもおかしそうに笑っていた。
うちの塾で一番背が高い洋くんは、講師のみんなからサンドバッグとして扱われるときがある。中山さん曰く、「腹の位置がちょうどよくて殴りやすい」とのことだ。
店に入ると、週末ということで、どこもかしこも席が埋まっていた。あちこちから笑い声やら色々な話し声が聞こえてくる。私たちは、店の一番奥に通された。
みんなが席について飲み物のオーダーをとる。
「お前、今日何で来たの?」
隣に座った古賀さんがコートを脱ぎながら尋ねてきた。
「今日は電車だよ。帰りなくなったら歩いて帰ろうかと思って」
「ふーん」
私もコートを脱ぎながら答える。
私の家から塾のあるここまでは、歩いて帰っても一時間くらいだ。終電がなくなっても、いざとなれば歩いて帰ればいい。それに、もう何度かここから自分の家まで歩いて帰ったことがある。
メンバーのほとんどがビールを、ビールの苦手な私を含めた残りの数人が酎ハイやら梅酒をオーダーして飲み会が始まった。
飲み会が始まって二時間くらい経ったころ、一人の女の先生が私を見て「宮瀬っちー」と手を向かいから差し出してきた。彼女は私と同学年で同じ学校に通っている。なんだ、と思いながらもその手の上に自分の手を置いた。
「なに?」
空いた左手で何杯目かの酎ハイを飲んでいると、彼女の口からとんでもない言葉が飛び出た。
「宮瀬っちさ、この間学校の駐輪場で何か男の人と仲良さそうにしてたじゃん。あれってさ、演劇学の先生でしょー?」
酔っているからか、えらく間延びした喋り方をしていたけど、その言葉は私と彼女の周りの人間にはばっちり聞こえていたようだ。
「え? お前、ついに浮気か?」
「先生ってどういうこと?」
彼女の言葉に、思わず口の中に含んでいた酎ハイを吹き出しそうになる。『演劇学の先生』が誰かを知っている古賀さんが、隣で私の代わりのようにむせていた。
周りで勝手に盛り上がる友達に手を振って意義を唱える。
「違うよ。たまたま駐輪場で会って、喋ってただけだって」
「えー。それにしてはめっちゃ仲良さそうだったじゃーん」
『じゃーん』じゃないよ。思わずそんな気持ちを込めて彼女を見てしまった。彼女は邪気のないような顔でずっとにこにこと笑っている。私の周りの人間は、面白そうににやにやと笑っている。
彼女の言っていることは、たぶん先週のことだ。メールで連絡が来たすぐ後に駐輪場で永井さんと会って、二人して笑っていたのだ。
にやにやと笑う人間の顔ぶれを見ると、その中に洋くんの顔もあった。洋くんは『演劇学の先生』が永井さんとまでは知らないけど、私のメールしている学校の先生がその『演劇学の先生』であることは何となく感づいたのだろう。横を見れば、古賀さんが我関せずといった顔でビールをちびちびと飲んでいた。
「ほんとに何でもないって。この間たまたま外で会って、そのこと話してただけだから」
「外で会ったのか?!」
周りの人間が更にヒートアップする。
ああ、もう。余計なこと言わなきゃよかった。バイトの仲間がここまで私のこういう話に突っ込んでくるのは、私と彼氏との現在のごたごたを知っているからだ。
永井さんと外で会ったこと――舞台のときに会ったことは古賀さんにも言っていなくて、古賀さんもみんなと同じように隣で『そうなの?』という顔をしていた。
「ほんとに何にもないですー。みんなが考えるようなロマンチックなことは何にもありません。残念でしたー」
そうやって両手を交差してこの話を終わらせる。周りにいた全員が「えー」と不満の声を漏らした。そんな不満の声は無視して、酎ハイを一口飲む。
男の方は何も言う気のない私を見てこの話に興味を無くしたけど、女の先生たちはそうじゃなかった。私と同学年の先生二人と一つ下の先生一人が、私と永井さんを見たと言った先生に話を聞きに行っている。というか、その女の先生が私の目の前だから、自然と他の先生も私と彼女の周りに集まってきた。
「その先生ってどんな人?」
「えー。何か普段は普通な感じだけど、笑った顔がかわいいかもー」
その言葉で周りにいた女の先生たちが「きゃあ」と声をあげた。言った本人が「ねー」と私に同意を求めてくる。私はそれに曖昧に首を傾げて答えた。
「それでー。授業で演劇のDVD見るんだけど、その時にあの教授が座る端っこの教壇で頬杖しながら見てるのがかっこいいの」
「えー!」
今度は言った本人も周りの女の先生と同じに興奮している。私を除く女の先生たちだけが、高校生のような雰囲気になっている。
私の方は、そこまでよく見てる彼女の方にびっくりだ。私はもう輪には入らずにただ黙々と酎ハイを飲む。
「あ! でもね、先生って結婚してるんだよー。薬指に指輪してたもん」
「えー! じゃあ、不倫?」
女の先生の悲鳴と共に、私は思いっきりむせてしまった。隣を見れば、古賀さんも同じようにむせている。そういえば、古賀さんに永井さんが結婚してるってこと、言ってなかったな。
「宮瀬先生、不倫してるんですか?」
「してないから!」
一つ下の先生が本気で心配したように聞いてくる。私はそれに手をかざして否定した。だいたい、何にもないって言ってるのに、どうして付き合ってることになる。
私が否定すると、みんな「なんだー」と言って残念がった。そして、話は永井さんのことから付き合うなら年上がいいか年下がいいか。はたまた既婚者の人はやっぱり何割か増しでかっこよく見えるという話へと流れていった。
『不倫』と言われて変に緊張してしまった私は、落ち着くために今度は黙々と料理を食べ始めた。むせていたのが落ち着いた古賀さんは「ちょっとトイレ」と言って、席を立った。
少しして私もトイレがしたくなって立ちあがってトイレへと向かう。
座敷の席を出て、いくつかのテーブル席の間を歩いていくと、入口付近にトイレのマークがあるのが見えた。せわしなく動いている店員を避けながらそこへと向かう。少し頭の中が回ってる気がするから、これは飲み会が終わる頃にはだいぶ酔ってるかもしれない。そんなこと考えながらホールを抜けて、あとは短い廊下を進むだけだというところで、向かいから歩いてくる人と思いっきり肩がぶつかってしまった。
「すみません」
「あ、すみません」
ぶつかった人から一歩下がって謝る。向こうからも謝罪の言葉が聞こえて顔を上げると、私は驚きで目を点にしてしまった。私の目の前に立つ人も同じように驚いている。