4
***
あれから話題もつきることなく、気がつけば、彼女の終電が迫る時間となっていた。
「じゃあ、私、帰ります。今、いくらくらいですか?」
彼女はそう言って、テーブルに引っかけてある伝票を指差した。
「いいよ、別に。ほとんど俺と村瀬が飲んでるんだから」
彼女の手を引っ込めてそう言うが、彼女は「そういうわけにはいかない」と首を横に振った。
「それでも、料理は食べたんだから払うよ」
「じゃあ、二千円でいいよ」
「じゃあってなに」
「料理だけだったらそんなもんだよ。君はほとんど飲んでないんだから」
そう言って彼女の言葉を封じる。適当な料金でも言っとかないと、彼女は料金をしっかりと三等分しそうだ。別に彼女はそこまで飲んだわけじゃないし、だいたい大人二人がいるのに学生にしっかり払わすのも気持ちが良いものではない。ましてや、俺は大学教授をしてるし、村瀬は俳優だ。お金がないわけではないのだ。
彼女が準備したのを見て、俺もコートを羽織る。彼女も村瀬も『なに?』という顔をした。
「駅まで送ってくるよ。家まで送らないんだから、せめてそれくらいはさせて」
そう言えば、彼女は渋々だが頷いてくれた。村瀬に鞄を頼んで、俺は一旦彼女と店の外に出る。
店の外は、駅前ということもあってか、夜遅いというのにまだだいぶ人が多かった。みんな飲んだ後なのか、これからまだ行くのか、気分の高揚している人が多い気がする。
「別に送らなくてもいいのに」
マフラーを直しながら、彼女が言った。
「駅前なんて危ないんだから、守られるところは守られときな」
そう言って、彼女の腕を引く。彼女の斜め前を歩いていた酔っ払いの中年の男が、ふらついて先ほどの彼女の場所に思いっきりよろけてきた。一緒に歩いていた中年の連中は、それを見ておかしそうに笑っている。
「なるほど」
後ろで起きた出来事を見ながら、彼女が納得したように頷いた。彼女の身体は引っ張られた勢いで俺の胸に預ける形になっていた。
俺が腕を放しても、彼女は俺の近くから離れない。彼女の視線の先には、酔っぱらって大声を出しているどこかの大学のサークル団体がいた。とりあえず、あれが俺の大学でないことを祈る。
「教務課の人とは、もう何もないの?」
俺がそう聞くと、彼女は俺に目を戻して「ん?」と聞き返した。そして、俺の言うことが分かったのか、「ああ」と数回頷く。
「うん。特に何もないよ。今週にまた教務課行ったら、課長みたいな人に謝られた」
「そっか。良かったね、でいいのかな?」
「うん」
彼女はそう言って、少しすっきりしたような顔つきになった。それから、自然と俺との距離をあけていく。
「あれからさ、友達にも永井さんに話したのと同じこと話したんだ。留学スペースのこととか、その前のこととか。そしたら、私の好きにしたらいいよって言ってくれた。こっちで何をするかも、どんな風に過ごすかも、自分の好きにしたらいいって」
「そうなんだ」
彼女はそのことを話しながら、自然な笑みを顔に浮かべている。きっと、その友達っていうのは、この間言っていた相談相手のことなんだろう。たぶん、今のところ、彼女が一番に信頼している人。そして、彼女に一番近い人間。
「良い人だね、その人」
「うん。あれで彼女がいないんだから、不思議なくらいだよ」
「……彼女?」
その言葉に思わず彼女を見下ろす。
「うん。すごい優しいのにさ、今は彼女いないんだよ」
「へえ」
彼女は俺の視線に気付くことなく話を続ける。
俺は相槌を打ちながら、その相談相手のことを考えた。てっきり、相談相手というのは女の子だと思っていた。だから、彼女が一番に信頼しているのも頷けるし、その相談相手と張り合っている自分が馬鹿みたいに思えるときもあった。けれど、それが男となると自分の考えを裏返さなければならないような気がしてきた。
「永井さん?」
「ん?」
彼女の声ではっとなる。視線は下を向いていたけど、どうやらぼーっとしていたみたいだ。彼女が怪訝な表情でこちらを見上げてきている。見れば、もう駅の正面ホームに来ていた。
「ああ。気をつけてね」
「うん」
そう言って、彼女は人ごみの中に歩いていこうとする。彼女が完全に駅の中に入ってしまう前に声を掛けて呼び止めた。彼女が振りかえる。
「何かあったら、また言うんだよ」
そう言うと、彼女は少し呆れたように笑って、数回頷いた。
「じゃあ、家に着いたら連絡して」
「そんな心配しなくていいって」
「はいはい。文句言わないで、連絡するんだよ」
そうやって言えば、彼女はしょうがないというように笑って俺の言葉を了承した。
手を振って駅の中に入っていく彼女を見送って、俺は駅に背を向けて先ほどの店に引き返した。
「お前と彼女って、どういう関係なの?」
店に戻ってきた俺に、村瀬はそう尋ねた。
俺はコートを脱ぎながら、ちょうど来ていた店員にビールの追加を頼んで向かいの席に座る。
「別に。友達だよ」
店員がすだれを下げるのを横目に、そう答えた。それを聞いた村瀬は、不満げな顔をする。
「彼女とは何もないよ。先週たまたま相談にのって、仲良くなったんだ」
「ただの、週一で通う大学の学生とか?」
「ああ」
村瀬の質問に嘘偽りなく答えていく。帰ってから、村瀬が彼女とのことを聞いてくることは想像していた。だから、特に慌てることもない。
「お前、気付いてないのかもしれないけど、彼女のこと相当気に掛けてるぞ」
「ああ、知ってる」
そうやって答えれば、村瀬は呆然としたように口を開けて俺を見てきた。
「ちょ、え? お前、」
「何想像してるんだよ」
馬鹿みたいに混乱している村瀬を、眉をひそめて見る。
店員がビールと村瀬が注文したらしい料理を運んできた。俺はジョッキを手にとり、ビールを飲む。
「最初に言ったように、彼女とは何もない。今日も、たまたま席が隣だっただけだ。だいたい、チケットはお前が送ってきたんだろ」
「……でも、気に掛けてるんだろ?」
その質問には、肩をすくめて答えの代わりにした。村瀬はそれを見て更に混乱したようだ。
「何なんだ。お前、どうしたいんだよ」
「さあ。彼女と知り合ってまだ一週間しか経ってないんだ。どうしたいとかもまだ分からないよ」
「……そもそも、ほんとに一週間前に知り合ったのか?」
村瀬の言葉に、少し驚く。村瀬はそんな俺の表情を見て、険しい顔つきになった。
「知り合ったのは本当に一週間前だ。ただ、俺はその前から彼女のこと知ってたけど」
「知ってたっていうのは、顔を覚えてる程度のことか?」
「いや、顔も名前も知ってた。授業の度に彼女のこと見てたから、何となくどんな子かも知ってた」
「おまえ……」
正直に今までのことを告げたことで、村瀬のショックの度合いが大きくなったようだ。
「何やってんの」
「ほんとにな」
なぜか村瀬が情けない声を出して、視線を俺の左手に向けた。俺はそれに気付いて左手をひらひらと振ってみせる。
「万里子は何も知らないよ。それに、彼女もこのことは知ってる」
「もういい。もう何も言うな。もう聞きたくない。言うな」
子供のように両耳を両手でふさぐ村瀬。俺はそれに呆れて、ビールをまた一口飲んだ。村瀬の防御が解かれたところで、俺はまた口を開いた。
「今のところは何かしでかすつもりもないから安心しろ」
「はいはい」
村瀬もそう言って、ビールに口をつけた。
約一時間後、彼女から家に着いたとのメールが入った。
彼女は俺との距離を測りかねているものの、俺を信用してきてはいるようだ。
何かをしでかすつもりはない。俺の左手にあるもののおかげで、彼女は俺との距離を測りかねている。けれど、この左手にあるものが、彼女のメーターを計測不能にすることも可能なんじゃないかと思う。
『お帰り。また今度食事できたらいいね』
そうメールを打って、また村瀬との会話に戻った。
視界の端に、シルバーの指輪を捉えながら。