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これは恋なんだけど  作者: 空谷陸夢
Story 6. あかし故に痛い
15/111



『土曜日に村瀬健吾の舞台観に行くんだー』



彼女からそんなメールが届いたのは、木曜日だった。手帳を確認するまでもなく、土曜には俺もまったく同じ予定が入っている。その旨を伝えて座席を聞けば『昼公演のXの14』だと返ってきた。村瀬から送られてきたチケットに書かれている俺の座席番号は、同じく昼公演の『Xの15』。



『残念だね。席は離れてた』

『そうなんだ。残念だねー』



その日はそれでメールを終わらせて、携帯を閉じた。




***




『終わったら楽屋!』



開演30分前に送られてきた村瀬からのメールを読んで、携帯をさっさと仕舞う。

俺の座席は、舞台から遠からず近からずの位置で、なんだかんだ言っても村瀬は俺の好みを分かってくれているのだと感じた。右隣には若い女の人が二人組で来ていて、さっきから村瀬のかっこよさを飽きることなく語り合っている。左の席は、未だ空席だった。

劇場は満員御礼だ。元からの舞台好きの人もいれば、最近になってテレビに出始めた村瀬目的の女性客も多くいることだろう。

俺は脚を組んで、肘かけに肘を置き、まだ暗幕が下りている舞台の方を見た。その時になって、左側から「すみません」という声が聞こえてきて、その声の主は既に座っている観客の前を通って自分の席までやってくる。そして、席に着くと小さな声で「間に合った」と息をついていた。俺は気付かれないように顔を右側に寄せ、左からは見えないようにする。

俺の左に座った彼女――宮瀬春希は、鞄からメガネケースを取り出して、眼鏡を掛けている。そういえば、普段は掛けていないけど、授業中なんかは掛けてたな。そう思いながら、彼女がケースを鞄に戻し、脱いだコートを膝にかけて、鞄を床に置くのを盗み見る。やっと一息ついて椅子に深く腰掛けたところで、俺はそっと彼女の方に身体を寄せた。



「この距離だともう見えないの?」



横からいきなり尋ねられた声に、彼女はぎょっとしたように俺の方を向いた。俺と目が合うと、更にぎょっとなったように眼鏡の向こうの目を丸くなる。俺はそれを見て、思わず笑ってしまった。



「え、え? な、んで?」



事態を把握しきれていない彼女は、言葉も繋げられないくらい混乱している。



「俺も行くって言ったでしょ?」

「え、え? でも、」



彼女は未だに混乱したままだ。彼女の混乱っぷりに笑いながら、床に置いてある鞄から財布を取り出してチケットを見せる。



「ほら、Xの15。驚かそうと思って嘘ついたんだよ」



そうやって笑いながらチケットを彼女の手元に落とす。彼女は混乱したまま自分のコートに落ちたチケットを手にとり、その表面に視線を落とした。

少しして、彼女がはあっと息をついてチケットを俺に返してきた。



「本気でびびるからやめて」

「あそこまで驚くなんて思ってなくて」



混乱が落ち着くと、今度は呆れたような目で俺を見てくる。俺はまだ笑みを浮かべたまま、肩をすくめてみせた。



「君も村瀬健吾のファンなの?」



チケットを受け取って体勢を直しながら、聞いてみる。横の若い子たちは未だに村瀬の話で盛り上がっていた。

彼女は俺と同じように椅子に深く座りなおして、「うーん」と考える素振りを見せた。



「まあ、めっちゃファンっていうほどでもないけど。好きなほうかな」

「ふーん」

「村瀬健吾が出てるっていうのもあったし、授業でもやったやつだから、一回舞台見ときたかったんだよね」



その言葉に、俺は視線を彼女に向ける。彼女も気付いたのか、俺の方を見上げた。



「ちゃんと授業聞いてるでしょ?」



にやっと、したり顔でこちらを見て言う彼女。



「そりゃあねえ。二時間分の授業使ったんだから、覚えといてもらわないと」



そう言って、俺はまた顔を前に向けた。

彼女がこの戯曲を覚えてることに大して驚きはなかった。授業でこの戯曲を取り上げた時に、彼女が一番に非の打ちどころのないようなミニレポートを提出したんだから。彼女が授業をしっかりと聞いていることは明らかだ。それよりも感心が向いたのは、彼女がこの戯曲を生で観たいと思ったことだった。

俺のやっていることは、正直、一般の人からは理解されにくい学問だ。大してためになるわけでもなく、これを学んだとしても、研究者以外には道はない。『授業』というくくりでは、それなりに人気のある分野だとは思う。それでも、それを専門としようとする学生は少ないだろうし、授業を受けても実際に生の舞台を見に来る学生なんて、ほとんどいないだろう。だから、俺の授業が彼女に何らかの影響を与えたらしいということが、何だか嬉しかった。

彼女の方を横目で見れば、少し嬉しそうな顔をして幕が上がるのを待っている彼女が目に入る。少し考えたあと、俺は彼女の方に身体を寄せて声を掛けた。



「村瀬に会いたいなら、後で会わせてあげようか?」

「……え?」



彼女が顔をぱっとこちらに向けてきた。が、俺の顔を見て、むっとした顔になる。



「もう冗談はいいって」



呆れたように言って、俺の席の側の肘かけに肘を乗せる。先に置いていた俺の腕と彼女の腕が触れた。彼女は別段それを気にするでもなく、自分の肘を少し前に動かして空いたスペースに落ち着く。



「劇団関係者に知り合いがいるから、会おうと思えば会えるよ」

「……ほんとに?」



さすがに周りの人間に聞かれるのはまずいので、彼女の方に身体を寄せたまま小さな声で告げる。すると彼女は真意を確かめるように疑わしげな視線を送ってきた。俺はそれに小さく数回頷き、「どうする?」と尋ねる。



「……行く」



自分の願望には逆らえないのか、彼女は目線を俺から外して小さい声で言った。



「嘘だったら、何かおごってよね」



じろっと横目で俺を見てきて、釘をさすようにして彼女は付け足した。



「嘘だったらね。ほら、始まるよ」



そう言ってからすぐに開幕を告げるブザーが劇場内に響いた。ライトが段々と落ちていく中で目だけを横に向けると、彼女が前を向きながらも不満そうに唇を少し突き出しているのが見えた。その様子が大学生らしくなくて、心の中で笑ってしまう。きっと、あれは俺の言葉を疑ってるからだろう。

彼女からしたら、村瀬健吾という人間は明らかに芸能人で、そんなに簡単に会える人間でもないのかもしれない。けれど、俺の中ではあいつはいつまでも大学時代の友人で、ただの演劇馬鹿にしか思えない。二人とも学生の時から演劇好きで、卒業後はあいつは表現する側に、俺は研究する側に進んだにすぎない。最近になってテレビにも出るようになったが、この関係はまったく変わらなかった。


暗幕がすべて上がり切り、舞台が始まった。今日公演する戯曲は、『オイディプス王』だ。

ライトに照らされた舞台には宮殿のセットが組まれており、今はそこに小さな子供が老神官と共に小枝を手に宮殿の前にひざまずいている。そこに、中央奥の宮殿の扉から村瀬扮するオイディプスが登場し、中央に組まれている短い階段から下りてくる。これが、オイディプス王の第一幕の幕開けだ。

横の若い女の子たちが、村瀬の登場に小さな声で「きゃあ」と興奮して手を握り合っていた。



「これはどうした、子供たちよ」



村瀬の声が劇場内に響く。舞台用に訓練された、重く、しっかりと響く声だ。

村瀬の声を聞いて、横でまた女の子たちが興奮する。うるさいな。



「いったいこれは何事なのか?」



村瀬のセリフが、今現在の俺の気持ちと重なる。

よくよく見れば、斜め前に座っている中年の女の人も、熱い視線で村瀬を見ていた。

いつの間にあいつはファン層を広げたんだ。村瀬とは、年に何回か会うし、飲みにも行く。ただ、あいつがこっちで公演することはあまりなく、こうやってあいつの舞台を生で観るのはかなり久しぶりだった。テレビに出たのは知ってたが、正直ここまで人気があるなんて知らなかった。だって、ついこの間公共放送の企画連続ドラマに準主演で出たくらいじゃないか。それまでは、連続ドラマといっても、ゲスト出演くらいだ。



「この地の支配者オイディプス殿」



老神官が村瀬のセリフを引き継ぐ。

舞台に集中しようと、体勢を整える。その拍子に、隣に座る彼女の髪に手が触れた。彼女も気付いたようで、ふと俺の方を見上げたが、すぐに何もなかったかのように舞台に視線を戻した。見れば、彼女は肘を肘かけに置いて顎を手の上に置いている。俺もさっきまで同じような体勢になっていたので、自然と二人の距離が近くなっていた。別にこれくらいは気にしないし、彼女も気にしていないようなので、体勢を整えてからも同じ姿勢でいることにした。

それにしても、右隣の女の子たちの興奮具合がうっとうしい。ちらっと彼女の方を見ると、彼女は女の子たちとは正反対にほとんど無表情といっていいくらいの表情で舞台を見ていた。これは、授業中に気付いたことだけど、彼女がこういう顔をしてるときは完璧に集中しているときだ。

俺も彼女に倣って、女の子たちのことは気にせず、舞台に集中することにした。






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