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「ありがとーございました」
大学の最寄りの商業施設に着いてから、彼女が車を降りる前にそう言った。
「どういたしまして」
「今日は、愚痴ばっかりでごめんなさい」
そう言って、本当に申し訳なさそうな顔をする彼女。そんな顔しなくても、面倒だなんてまったく思ってないのに。
「別にいいよ。楽しかったし、言って楽になるんだったらいつでも聞くよ」
そう言えば、彼女はほっとしたような笑みを見せ、車を降りた。助手席側の窓を開けると、彼女が手を振った。
「じゃあ、来週に」
「あー、来週は休講だよ。ちょっと学会が入ったから」
「あ、そうなんだ」
今日教務課に申請した情報を伝えると、彼女は少し残念そうな顔をした。
「金曜日は永井さんの授業が楽しみなのに、残念」
「それはどーも」
そんなにストレートに『残念』と言われるとは思っていなくて、思わず口調が憮然としてしまう。それを聞いても、彼女はははっと楽しそうに笑う。「じゃあ、また再来週」と言い、また手を振って自分の原付が置いてある場所に向かいかけたところで、「あっ」と言って立ち止った。何かと思い、彼女を見やる。
「永井さんさ。何で私のこと覚えてたの?」
窓からこちらを覗き込みながら、さも不思議そうにして聞いてくる。
「ああ。君のリュックは目立つからね」
そう言って彼女がしょっている赤いリュックサックを指差せば、彼女は「ふーん」と声をあげた。なんだか、あんまり納得のいっていない声音だ。彼女には、上手な嘘の付き方が通用しないらしい。なら、少しだけ本当のことを教えよう。
「他にも一応あるけど、それはまた今度っていうことで」
「なにそれ」
「一度に教えちゃったら、面白くないでしょ?」
そう言うと、彼女は少し不満そうな顔をしたが、仕方ないと諦めたのか、ふぅっと息をついた。
「ま、いっか。それじゃあ、再来週に」
そう言って、彼女は今度こそ、原付の止まっている場所へと歩いていった。
しばらくその場で止まってままでいて、彼女が原付に乗って発進したのを見届けてから、携帯を取り出す。履歴から先ほどの教授の番号を選び、掛けなおすと、2,3コールの後に教授が出た。
「三神教授ですか? 永井です。先ほどは失礼しました」
『ああ、構わんよ。来週の発表用の資料にどうかと思って、文献をいくつか君のパソコンに送っておいたことを知らせておこうと思ってね』
「ああ、そうでしたか。ありがとうございます」
右手に携帯を持ちながら、空いた手でとんとんとハンドルを指でたたく。
資料が送られてるなら、少しは楽になりそうだ。そう思っていると、教授から『まだ家じゃないのか?』と尋ねられた。
「ええ。少し用事があったので」
彼女が言った、上手な嘘の付き方の一つを実行する。本当の事の中に、少しの嘘を紛れ込ます。用事が『できた』のは事実。初めから『あった』のではないけど。
『そうか。家にも連絡したら、君はまだ帰っていないと奥さんが言っていたからね』
「そう、でしたか。お手数をお掛けしました」
『いやいや。それじゃあ、気をつけて帰るんだよ』
「はい」
そう言って、携帯を切る。と同時に、溜め息が漏れてしまった。家に連絡したのか。
教授は、基本的にはとても良い人だ。さっきみたく、俺の発表用にと資料を探して手助けしてくれたりする。自分の研究にも、下の准教授や助教を参加させてくれる。その反対に、准教授らが自分の研究に勤しんでいるときは、無理に引きこんだりはしない。本当に、とても良い人なのだ。良すぎるくらいに。
教授とは、家族ぐるみとまではいかないが、それなりに仲良くさせてもらっている。だから、さっきの家への電話も、俺のことを思ってしてくれたのは容易に想像がつく。ただ、それが常に俺にプラスに働くとは限らない。今回は、確実にマイナスに働くだろう。帰ればきっと、妻からの質問にあうに決まっている。
俺は溜め息をつきつつ、車を発進させた。
***
家に着いたのは、七時半近くだった。運悪く、帰宅ラッシュにはまってしまって、いつもよりも時間が掛かってしまった。
マンションの地下に車を止めて、エレベーターで五階まで向かう。廊下の中間に位置する自宅のドアを開けると、中から笑い声が聞こえた。
「ただいま」
言いながら車や家の鍵がいっしょくたになっているキーを玄関の靴箱の上に置く。靴を脱いでいると、リビングの方からぱたぱたとスリッパの音が聞こえてきた。少しして、妻――万里子が姿を現した。
「お帰りなさい、マサくん。さっき、三神教授から電話があったけど、今日何かあったの?」
普段の金曜日なら七時には家に帰っているのが、今日は遅れるだけでなく、教授から携帯に繋がらないと電話をもらえば不思議に思うものなのだろうか。そんなことを思いながら、靴を脱いで、万里子に笑みを向ける。
「ああ。帰り際に学生たちに捕まってさ。ずっと話してたんだよ。連絡しなくてごめんな」
「ううん。何かあったのかと思って心配しちゃった」
そう言って笑うと、万里子は「ご飯の用意出来てるよ」と言って、リビングの方へと向かっていった。
知らず知らずのうちに、溜め息が出る。彼女の言う上手な嘘の付き方の効果は本当のようだ。
スリッパに足を通し、すぐ近くにある書斎のドアを開け、鞄を放り込む。そのまま、廊下を進んでいき、リビングのドアを開いた。
夕飯も食べ終わり、俺は風呂へと、万里子は食器の洗いものにキッチンへと向かった。その途中で、あることを思い出し、万里子を振り返る。
「来週の土曜は、夕飯いらないよ」
「どうして?」
「村瀬がこっちで公演するから、一緒に食べようって言われてるんだ」
「そっか。分かったよ」
万里子も知っている友人の名前を出せば、万里子は安心したような笑みを見せ、キッチンへと戻っていった。俺は気付かれないように、また小さく溜め息をついてバスルームに向かった。
湯船につかりながら、今日のことを思い返す。あんなこと言われたからか、今日は一段と万里子の質問が煩わしく思える。
三つ年下の万里子とは、俺が28歳の時に結婚した。もう、三年目だ。会ったのは、大学時にお世話になった教授の勧めで出席した見合いだった。良家の娘さんだと言われ、仕方なく出席したも同然だった。万里子は、同年代の人に比べたら、可愛い部類に入るのだと思う。俺だって、それなりに付き合いっていうものがあったのだから、それくらいの判断はつく。実際、初めて見た時に可愛いなと思ったことは事実だ。
その見合いから、流れで付き合いが始まり、三年付き合って結婚した。
別に万里子が嫌いなわけじゃない。家事もしっかりとこなしてくれている。もちろん、本人が働きたいと言えば、それだって構わない。
ただ、何か。何かが、足りないという実感はある。それが何なのか、まったく見当もついていないんだけど。
そんな事を湯船の中で、ぼけっと考えていると、バスルームのドアがこんこんと叩かれた。万里子だ。
「なに?」
「あのさ……。お願い、してもいい?」
「んー?」
「今日……、だめ?」
思わず溜め息をつきそうになるのを、ぐっとこらえる。
「今日は疲れてるんだ。ごめんな。来週に学会もあるから、ちょっと根詰めないとだめなんだ」
「またー?」
「しょうがないだろ」
「……マサくん、万里との子供欲しくないの?」
また、そのことか。そう思うけど、口には出さないでおく。
結婚して二年目になると、万里子は子供を欲しがった。俺も、特に子供嫌いというわけでもないので、出来たらいいなくらいには思っていた。けれど、万里子は自然に任せるということに我慢が出来ないらしく、こうしてよくせっつかれている。結婚も三年目になると、周りにも子持ちが増えていき、その中での孤独感もあるのだろうとは思うけど、無理強いはしてほしくない。
「欲しい欲しくないで出来る問題じゃないだろ」
「でも、しようともしないじゃない」
それを聞いて、ばしゃっとお湯を顔にかける。ドアの向こうで、万里子が固まったのが何となく分かった。けど、こうでもしないと大げさに溜め息をついてしまいそうだったのだ。
「万里、ほんとに疲れてるんだ。ごめんな」
「……分かった」
万里子はそれだけ言うと、ぱたぱたとリビングの方へと戻っていった。
俺は、溜めていたものを吐き出すように大きく息をついた。
風呂を上がってからは、書斎にこもり、来週の資料作りに没頭した。教授から送られてきた文献はどれも参考になるものばかりで、自分が思っていたものよりも良いものができそうだ。
だいぶ集中した後に、一息つこうと思い切り背を伸ばした。ぎっと、椅子の背もたれが音をたてる。視線をデスクの下に向けると、鞄が目に入って、おもむろに携帯を取り出した。着信も受信もなし。彼女からの連絡は入っていなかった。まあ、昼間にあれだけ話したんだから、今日中に来るとは思っていないけど。でも、何となく、明日になっても彼女からの連絡はないんじゃないかと思えた。明日だけじゃなく、それ以降も。きっと、彼女は自分から連絡をしないたちだ。本当の本当に、ぎりぎりのところまでこないと、自分からは助けを求めないだろう。彼女の相談相手ほど信頼されていない俺には。
「マサくん?」
ドアの方から、遠慮がちな万里子の声が聞こえた。携帯を手にしたまま、万里子の方を見やる。
「私、先に寝るけど大丈夫?」
そう言われて、携帯の時間を見れば、12時近くになっていた。もう一度、万里子の方を見て、笑みを見せる。
「うん、いいよ。お休み」
「うん」
万里子はそう言っても、そこから動こうとはしなかった。視線だけで『どうした?』と尋ねる。
「……マサくん。怒ってない?」
先ほどの風呂場でのことを言っているんだろう。万里子は不安そうに俺を見ていた。
「怒ってないよ。本当に疲れてるだけだから」
安心させるように笑みを浮かべて言うと、万里子は安心したように「良かった」と言って寝室へと歩いていった。
万里子が出ていった後、俺は何回目かも分からない溜め息をついて、もう一度携帯を見下ろした。やっぱり、連絡はない。
俺は携帯をぽいっと鞄に放り込んで、またパソコンに向き合った。
翌朝、歯を磨いて、朝食を食べて、昨日のように書斎にこもって初めにやったことは、彼女に『おはよう』とメールを打ったことだった。
彼女には、上手な嘘の付き方が通用しない。なら、正攻法にいくしかない。
彼女に対して特別な感情を抱いていたわけではないけど、昨日繋がった縁をここで切る気にはなれなかった。
昼頃に、万里子が買い物に行こうと書斎を開けたとき、ちょうどジーンズのポケットに入れておいた携帯のバイブが鳴った。それを感じて、思わず口元がほころんでしまう。そのまま立ち上がって、万里子に近づく。
「ああ、行こうか」
どうやら、繋がった縁は切れることなく、続いてるようだ。