3
あれから彼女の『溜まりもの』について聞きだし、彼女の鬱憤も、全部聞いた。嬉しそうに留学生活について電話してくる彼氏や、バイト仲間と遊ぶのを理由に電話を断れば不機嫌になるという彼氏。それはもうたくさんのことを。やっぱり、さっき気付いたことは間違いないようで、彼女は彼氏と連絡を取り合いたいとは思っていないようだった。そして、この電話の件にはすべて相談相手が絡んでいて、それを言うのは悪い気がしてあまり言えてないらしいということも、見当がついた。
その様々な鬱憤を聞いてもらって、彼女の方もだいぶすっきりしたのか、今では『溜まりもの』についてよりも普段の生活について話している。主にバイト関係のことが多いのだけど、その中でも『洋くん』という彼女の友達の話が面白い。
「あー、笑った。けど、よくそんなにタイミングよくいったねえ」
「ねー。ほんとにあれは洋くんから聞いて爆笑した」
そう言いながら、彼女はその時のことを思い出しているかのようにおかしそうに笑う。
彼女が爆笑したという話は、洋くんが彼の地元の友達と飲み会を催したときのことだ。そこには彼の高校時代の友人がいて、その中には洋くんの元彼女もいたという。付き合っていた時から元彼女の束縛は激しかったらしいが、別れて数年経つ今もそれは変わっていなかった。
彼女は洋くんの飲み会当日、それもちょうど飲み会が始まる時間に、『気を付けて飲み会行ってきてね』という洋くんの彼女を装ったメールをしたらしい。それも文末にハートの絵文字付きで。それが今まさに乾杯が始まるという時に洋くんの携帯に届き、それを束縛の激しい元彼女が携帯を見たらしく、『ふーん。彼女いるんだあ』という元彼女の言葉と共に、彼の周りの空気は一気に氷点下まで下がったのだそうだ。
その時の『洋くん』とやらの冷や汗ものの場面を思い浮かべただけで笑いが込み上げてくる。俺は口を手で覆って、彼女につられて笑う。
「あれから洋くん、元カノからよくメール来るらしいよ」
「それはまた災難な」
洋くんの災難について彼女は面白そうにへらへらと笑う。自分がその原因となっていることも分かっているようで、それがより一層面白いみたいだ。
そんな彼女を見ているだけで、こっちも笑みが漏れてくる。笑って乾いた喉を潤そうと、カップに手を伸ばすと、中にあったはずの紅茶がなくなっていた。それを見て、今度は窓の外に目を向ける。なんだ、外もだいぶ暗くなってきてるな。時計に目を移せば、針が五時を示している。ここに来てから二時間は経ってるみたいだ。そりゃあ、紅茶もなくなるよな。店内を見渡せば、お客もまばらだ。
彼女もそれに気付いたのか、時計に目をやっている。
「もう五時かあ。外もけっこう暗くなってる」
そう言って、右肘をテーブルにつき、顎を手に乗せて外を見る。
外には帰宅へと向かっている車や人がそこそこいた。歩いている人はみんな寒そうに背中を丸めている。
「どうする? どこかでご飯でも食べていく?」
「ん?」
紅茶の代わりに水の入ったグラスを手にとって、彼女に聞いてみる。今から帰っても、十分夕飯には間に合うけど、なんとなく誘ってみたくなった。
彼女は俺の言葉を聞いて、呆れたように口の端を上げて笑った。
「ご飯っていってもねえ」
そう言いながら、彼女の視線がテーブルに置かれている俺の左手に注がれた。彼女の視線の先には、間違いなく俺の左薬指にはめられたシルバーの指輪がある。
「ああ。連絡さえすれば大丈夫だよ」
俺はそう言って、左手をテーブルから離し、彼女と同じように肘をついて顎を手に乗せた。二人して鏡に映ったように左右反対の体勢になったことで、二人の距離が俄然近くなる。
彼女はそんな俺を見て、呆れたというように笑って息をついた。そして、肘をつくのを止めて、最初の時のように足をぶらんとさせて、その上に手を放りだすようにして置いた。
「一般的なお嫁さんや彼女さんは、自分のパートナーが他の女の人と出掛けるのを好まないんだよ」
「君は別に気にしないでしょ?」
「自分が世間一般の定義から少しずれてることくらい認識してますー」
彼女のその言い方が子供じみて見えて、俺は思わず笑ってしまう。
「なに」
「別に。何でもないよ」
いきなり笑われたことに不快感を隠さず、眉をひそめて彼女は聞いてくる。俺は右手を横に振って、何でもないと示す。顔はまだ笑ったままだけど。彼女は何なんだという顔をしながら、水を一口飲んだ。
「だいたいただご飯食べに行くだけなんだから、何ともないよ。普段だって、外でご飯食べてくることもあるんだし」
笑いを引っ込めてそう言えば、彼女は白い目で俺を見る。そうして、また溜め息をついた。
「そんなもん分かってるよ。そうじゃなくて、永井さん、ご飯食べに行くこと何て伝えるつもり?」
ここで数時間話すうちに、彼女の俺の呼び方が『永井先生』から『永井さん』へと変わっていった。たぶん、普段友達同士で俺のことや授業のことを話すときにはそう呼んでるんだろう。
彼女の問いに俺はしばし考えをめぐらす。そうして思い浮かんだ答えを口にした。
「今日は学生とご飯食べにいくから、夕飯はいらないよ」
答えを聞くと、彼女は『そらみろ』という顔をした。
俺は訳が分からず、眉を少し寄せて答えを求める。
「一番上手な嘘は、必要最低限の情報しか言わないことと、本当のことの中に少し嘘を紛れ込ますことなんだよ」
知ってた?というように彼女は首を少し傾げて俺を見てくる。
今度は俺が呆れたように笑う。
「そんな大げさな」
「だって、その言い方だったら、永井さんが悪者にならないじゃん」
その言葉に俺は首をひねる。言ってる意味がよく分からない。
そんな俺を見て、彼女はしたり顔で笑った。
「『学生と』って言われたら確かめる方法もないし、もし相手が私だってばれても『ただの学生だよ。何を心配してるの』って言えるでしょ」
「ああ」
思わずなるほど、と言いたくなった。別に意図したことではないけど、確かにそうかもしれない。それでも、大学で教鞭をとってる人間としては、一学生にここまで言われて反論しないわけにはいかない。
「けどさ、本当のことは本当のことなんだから、それが一番クリアな伝え方だと思うけど」
彼女は水を飲みながら、視線だけは俺を見ていて、俺の言い分を聞いている。グラスをテーブルに置いて、彼女は肩をすくめた。
「まあ、それはそうだけど。でも、それだったら考える必要ないじゃん。伝えるだけであんだけ考えたってことは、永井さんもあんまり私のことストレートには言いたくなかったし、それを知られるのも嫌だったんでしょ。というか、詮索されたくなかったとか?」
彼女の答えを聞いて、思わず身体が固まってしまった。それを見ていた彼女がにんまりと笑う。俺は息をついて肘をテーブルから降ろし、そのまま今度は腕を椅子の背もたれに乗っけた。
まったく、してやられた気分だ。正直な話、後半は彼女の言う通りだ。自分を悪者扱いしないようにっていうのは意図してなかったが、相手が女一人だってことを知られないような言い方を考えたのは事実。それが学生だろうが同年代だろうが。
結婚した当初に、学会の帰りなんかに飲みに行くことを告げると、『どこで誰と、いつまで』というのを聞かれたことがあった。その時はまだ可愛げがあると思って答えていたけど、それが毎回になると、少し頭が痛くなってくる。それに、同席している女性に悪い。だから、いつからか、自分から相手が質問する余地のないような必要最低限のことだけを伝えるようになった。別に隠し事があるわけじゃないから、本当のことを言えばいいんだけど、それをすると少し面倒なことになると自分で分かっているからか、自然とそんな伝え方をするようになっていった。
彼女の方を見れば『どうだ』と言わんばかりの目線を俺に送ってきている。溜め息しか出てこない。
「永井さんも大変なんだねえ」
「……君ほどじゃないよ」
そう言っても、何の説得力もないのか、彼女はおかしそうに笑うだけだった。
ほんとに、溜め息しか出てこない。こんなこと、誰にも気付かれたことないのに。というか、今では自分でも意識しないでやってるから、改めて指摘されてびっくりしたって感じだ。
水の入ったグラスを口にしながら彼女の方を見ると、彼女はにやにやとした顔でこちらを見ている。彼女のことは笑うに任せておいて、俺はグラスをテーブルに置くと、横の椅子に置いている鞄から手帳を取り出して一番最後の白紙のページを破って、ペンを手にとった。
「何してんの?」
「んー?」
彼女が覗き込むようにして、俺の手元を見ているのが気配で分かる。書き終わって、メモを彼女に渡す。
「また何か話したくなったら、連絡してよ」
「……今の時代、赤外線っていうものがあるのに何でわざわざメモ?」
彼女が俺のアドレスと電話番号の書かれたメモを手にしながら呆れた笑みを浮かべて聞いてくる。
俺はそれに自分の携帯を見せて、答えを示した。
「ああ、なるほどね。じゃあ、私の方が最新だ」
俺の持っているものは、白い犬がCMキャラクターとして宣伝している会社のスマートフォンで、これには赤外線機能がついていない。これを見た彼女は、嬉しそうにして自分の携帯を携帯を取り出す。
「じゃーん」
それは個性的なファッション等で注目を集める海外女性シンガーをキャラクターとして起用している会社のスマートフォンだった。それには赤外線機能の他にも、様々な機能があり、その会社がこれを機に変革すると謳っているだけはあると思う。
彼女は携帯を取り出すと、さっそく俺が渡したメモを見ながら何かを操作しだした。そして、すぐに俺の携帯にメールを知らせるバイブが鳴った。メール画面を開けば、知らないアドレス。
「お、届いた」
彼女がその音を聞いて、嬉しそうに反応した。
メールは彼女からで、本文にはアドレスと電話番号、そして『宮瀬春希』と書いてあった。それをそのまま登録する。その時に、だいぶ前に教授から着信があったことを知らせる履歴に目がいったものの、後で掛けなおせばいいと思い無視する。
彼女はそれを見届けてから、満足そうに携帯とメモを鞄の中に仕舞い、今度は財布を取り出した。
「はい。これ、私の分ね」
女の子にしては珍しく、表面が黒色の財布から紅茶の代金を出し、俺の方に滑らせてくる。
別に紅茶くらいおごったって良かったけど、彼女がそうしたいなら、それで構わないと思って、素直に受け取る。
「ほんとに、何かあったら連絡するんだよ。血管切れられても困るから」
「だから大丈夫だって」
そんな風にふざけて念押しすれば、彼女はまたおかしそうに笑う。
彼女からお金を受け取ったのを合図に、二人ともコートやらを着て、席を立った。