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「正確には、その、『酔った勢いだった』って言って、『ごめん』って言って。それで、向井さんが泣きそうになって『大丈夫です』って言って出ていこうとして、咄嗟に、腕、掴んじゃって、それで……。き、キス、しちゃって……。すぐに離れたんですけど、それに『ごめん』って言ったら、泣いて、出ていかれ、ました……」
何だか高校生の恋愛相談に乗ってるような気分だ。心の中で溜め息をついて男を見ていると、男は泣きそうな声で「どうしたらいいんですか」と初めと同じことを口にした。
「どうしたらいいって、好きなら好きで、そう言えばいいじゃないですか」
呆れの気持ちが口調にも表れる。そこまでしといて『好きじゃない』という選択肢が出てくるのか。男は顔も泣きそうになって、首を横に振った。
「分から、ないんです。好きなのか、どうか……」
「分からないって」
「それに、僕、彼女がいるんです」
「……は?」
あまりに予想していなかった言葉で、思わず間の抜けた声が出た。男の方はこちらの驚きなんて気付いてない様子で、どんどんと話を続けていく。一度話したことで、よほど口が軽くなったんだろうか。
「でも、本当は、向井さんのことも気になってて。だから、告白も嬉しかったんですけど、でも、僕には彼女がいるから……」
「ちょ、ちょっと待ってください」
とめどなく自分の心情を話し続ける男に一旦ストップをかける。男は『なんで?』という顔で話を止めた。一度小さく息をはいて、頭の中を整理する。
「なんで、先に彼女がいること言わないんですか」
「知らなかったんですか?」
「なんで俺があなたの私生活まで知ってると思ったんですか」
呆けた顔でこちらを見てくる男に、今度は隠すことなく溜め息をついた。男が誰だか知っているだけで、この男に彼女がいるかどうかなんて知らないし、そもそもそんなことに興味はない。けれど、男の方は俺が知らなかったことに対して驚いているようで、目を点にしていた。
「僕、永井せんせいだから、話したのに」
「俺だからって、どういうことですか?」
こちらの意志は無視して男は勝手に落ち込んでいる。男の言葉の意味が分からず尋ねると、男はおずおずと「だって」と言葉を続けた。
「離婚、したんですよね?」
男の視線が今は包帯が巻かれている自分の左手にいっていることに気がついて、眉を寄せてしまった。確かに指輪はもうしていないが、普段あまり交流のないような人間にプライベートなことを聞かれると、少しだけ苛立ってしまう。それでなくとも、今日はなぜか万里子が大学に来て、三神教授の前で弁当なんかを渡されたりして腹が立っているのだ。
「まだ協議中ですよ。どこからそんなこと聞いたんですか」
「え、えっと、ゼミ生が言ってて。だいぶ前から永井せんせいが指輪してないねって。それで、もしかして他の人がいるのかなって」
声に少しの怒気が含まれているのを感じたのか、男はたどたどしくそう思った理由を話す。男の言葉を聞いて、またしても溜め息が漏れた。別に、学生が俺の指輪がないことをどう推測したって構わない。特に話す内容でもないし、好きに想像してればいい。だが、それを真っ向から信じるこの男はどうなんだ。推測は勝手にしてくれて構わないが、それをわざわざ本人に言う必要なんてないだろうに。しかも、それを理由に自分の手助けをしてくれなんて、いい年した男が言う言葉じゃないだろう。
「離婚するのは、俺と妻の価値観があまりにも違うからです」
「あ、はい。そうなんですか」
きっぱり言い切ってやると、男はそれ以上何も言えなくなったのか、ただ首を縦に振って頷いた。目の前の男にわざわざ彼女のことを話す必要もないし、話したくない。
「永井せんせいは、デートっていったら、どこに行きますか?」
「は?」
少しの沈黙のあと、いきなり何の脈絡もない質問されて、うっかり聞き返してしまった。何を意味の分からないことをと思っていると、目の前の男はいたって真剣な表情をしてこちらを見ていた。
「僕、向井さんに謝りたくて。何の気持ちもないまま、ああいうことしたんじゃないって、知ってほしいんです」
その気持ちを持つのは大いに結構だが、それとデートがどこでどう繋がるのかいまいちよく分からない。おおかた、出掛けでもして謝罪の気持ちも込めたいんだろうが。適当にやり過ごそうとしたが、目の前の男がやたらと真剣な顔をするので、溜め息を一つついてその質問に答えることにした。
「暇があれば、たまに舞台なんか観にいったり、どこかでお茶したりする程度ですよ」
ある程度事実に沿っていることを話してやると、男はやたらと嬉しそうな顔をした。実際は、舞台なんかは偶然一緒に観ただけで、ほとんどはいつものカフェでしか会ってない。後は買い物を数える程度だ。そう考えると、何だかあまり彼女のことを考えてないように聞こえるなと、今さらながらに思えてきた。今週でも来週でも、彼女とゆっくり会う時間はないかと頭の中で考える。
「あの、永井せんせい?」
声に気がついて顔をそちらに向けると、男が不思議そうにこちらを見ていた。
「どうかしたんですか?」
「いえ、別に何も」
男の問いかけに苦笑を漏らして首を横に振る。男はしばらく不思議そうにしていたものの、すぐに自分のことに戻って、あれこれと話し出した。応援するなどとは一言も言っていないにもかかわらず、男は一人「頑張ります」と言って張り切っていた。
まったく、とんだ災難だ。
研究室に戻って、今週の予定を確かめながら、そう思った。