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ゆっくりと開けた目に映ったのは、リビングの明かりだった。その反対に、今横になっている書斎兼寝室は暗い。胸に触れる人肌を目で追えば、俺に寄り添うようにして彼女が規則正しい寝息をたてている。身体を少し横に向けて、眠る彼女と向かい合う。彼女の髪に触れて、今ここにある体温に笑みが漏れた。
すぐ隣にある寝室に行くまでの距離がもどかしいなんて、今まで考えたことなかった。服を取り払うのも、馬鹿みたいに急いてしまって。それでも彼女に触れることだけは止めたくなくて、中途半端にもしたくなくて。
今思えば、「選んでほしい」なんて大口、よく叩けたものだ。彼女に、これほどまでに飢えていたくせに。
彼女が古賀という彼ではなく、自分を選んでくれたことは言葉にできないほど嬉しい。自分より付き合いの長い彼と、どんな話を交わしたのかは分からないし、それを聞こうとは思わない。それは、彼女と彼の中だけに仕舞われておくべきことだろう。彼女にとって、自分か彼かの選択が、簡単なものであったはずがないのだから。
「ありがとう」
髪に触れながら、囁きに近い声で伝えた。
ゆったりとした時間を壊したのは、リビングの方から聞こえる微かなバイブ音だ。メールではなく電話着信らしく、その音は一向に止む気配がない。彼女が起きるほどの大きさではないが、鳴り続けるそれを無視するわけにもいかず、小さく溜め息をついて彼女を起こさないようにベッドを抜け出た。
簡単に服を着て、リビングに行く。小さめなダイニングテーブルの椅子に置いてあった鞄の中から、携帯の音は聞こえていた。鞄を漁り、携帯を取り出す。発信者は、春日だった。
この男は、最近になってやたらと絡んでくる。俺が何かとしていることが面白いんだろう。もしかしなくても、彼女に誘いがあったことを教えたのは、こいつかもしれない。
電話には出ずに、携帯の切ボタンを押す。二度目が掛かってこないことを確認して、携帯を鞄に戻し、飲み物を取りにキッチンへと向かった。冷蔵庫からミネラルウォーターを取って、飲みながら寝室へと戻る。
「起きてたの?」
ペットボトルのキャップを閉めて寝室に入ると、彼女が起きていた。ベッドにぺたんと座って、布団を背中から巻きつけるようにしている。
「ん。ぱって目が覚めちゃって。起きたら、永井さんいないし」
目尻を下げて言う彼女に、少し笑って近付く。ベッドに腰掛けながら、彼女にペットボトルを渡す。
「携帯が鳴ってたから、止めにいってたんだ」
「村瀬さん?」
ペットボトルを受け取って、片手で布団を掴みながら彼女が聞いてくる。それに苦笑いして首を横に振ると、彼女が不思議そうに首を傾げた。彼女が水を飲んで落ち着いてからペットボトルを受け取り、それを床に置く。
「春日、だよ」
名前を聞いた途端に、彼女の眉間にしわが寄った。反射的ともいえるその動作がおかしくて少し笑ってしまう。彼女がむっとしたようにこちらを見てきた。
「やっぱり、あいつだったんだね。君に教えたの」
「あの人、好きじゃない」
「好きでも困るんだけど。いつ知り合ったの?」
未だ眉間にしわを寄せている彼女に尋ねると、彼女がそれを少し和らげて、思い出すように首を傾げた。
彼女によると、春日が彼女を研究室の前で見かけた後に見知ったのは、俺が話し合いを本格的に進め出した時らしい。本当にタイミングの悪い奴だ。
「ある意味あの人のおかげなんだけどね。気付けたのは」
少し納得していない顔だけど、彼女がその時のことを思い出しながら言った。確かにそうかもしれないが、面白がって彼女に近付く春日が気にくわない。
「ほんとは、すぐに永井さんに会おうと思ったんだけど、もっとちゃんと考えたかったの」
さっきの電話も彼女に関することかと考えていたところで、彼女がぽつりと漏らした。彼女を見下ろせば、じっと俺のことを見ている。
彼女の言っていることは、ここに来るまでのことなんだろう。今の話からすると、彼女と春日が話したのは二週間前だ。古賀という彼にいつ話をしたのかは分からないが、春日との会話から間が空いていることは確かだった。
先を促すつもりで首を傾げると、彼女が少しだけ視線を逸らす。
「永井さんがいなくなって、それで寂しいと思ってるだけなんじゃないかって思って。もしかしたら、永井さんがいなくても大丈夫なんじゃないかって。それで、ずっと考えてたの。もしそうなら、そんな気持ちのまま永井さんのところに行っちゃだめだと思って……」
「でも、来てくれた」
話を引き継ぐように続ければ、彼女が目線をこっちに戻してくれる。小さく笑って、彼女が頷いた。片手が俺の手に伸びてきて、控えめに握る。それを握り返すと、また彼女の顔に笑みが見えた。
「永井さんがいなくなるって思ったら、やっぱりだめだった。堪えられそうにないよ」
握った手を軽く引っ張られて、それに逆らうことなく、彼女を布団ごと抱き締めた。
「どこにも行かないで」
「行かないよ」
「そばにいてほしい」
「うん」
「好きなの。永井さんが」
「うん」
彼女のもう片方の腕が伸びてきて、ぎゅっと首の後ろにそれが回される。顔のすぐ近くに彼女がいて、応えるように力を込める。一度強く抱き締めて、そっと身体を離して、彼女の唇にキスを落とす。掴んでいた彼女の手が離れて、布団は緩く彼女に掛かっているだけになっていた。布団の上から手を離し、できた隙間から彼女の素肌に触れる。一度だけ身じろぎした彼女が、任せるようにして俺に身体を寄せた。
「いいの?」
「ん。今は、永井さんに触れてたい」
「饒舌だね、今日は。誰かに触発された?」
「ないしょ」
ふふっと笑って、彼女から軽く口付けられる。俺も笑って、小さく音をたててキスを返す。二人してベッドに倒れ込み、じゃれ合うようにしてキスを交わす。それは簡単に深まっていって、触れ合っていた身体も、これ以上ないくらい触れ合わせる。
「ながいさん、」
何度も呼ばれる声に応えて、触れ合って、抱き締めて、キスを交わして。
選んでくれた彼女に、溺れていった。
fin for now
一応は本編完結です。