第二章 準ずる者と類する者と #2
「渡末君」
突然背後から声をかけられ、準は心臓が止まりそうになった。ダッシュの構えで姿勢を低くしたまま一瞬固まってしまう。女の声だが、未波と二三香はもう電車に乗っているはずだ。
(あれ? この声は……)
振り返ると、塩崎が鞄を提げて立っていた。ビンゴだ。初島を従えているのは予想外だったが、2人の関係を考えれば特に意外ではない。
「今帰り?」と初島が尋ねる。相変わらず胡散臭いほどにポーカーフェイスな男だ。
「はい。あの2人と教室でダベってたら、いつの間にかこんな時間に……」
準はバツが悪そうに言葉を濁した。自習や部活をするわけでもなく学校に長居をするのは、意味もなく後ろめたいものがある。
「あら、さっそく仲がいいみたいね。そのままリア充街道まっしぐらかしら? 羨ましいぞコノヤロー!」
突然、塩崎がヘッドロックをかけてきた。
昨日昼食を共にした限りでは分からなかったが、口より手が先に出るタイプなのだろうか? 未波とは対照的に。
自分たちがくじで決めた組み合わせなのに理不尽極まりない仕打ちだ。
「ちょ、痛いです。離してください!」
痛みに耐えながら目を開けると、通行人の1人と目が合った。塾帰りだろうか、地元の中学校のものと思われる制服を着た女の子だが、露骨に目を逸らされてしまった。他の通行人の視線も総じて冷たく、準のガラスの心にざくざく突き刺さる。
(おい誰だ、今『いいなー。我々の業界ではご褒美です』とか言ったヤツは。お望みならば今すぐ代わってください!)
「なぁ、そのへんにしとけよ。通り歩きの邪魔だ。それに教頭に見つかったら、またお説教1時間コースだぞ」
初島が助け船を出してくれる。効果は抜群で、日頃は初島の言葉に耳を貸さない塩崎の動きがピタリと止まった。準は心の中で「ナイス!」と喝采を送る。
「……お説教はイヤ!」
見るからに、教頭が怖いからと言うより、お説教が面倒だからとでも言いたげな表情になる塩崎。初島もそれをお見通しとばかりに、さらに冷たい言葉を浴びせる。
「お説教だけならまだいい。それでロスした時間の分まで残業代が出てると保護者が知ったら、多分みんなブチ切れるぞ。残業の中身が中身だけに」
「エ? ナニソレコワイ」
どうやらこれが決定打になったようだ。
片言の言葉と共に、準は解放された。枕が変わって寝違えた時のように首筋が痛い。
「史郎ちゃんがいじめるんだけど……」
「いや、いじめられたのはむしろ俺なんですけど?」
準は半眼で反論する。もちろん2~3歩後ずさって距離を取るのも忘れない。塩崎の射程圏内にこれ以上いるのは自殺行為だ。
「それにしても、お説教から残業代って発想はなかったわ」
いつの間に立ち直ったのか、塩崎が半ば尊敬するような眼差しで初島を見る。
たしかに体罰は良くない。だが、状況や程度によるとはいえ、学校側としては――もちろん初島も含め、対外的に明るみになりさえしなければそれで問題ないはずだ。準自身、塩崎の行動から悪意は感じないし、強いて言うなら中学時代に所属していた陸上部の朝練や合宿の方が、ニュアンスとしてはよほど体罰に近かった。それだけに、初島の指摘は新鮮に感じられた。
「本来、生徒の前でするような話ではないんだろうけどな」
初島はいかにも「口が滑った」と言わんばかりの苦々しい顔で前置きをすると、
「前の職場では、どちらかと言うと経営者寄りの視点で物を考えることが多かったんだ。新人もベテランも関係なく」
「たしか求人広告の会社ですよね」
「そう。広告の形に仕上げるためには、仕事の内容、給料、勤務時間や日数、必要な資格、それ以外の細かい条件なんかをまず取材しなきゃならない。求人広告を出すのは基本的に経営者、学校に置き換えて言うなら校長や理事長クラスの人間だ。そういう人たちと日常的に関わってると、労務管理なんかにも自然と敏感になってくるんだよ」
「一種の職業病みたいなもんですか?」
「身も蓋もない言い方をするとね。俺自身も最後は経費削減のために会社をリストラされちまってるし、どうしても黙ってられなかったんだ。それに、学園が経営破綻したとかならまだしも、ただの悪ふざけを体罰と誤解されてクビになるなんてバカバカしいだろ? 平たく言えば『自重しろ』ってこと」
なるほど……と準は納得した。初島とて、ただ塩崎をからかって遊んでいるわけではなかったのだ。しかし――
「何よ偉そうなこと言ってくれちゃって。一応私の方が先輩なんだからね!」
当の塩崎はご立腹だった。しかも、ご丁寧にアヒル口まで作っている。もし初島の立場だったら「せっかく心配してやってるのに、その言い草は何だ!」と啖呵を切ってしまいそうだ。
「まぁ史郎ちゃんの言うとおりなんだけどね。私なんかより社会人経験長いし――いえ、私みたいに生徒しか相手にしない仕事では社会人経験なんて皆無に等しいわね。学生気分が未だに抜けてないのも自覚してるし……」
「サラリーマンと教師では、そもそも評価の基準が違うからな。悩んだところでどうしようもないだろ。それに、俺だって教師になった以上はそっちのルールに従わなきゃならないし、世間一般で言う社会人経験とやらも前の会社をリストラされた時点で打ち止めさ」
「そう言ってもらえると気が楽だけど、でも……史郎ちゃんは本当にそれでいいの? 私には学園に誘った責任だってあるし……」
「別にいいと思ってる。経験は積めなくても、心掛けや自覚だけなら自分の意志ひとつでどうにでもなるからな。学校ってのは『正しい答え』を教えてくれても『適切な答え』や考え方までは教えてくれない。親切なように見えて、実際はかなり無責任な組織なんだ」
初島は特に腹を立てる様子もなく、塩崎への返事も実に淡々としたものだった。元々はオフ会で知り合ったと言っていたが、当時からこんな感じだったのだろうか。
ふと、さっきのカップルを思い出す。シチュエーションこそ違うが、第三者的に見て感じ取れる雰囲気は、塩崎・初島コンビのそれとよく似ている。
続いて未波と二三香、そしてルイの顔が脳裏に浮かんだ。塩崎と初島の見かけ上の関係と同様に、恋人同士というわけではないが、紛れもなく準自身が見つけた仲間だ。それは何をするにも1人の今、両親の愛情などのように『与えられるタイプの絆』とは明らかに違った意味合いを帯びてくる。目下の最重要課題は、如何にしてそれを深めていくかだ。
「悪いな、これから晩飯って時に長々と足止めして」
「大丈夫ですよ。今日はもう有り合わせの冷凍食品で済ませますから」
初島に頭を下げられ、準はあわてて答える。特に堅苦しさは感じないものの、律儀な人柄が言葉の端々に垣間見えた。
「最近は冷凍食品も色々出てるからねー。ちゃんと使いこなしてて偉いぞ!」
「先生たちもこれから帰って晩飯ですか?」
「ああ。俺と塩崎先生は駅から自転車だけど、君はたしか歩きだったよな?」
「ええ、歩いて5分もかかりません」
「そう。じゃあ気を付けてね。家が近いからって寄り道しちゃ駄目よ?」
「お疲れー。また明日な」
2人が駅前の駐輪場に向かうのを見届け、準も家路を急ぐ。
さっきは冷凍食品で済ませるなどと適当なことを言ってしまったが、今日はルイとの記念すべき1日目だ。少し贅沢にファミレスで食事をしても罰は当たるまい。席に着いてから呼び出し、通路側でガードするような位置に自分が座れば、相変わらずのブルマ姿でもおそらく大丈夫だろう。
10分後。
一旦部屋に戻って着替えを済ませた準は、椅子の背もたれに体を預けて伸びをしながらため息をついていた。目の前に鎮座するは低い唸りを上げる型落ちのノートパソコン。
秋津駅周辺のファミレスをネットで検索してみたはよかったが、いずれも歩いて行くには少し遠い場所にあった。
こうなったら手段はひとつしかない。
手早くノートパソコンの電源と台所の照明を落として、再び部屋を出る。転がるように階段を駆け下り、準はポケットから銀色――だったが、2年ほど使い込まれて暗い灰色に変色した小さな鍵を取り出した。自転車を使えば、信号待ちを含めても片道10分ほどで行けるはずだ。
カラカラと軽快な金属音を響かせながら、乗り換え客でごった返す商店街を進む。
自転車を押しながら商店街を抜けると、準はサドルにまたがり力一杯ペダルを踏みしめた。勾配のない平坦な道なので、自転車はどんどん加速していく。
地下に潜っているJR武蔵野線と並走するように移動し、やや広い市道との交差点を曲がればファミレスまで一直線だ。まだ着慣れていない制服からの開放感と相まって、頬に当たる夜風が心地よい。休日の散歩コースにちょうど良さそうだな、と準は思った。
部屋を出て10分ほどでファミレスの黄色い看板が見えてきた。目算どおりだ。駐輪場に自転車を停めて店に入る。
ざっと見渡す限り、客は準の他に3~4組ほど。時間帯から推測すると、これから混み始めるのかも知れない。ルイを呼び出すにはちょうど良さそうだ。
程なくしてカウンターの奥から店員が現れる。
「いらっしゃいませ。1名様ですか?」
「はい。ただ、後からもう1人来るんで2人になります」
「かしこまりました。では席へご案内しますね」
準が通されたのは一番奥のテーブルだった。店員は慣れた手つきでお冷やとメニューを並べ、足早に去って行った。
改めて店内を見回す。
他の客はみな家族連れかカップルで、食事や談笑に夢中になっている。さらに、オーダーは各テーブルに設置されたボタンで店員を呼ぶシステムになっているので、こちらが押さない限り店員がやってくることもない。ルイを呼び出すには絶好のチャンスだ。
準は客席とカウンターに視線を向けたまま『いでよ!』と念じた。
「はーい、何かご用でしょうか?」
ルイの脳天気な声が響く。場所が場所だけに、よそ見などしていようものなら店員と間違えてしまいそうな営業スマイルならぬ営業ボイス。
「しっ! とりあえずそこに座って」
唇に人差し指を当ててルイを制し、もう片方の手で向かいの席を指差す。
「え? あ、はい。分かりました」
言われるままに席に着くと、ルイは再び準に尋ねる。
「ここは……ファミレスですよね? 今日はここでお食事ですか?」
「ああ。ルイと出会った記念日って言うか、その……」
「あっ! そう言えば私たち、今朝初めて会ったんでしたっけ。すみません、顕現したり戻ったりを繰り返したせいか、すっかり忘れてました……。わざわざ呼んでいただいてありがとうございます!」
「いや、謝ることはないよ。何回も呼び出してるのは俺だし。ところで、ルイは食事とかできるんだっけ? 注文する前に確認しておこうと思ってさ」
「はい。一応食べられますけど、同化していれば準さん1人分で私も食事をしたのと同じ状態になるんです。その方が出費も少なくて済むと思うんですが……」
「出費のことは気にしなくていいよ。こういうのは雰囲気が大事なんだ。それに、俺も1人で細々と食べるより、ルイと一緒の方が……って、俺は何を言ってるんだ! と、とにかく、食べるなら早く決めよう。はい、これメニュー」
「そうですか……? それじゃお言葉に甘えてご馳走になります。えーっと、何にしようかな~」
食い入るようにメニューを見始めるルイ。よほど嬉しいのか、鼻歌交じりに見せる笑顔は年齢相応と言うか、とても無邪気だ。見かけより大人びた口調や態度ばかり目にしてきたせいか、なおさらそれが際立って見える。準もつい笑みがこぼれそうになり、あわてて顔をメニューで隠した。
秋津に引っ越した初日以来ファミレスとご無沙汰だったせいだろうか、和食も洋食も中華も全部が美味そうに見えてくる。真剣な表情で吟味するルイの気持ちが何となく分かる気がした。それこそ視線でメニューに穴が空くのではないかと心配になるほどに。
しかし……と準は思い直す。
ここで肉の味を覚えて舌が肥えてしまうと、明日以降の自炊に対するモチベーション低下を招くおそれがある。ルイはともかく、曲がりなりにも家計を切り盛りする者として、それだけは何としても避けなければならない。
「どう? 決まりそう?」
「はい、色々悩みましたけど決まりました」
「よし。それじゃそこのボタンを押して」
「ラジャー!」
ルイがボタンを押すと、どこからともなく『ピーボーン♪』という音が鳴り響き、さっきとは別の店員が早歩きで現れた。
「お決まりでしょうか?」
「はい。俺はシーフードパスタのサラダセット、飲み物は烏龍茶で。ルイは?」
「私はドライカレーピラフのサラダセットで、飲み物はアイスレモンティーでお願いします」
「デザートは?」
「うーん、どれも美味しそうなんですけど、食べ過ぎにならないか心配で……。今回はパスしておきます」
「そっか。じゃ、また今度だな。すみません、以上です」
「かしこまりました。お飲み物はお食事と一緒にお持ちしますね」
店員は注文用の端末をポケットにしまいながら一礼すると、小走りで厨房へと消えて行った。
「ふう……やっと落ち着いて話せる」
「そうですね。二三香さんの話だと、今どきこんな格好の人はいないそうで……。準さん以外の人の前に出るのが恥ずかしくなってきました」
「時代はともかく、たしかに外を歩けるような格好じゃないな。それは体育の授業とかがある時に学校の中で着るもんだ。と言っても、もう10年以上前の話だけど」
かく言う準もルイに出会うまで――ほんの半日前まではブルマの実物など見たことがなかったので、曖昧な返事しかできないのだが。
「そっか。ルイの服のことも考えないとな……。いずれ先生たちにも紹介することになるだろうし。とりあえず明日にでも未波たちに相談してみるか」
「助かります」
「ところで、物が食べられるってことは、顕現してるうちは普通の人間と同じ体質なのか?」
「そうですね。違いを強いて挙げるとしたら、身体能力が普通の人間より高めなことと年を取らないことくらいですね」
「さらっととんでもないことを言うんだな。だとすると、俺がしわくちゃのジジイになっても、ルイは今の姿のまま……?」
「はい」
「それじゃ俺が死んだ時はどうなる?」
「その同時刻をもって消滅することになります。あの世でも一緒になれるかは神のみぞ知る――ってとこですけど。そういうわけですので準さん!」
ルイが急に真剣な表情で身を乗り出してきた。
「ど、どうしたんだよ急に」
「できるだけ長生きしてくださいね! 私はできるだけ長く準さんと一緒にいたいです」
「いくつまで生きられるかは正直分からないけど、できるだけ頑張ってみるよ」
「約束ですよ?」
延々と他愛のない話をしているうちに、2人分の料理が同時に運ばれてきた。
「美味しそうですね」
「ほんと美味そうだな。冷めないうちに食べよう」
「いただきまーすっ! ……んー、やっぱり美味しいですー!」
カレーピラフを一口食べて、ルイが歓喜の声を上げる。
「そっか、よかったな。よーし、それじゃ俺もいただくとしますかね」
たらこソースとイカをパスタに絡めてシソの葉を添えた普通のシーフードスパゲッティだが、一口食べると濃厚なたらこの風味と、シソの程良い苦味と香りが全体に広がって予想以上に美味い。さらに空腹がフォークの動きを加速させ、10分とたたないうちに完食してしまう。
まだ3分の1ほど残っているカレーピラフを頬張るルイを横目に、準はカバンからメモ帳を取り出した。
今日はルイの名前を考える時にしか出番はなかったが、普段は主に予定を書き込む手帳代わりにに使っている。
おもむろに明日の日付けが入ったページを開く。
続いてペンケースからペンを取り出すと、準は比較的きれいに整った字でこう書いた。
『ルイの服の件で未波・二三香に相談。超重要案件!』