第二章 教師たちのジレンマ #12
未波・二三香を見送り、塩崎・初島とも駐輪場前で別れる頃には、空はすっかり暗くなっていた。
病み上がりの景気づけに肉でも食べたい気分だったが、外食は極力避けたいし、かと言って仕込みに費やす時間や体力があるわけでもない。かくなる上は、と準が下した決断はキムチ鍋だった。肉・野菜・うどん・鍋の素、すべての材料が線路の向こう側にあるスーパーで安く揃えられるだけでなく、余った分は明日の朝食に流用できる。
それをルイと2人でつつくこと小一時間。キムチ鍋に含まれる色素が直接染み出してきたのではないかと見紛うほどに顔を赤く染めたまま、順番に熱いシャワーを浴び、バラエティー番組を流し見しながら明日の予習を済ませると、時刻はすでに11時になろうとしていた。宿題だけでも学校で片付けておいて正解だったようだ。
「準さーん。そろそろお休みの時間なのでは?」
渡末家の専属メイドよろしく、ルイがリビング兼客間の洋室に静々と入ってきた。準が予習をしている間、ずっとキッチンでラノベを読んでいたらしい。眠たそうに目をこすっている。
「ん? もうそんな時間か」
「もうそんな時間ですよ。病み上がりなんですから、今晩は特に念入りにお休みにならないと」
左手で目をこすりながら右手を腰に当てるという、器用かつ奇妙な仕草で準を見下ろすルイ。実の母親以上の世話焼きぶりに、思わず苦笑いが漏れそうになる。
もっとも、世話焼きと心配性は似て非なるもののようで、準の母親は毎日の電話ないしメールで「風邪引いてない?」を口癖のように繰り返すが「何時に寝て、何時に起きなさい」などと説教じみたことは一切言ってこない。我が子の生活面での自立を促す、母親なりの配慮なのだろうと準は解釈している。子供の自主性や自立心の芽を摘み取って無気力化させる最大の原因は、周囲からの――特に親からの過干渉である、と何かの本にも書いてあった。ルイに世話を焼かれるまま、それが常態化しないよう注意する必要がありそうだ。さもないと、駄目人間への下り坂を雪崩のごとく転がり続けることになる。
「へいへい、分かりましたよ。ところでルイ、その格好は……?」
シャワーを浴びて着替えたのは分かっていたが、まさかの体操用半袖シャツ&ブルマ姿に、準は疑問の声を上げる。
「さあ、どうしてでしょう? 当ててみてください」
「時間的に考えると、そうだな。どこぞの墓場で運動会でもあるのか?」
「どうしてそうなっちゃうんですかっ! 私は妖怪ですか!?」
眠たそうに細められていたルイの両目が、突然覚醒モードに入ったかのように見開かれた。
「だって仕事も病気も何もないだろ?」
「そこは否定できませんけど、でも断じて違います! 単刀直入に申しましょう。昨日、準さんが床に伏している間に洗濯しました体操服、これはパジャマ代わりです。そして準さん!」
ルイは冷たいフローリングの床に膝をつくと、その端正な顔を一気に準の鼻先へと近づけた。
「一緒に寝ましょう」
「――冗談だろ?」
「冗談なんかじゃありませんよ。冷たい布団にいつまでもくるまってたら、治りかけの風邪をこじらせてしまいますよ?」
準は言葉に詰まった。いつもの18禁モードが誤作動されただけなら「人をからかうんじゃない」と一蹴できるのだが、曲がりなりにも体調を気遣われると無下に断れない。湯たんぽや電気毛布のような代替手段も、あいにく手元にはなかった。
「気持ちは嬉しいけど、緊張して逆に眠れなくなる可能性大だな。たとえば、ちょっと気になる相手と2人きりになった途端、意識しすぎて何もできなくなるっていうか……」
決して疎ましく思っているのではないことを言外に匂わせながら、準は上目遣いにルイを盗み見る。
「ほんの少しの間だけでいいんです。もちろん変な事はしませんから安心してください」
「男女の台詞が完全に逆になってるな……。とりあえず分かったから、一緒に寝よう。ただし! ルイが先に寝落ちした場合、その時点で俺の体に格納する。それでいいな?」
「はい! ではさっそく参りましょう」
準は予習に使った教科書と辞書を鞄にしまうと、半ば急かされるようにテレビの電源と部屋の照明を落とした。
ベニヤ製の引き戸を開け、畳敷きの寝室に入る。
窓に面した高層マンションの廊下から入ってくる常夜灯の薄明かりのおかげで、照明なしでも程よい明るさだ。
自分でも信じられないほど簡単に添い寝を了承してしまったが、不思議と後悔の念は湧いてこなかった。もっとも、頭ごなしに拒否したところでルイが大人しく引き下がるとは思えないし、万が一言い争いにでもなろうものなら、貴重な睡眠時間が削られてしまう。
せっかく2人だけの時間を確保できたのだ。互いに愚痴のひとつくらいこぼし合っても罰は当たるまい。
「さて、どっちが先に入る?」
「準さんからお願いします」
「分かった」
タオルケットと毛布を綺麗に敷き直し、おもむろに体を滑り込ませる。ルイの言ったとおり、布団の中はひんやりと冷たい。
「最初のうちは寒いけど我慢してくれよ」
「2人ならすぐ温まりますよ」
と、何を思ったか、ルイはベッドに上がると膝をついて準の腰のあたりに跨り、その華奢な体をゆっくりと投げ出すように横たえた。必然的に、ルイが準を押し倒して覆い被さるような構図が出来上がる。未発達ながらも精緻なフォルムと柔らかな感触は、準の興奮中枢をこれでもかと刺激した。
「あ……あのっ、ルイさん?」
「すみません、重かったですか?」
あわてて枕元に手をつき、体を浮かせるルイ。
「いや、そうじゃなくてだな。別に重さはどうってことないし、こうしてると確かに温かいんだけど……これじゃ体勢的にルイが寝にくいだろ」
「いいんですよ。私はうつ伏せ派ですから」
ルイは小さく微笑むと、再び準の胸元に体を沈めてきた。もはや、一緒に寝ていると言うよりも、ルイの形をした掛け布団が1枚増えたような状態だ。
「準さん、ありがとうございます」
「礼には及ばないよ。むしろ、俺がルイに感謝しなきゃならないくらいだ」
「…………」
「ルイ?」
「んー。準さぁん、わたひも学校に連れてってくらさいよぉ」
普段の口調からは想像もつかない、完全に弛緩しきったけだるい声。準は反射的に、しかしすべてを悟ったかのような、穏やかなツッコミを入れる。
「おいおい、落ちるの早すぎだろ。ったく、緊張して損したな――ふあぁ」
ルイの幸せそうな寝息と寝言に、緊張の糸がぷつりとが切れる。その反動からか、準の瞼も急激に重みを増し始めた。長い髪から微かに漂う、弱酸性シャンプーの香りが鼻腔をくすぐった次の瞬間。準の意識も、眠りの深淵へと静かに落ちて行った。