第二章 教師たちのジレンマ #5
「塩崎先生も初島先生も、いつからそこにいたんですか?」
「そうね。久坂さんが渡末君をパンチラ悩殺したあたりからかしら」
――ある意味、最悪と言わざるを得ないタイミングだ。そもそも、そのような暴挙に及ばんとしている教え子がいたら、全力で止めに入るのが教師というものだろうに。
「俺は別に悩殺なんかされてません」
「それはパンチラごときに惑わされるほど純じゃないってこと? それとも、あたしのじゃダメってこと? どっちにしてもショックだよ……」
未波はそう言うなり、がっくりと頭を垂れた。それと反比例するかのように、柔和な笑みを浮かべていた塩崎の眉がにわかに吊り上がる。
「……パンチラを拝むだけならまだしも、女の子泣かすのは感心できないわね」
普段より低く幾分凄味のある声に、二三香と初島が半歩後ずさった。しかし、準は一切動じない。それどころか、負けじと塩崎を睨み返しながら、
「言いがかりも程々にしてください。相手が先生でも、こればかりは認めません」
と、静かに告げる。
下手に言い繕ったところで、相手の怒りに余計な油を注ぐか、上から目線でいじり倒されるのが関の山だ。
沈黙が一触即発の空気を支配する。それを破ったのは、意外にも未波と塩崎だった。
「――なーんてね! 準ちゃんの反応が面白いからやってるだけだよっ! 塩崎先生も本気になっちゃダメですよー?」
「やっぱり……そんなことだろうと思ったわ。まあ、久坂さんに便乗した私も悪かったんだけど……渡末君、いつまでそんな怖い顔してるのよー」
まさかのネタばらしに、準の顔は噴火寸前の活火山のように赤く染まる。
と、ここまで苦笑混じりに事態を見守っていた初島が口を開いた。
「久坂さんも塩崎先生も、あんまり男をからかうもんじゃないぞ。それと、渡末君も少し落ち着こうか。まだ若いんだし、パンチラを目撃したら黙っておかずにするくらいの余裕と下心は常に持ってないとな」
赤メガネを指先で押し上げながら、他人事のようにそうのたまう。理論が飛躍しすぎていて、どこからツッコミを入れればいいのか分からない。代わりに釘を刺してくれたのは毎度おなじみの二三香だった。
「初島先生、未波はともかく、渡末君にまで変な事を吹き込まないでください。ところで能力の件ですけど、改めて全員集まれる時にゆっくり話しませんか? もうすぐホームルーム始まっちゃいますし」
「そうだな、さっそく夕方にでも集まろうか。場所はどうする?」
「駅前の商店街にあるジュラ紀とかどうですか? 席が個別に区切られてますし、話をするのに打ってつけだと思いますよ」
話を強引に本線復帰させたかと思いきや、集合場所の打ち合わせまで運んでしまう二三香の交渉術に、準と未波は思わず息を飲んだ。
「ジュラ紀か……。奈津、どうする?」
「私は構わないわよ。むしろ、ちょうどいい機会なんじゃない?」
「ちょうどいい機会、って何がですか?」と二三香。
「ん、こっちの話。今日は職員会議があるから、もしかしたら6時過ぎちゃうけど大丈夫かしら?」
「私は大丈夫です。渡末君と未波は?」
「俺も大丈夫だ」
「あたしもOK」
それぞれに準と未波は即答する。
部活を始めたりクラス委員の仕事を申し付けられたりしない限り、放課後のスケジュールは基本的に空欄状態だ。恋愛シミュレーションゲームの青春度指数のような評価基準があるとしたら、ぶっちぎりの最低記録を叩き出すことだろう。
「それじゃ決まりね。校内で一緒になると目立つから、一度教室に集合したあと現地で落ち合いましょ」
塩崎はそう言うと、初島を従えて行ってしまった。その背中を見送りながら、準は静かに安堵のため息をつく。
「これなら半藤に気づかれずに済みそうだ」
「そう言えばあいつ、あれからどうしたのかしら。渡末君、何か聞いてない?」
「神沢さん曰く、土曜の夕方の時点で、すでに復活してたらしい。怪我に関しては俺たちが心配するまでもなかったみたいだ」
半藤たちがどこに住んでいるのか、準はまったく知らない。しかし、何事もなかったかのように我が物顔で外を出歩いている半藤の姿を想像すると、無性に腹が立ってきた。
「そうそう、あの病院って結局どこだったの? 訳も分かんないまま二三香に連れてこられたけどさ」
未波が二三香の制服を軽く引っ張りながらたずねた。
「私が小さい頃お世話になってた総合病院よ。――って言っても、うちからはバスで30分以上かかるけど。あんまり遠くに飛ばしすぎちゃって警察沙汰になっても後々面倒じゃない? 私の妥協点としては、あそこが限界だったのよ」
「それで最初の候補が札幌って、色々と矛盾してないか? まあ、あいつの親や兄弟がいくら騒ぎ立てようと知った事じゃないし、俺はルイとみんなさえ無事なら、それで満足だけどな」
今さら風邪との因果関係を追及する気はないが、考えれば考えるほど謎なチョイスであることは間違いない。
「私だって、ルイちゃんがあんなアグレッシブなことをするなんて夢にも思ってなかったから、急に病院とか言われても対応のしようがなかったのよ。そうでなくても私にだって怪我人を気遣うくらいの仏心はあるし、あいつにしてみれば、むしろ怪我の功名ってとこなんじゃないかしら?」
そう言うと二三香は「いつまで掴んでるのよ」とばかりに、未波の手を振り払った。
「……ま、救急隊員でもなけりゃすぐに思いつかないのが普通だよな」
「そうよ。だから細かいことは気にしない! あ、もうホームルーム始まるわよ」
二三香が口を開いたのに遅れること数秒、予鈴が鳴り、朝の押し問答はここで強制的にお開きとなった。
昼休み。1人で屋上に上がった準は「いでよ!」と小さな掛け声と共にルイを呼び出した。
「はーい、お呼びでしょうか――って、まぶしっ! ここはどこですか?」
準と同化する瞬間まで薄暗い部屋にいたせいだろう。顕現するなり両目を覆い、苦悶の声を上げるルイ。
「現在地、学校の屋上。現地時間、12時42分。天候、快晴。――他に何か質問があれば遠慮なく申し付けられたし」
「実に単純明快なご説明ありがとうございます。でも珍しいですね。学園内で私をお呼びになるなんて」
「そうかな? 名前を付けた時と、未波の能力が発動した時にも呼び出した気がするけど……まあいいや。それより、塩崎先生と初島先生の能力が発動したみたいだ」
準は何のてらいもなく、単刀直入に用件を切り出した。
「本当ですか!? よかった~」
「幸い、今のところ半藤の目に触れてる様子もない。それを早いとこ伝えたくて呼び出したんだ」
「半藤……そう言えば、あの男はどうなったんでしょう。準さん、何か聞いてませんか?」
瞬時に緊張の色を滲ませるルイ。半分宥めるように、準は話を続ける。
「結論から言うと、あいつの怪我は大したことなかった。神沢さん曰く、土曜の夕方には復活してたらしい。それに、二三香も病院って条件付きではそれほど遠くに飛ばせなかったみたいだ」
「やっぱり……コンビニやファミレスならまだしも、病院縛りは無茶振りが過ぎたようですね。ところで、お二方の能力はもうご覧になりました?」
「いや、お披露目は先生たちの仕事が終わってからすることになってる。例の店でな」
「あの極道喫茶ですね」
準のことを散々笑っておきながら、ルイも結局はスキンヘッド店長を極道呼ばわりするのだった。
「ああ。ルイにも講師として同席してもらう」
「えっ!? 講師と言われましても……何を話せばいいんですか?」
「色々あるだろ。今までの経緯とか、能力の使い方とか、半藤のこととか。表面上何もないように装ってるけど、多分相当参ってるぞ、あの2人」
「なるほど……そういうことでしたら、おまかせください! 偏差値30でも理解できるよう、分かりやすく解説してご覧に入れましょう。そして目指すは打倒・日本史研究会! ついに来たれり、7人の侍!!」
――新春時代劇の番宣に使われるキャッチコピーか何かだろうか? 一瞬そう思いたくなるような台詞を声高に叫ぶルイに脱力しつつ、準は軽く釘を刺す。
「やる気になってくれるのは結構だけど、神沢さんも一応研究会のメンバーってことを忘れないようにな……」
ルイの言う〝7人〟とは、ルイ自身と準たち能力者5人、そこにアサミを加えた陣営のことだろう。頭数が揃えばそこそこ絵になると踏んだのかも知れないが、半藤と互角に渡り合える武闘派はアサミしかいない。何とも不毛な人員構成だ。
「私も、アサミさんと半藤が敵対関係でないことくらい承知してますよ。元を正せば研究材料の選定で意見を異にしているだけですからね。ところで、二三香さんと変態ポニーテールは一緒ではないんですか?」
「変態って未波のことか……ルイと同類のような気もするけど」
呆れ顔で、さりげなく異論を挟む準。
とはいえ(性的な意味で)興味の対象が同性に向いていない分、ルイの方が健全であると言えなくもない。もっとも、二三香のように高度なスルー能力を持ち合わせていない準にしてみれば、両者とも厄介な手合いであることに変わりはないが。
なぜあんなにも欲望に忠実になれるのだろう? 単なる疑問を通り越して、もはやカルチャーショックの領域だ。
貞操観念がどうのこうのと堅苦しいことを言うつもりはない。ただ、未波もルイも普通にしていれば普通に美少女だし、準としても気恥ずかしさを感じこそすれ余計な苦手意識を持たずに済んだかもしれないことを考えると、ひたすら残念でならなかった。
と、意外な言葉がルイから返ってきた。
「準さんの当事者意識の欠落ぶりには涙が出てきますよ。敢えて変態にならざるを得ない私の苦悩も考えてくださいな」
手すりにもたれて頬杖をつきながらため息まじりに呟く姿は、相変わらず外見年齢にそぐわない。しかし、こちらを振り返りもせずに紡ぎ出された言葉は、その静かな口調が内包するけだるさと相まって、準の心拍数をにわかに増大させた。
ルイの苦悩とやらを根本的に理解するのはほぼ不可能に近いし、仮に理解できたとしても、自分からしてやれることなどたかが知れている。が、いつもと明らかに違う態度は、当人にしか理解できないであろう悩みの深さを〝大人っぽい〟としか形容できないアンニュイな雰囲気に変換して訴えかけていた。