第二章 教師たちのジレンマ #3
裸眼と矯正では、視力に差が出て当然だ。むしろ差が出るからこそ、矯正技術に商品価値が生まれて眼科医や眼鏡屋が儲かるし、患者側としても失われた(あるいは先天的に持つことができなかった)裸眼視力への未練・憧れが出てくる。同一の視覚情報がリトマス試験紙の役割を果たし、見る側も視力=解像度の違いを認識できるのだと客観的に言い換えてもいい。
しかし、である。今のは、その何もかもが逆になっていた。
視力は矯正時と同一レベルのまま、眼鏡が映像=視覚情報の切り換えの役目を果たす。常識的に考えてあり得ないことだ。単なる疲れ目や、網膜剥離・白内障といった疾患の類でないことは、医学知識ゼロ&根っからの文系人間である初島にだって分かる。
通りがかりの誰かを片っ端から裸眼で見ていれば、いずれ答えが出るのかも知れないが……。
そんなことを悶々と考えているうちに、初島は職員室にたどり着いた。
さすがに職員室内での『実験』は避けておきたいところだ。いや、場所がどこであれ、人を実験道具にすることなく確証を得られればベストなのだが……。
「おはようございまーす」
複雑な思いで引き戸を開けながら、事務的な挨拶を口にする。
「――遅かったじゃない」
予想外の返事に顔を上げると、塩崎がすぐ横の複合プリンターで何やらコピーを取りながら、こちらをジト目で睨んでいた。悪意や憎悪といったマイナスの感情を出さずに相手を睨む芸当ができるのは、世界広しと言えど彼女くらいだろう。
とはいえ、ここまで〝病的な〟塩崎のジト目は酒の席でしか見たことがない。悪酔いすると大抵このような目つきになり、初島や他のオフメンバーに絡んだりしていた。……病み上がりの景気づけに、朝から一杯キメてきたのだろうか?
出勤の遅さを咎めるのが目的なら「おそい!」と平仮名3文字で済む――いや、塩崎なら強引に済ませるはずだ。苛立っていると言うよりも、待ちくたびれたとでも言いたげなオーラを感じ、初島は努めてやさしくたずねる。
「すまん。でも、まだ8時を過ぎたばかりだろ。早朝会議があるわけでもないのに、いったいどうしたんだ?」
「飯沼先生に聞いたわ。昨日ここで倒れたそうね」
「ああ。――けど、別に大したことはない。おそらく〝先週と同じ〟貧血か何かだろ。そう言う奈津は大丈夫なのか? 体の具合の方は」
「私も軽い貧血みたいなものだったから、もう平気よ。でも……」
「でも……どうしたんだよ?」
普段の塩崎からは、およそ想像もつかない歯切れの悪さに不審感を隠し切れず、初島は先ほどよりも少し険しい表情になる。
「ちょっと、ここでは言えないわ。一旦席に着いて話しましょ」
「!? お、おい。分かったから袖引っ張るなよ」
窓際の一角にある自席へと強引に促され、初島は思わず抗議の声を上げる。
他の教師や教頭・校長、下手をすれば理事長や来客の目もあるだろうに……。「学生気分が抜け切っていない」という周囲の指摘は、あながち間違いでもないようだ。
* * *
未波と二三香の様子がおかしい。
準がそのことに気づいたのは、教室に足を踏み入れた直後のことだった。
席に着こうとする行く手を阻むかのように、仁王立ちのまま微動だにしない2人。ただならぬ雰囲気に好奇の視線を向ける者もいる中、未波が静かに口を開く。
「あの子、準ちゃんとはどういう関係なの?」
「へ? 何の話だ?」
心当たりがなさすぎるのと、質問の意図が今ひとつ分からないのが合わさり、つい間抜け面になってしまう。
「しらばっくれてもムダだよ? あたし、この目でちゃんと見たんだから。ついさっき、校門のところで他のクラスの子と話してたでしょ」
ついさっきまで準と話をしていた、他のクラスの生徒。未波の言葉を脳内で反芻し、ようやく思い出す。
「――ああ、10組の神沢さんのことか」
「10組とは、なかなかの越境将軍ぶりね。でも私たちが知りたいのは、あの子の名前やクラスじゃないのよ。転入間もない渡末君と、どういう関係で知り合ったのか、どこまで進んでるのか。そこを詳しく知りたいの」
値踏みするような、責め立てるような、あまり浴びたくないタイプの視線を向けられ、準は大きく嘆息した。
「……ちょうどいい機会だ、一から説明するよ。でも、その前に鞄くらい置かせてくれないか?」
2人が何を想像しているかは粗方見当がついている。端的に言えば、準が他の女子と親しげに話し込んでいたことに妬いているのだ。
もう少し謙虚な見方をするにしても、あまり快く思っていないのは確かだろう。実際に口に出して確認する勇気はないが……いずれにしても立ち話で済むような簡単な内容ではない。
「「あっ、ごめん」」
自分の席へのゲートがようやく開き、準は椅子に腰を下ろす。
「彼女――神沢アサミさんに初めて会ったのは先週の金曜日、未波の家から秋津に戻ってすぐ後のことだ」
「あの後ってことは、ルイちゃんも一緒だったの?」
「ああ。近くをもう少し歩いてみたいって言うもんだから、ここに連れて来たんだ。そしたら突然現れた。半藤の助手として、ヤツと一緒にな。当然、彼女も日本史研究会の所属メンバーだ」
少しでも信憑性を上げるべく、静かに訥々と言葉を継ぐ準。これが功を奏したのか、2人は徐々に能面のような顔から普段の顔に戻りつつあった。