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第二章 教師たちのジレンマ #2

 眼鏡を日常生活の相棒として迎え入れたのは何年前だったろう。

 初島史郎がふとそんなことを考えたのは、自分と同い年にして教員生活6年目の数学教師・小村(こむら)と、すれ違いざまに挨拶を交わした時だった。

 眼鏡族同士ということで、2月の新任研修の頃から懇意にしている間柄だが、小村の特徴は、遠目にも分かるほど分厚いレンズのメガネに集約されていると言ってもいい。フレームこそ洒落っ気のある、そこそこ無難な造形をしているものの、本人もレンズ周りの野暮ったさは気になるらしく「生まれる時代を間違えていたら、生徒からのあだ名は十中八九〝牛乳瓶〟で確定でしょうね」と、事あるごとにおどけては周囲の笑いを取っている。

「お前は今日からこれをかけて授業を受けなさい」

 そんな言葉と共に、真新しい眼鏡ケースを両親から受け取ったのは、たしか小3の冬休みが明けてすぐの頃だ。今の自分の年齢から逆算すると20年近く前のことになる。

 最近はそうでもないのかも知れないが、当時の子供たちの間では、眼鏡と言えば一種のからかいの対象だったと初島は記憶している。大人たちの間でも今ほどのファッション要素はなかった気がするし、やはり『眼鏡=ガリ勉・おたく・TVゲームのやりすぎ』というのが老若男女の一般的な共通認識だったのだ。

 無論、からかいの対象という意味では、初島とて例外ではなかった。さらにタチの悪いことに、初島家が家庭用ゲーム機の類を所持していないこと(貧乏だからではなく、親の教育方針で、だが)を知る一部のクラスメイトが発信源となって、ガリ勉・おたく疑惑、果てはゲームセンターに入り浸る不良疑惑まで浮上する始末。学校の廊下で初島に出くわすなり、恐怖に顔を歪め猛ダッシュで逃げて行った(おそらく不良説を信じてしまったのだろう)上級生の後ろ姿は、20年近い年月が流れた今でもなお忘れることができない。

 眼鏡が生活必需品から身だしなみという認識に変わったのは、高校生になってからのことだ。進学してすぐに始めた郵便仕分けのアルバイトは、冴えない眼鏡少年に小遣い以上の経済観念をもたらした。高校が駅ビルの近くということもあり、眼鏡や鞄は自分の好みで選ぶようになる。眼科での診断書の取り方を覚えたのも、おそらくこの頃だ。

 そんな紆余曲折を経て、さらに歳を重ねるうちにコンプレックスは少しずつ薄らいでいき、今ではすっかり鳴りを潜めてしまった。もっとも、人並みの裸眼視力への憧れまで捨て去るには至っていないが……。

 初島はため息と共に眼鏡を外し、窓から差し込む春の陽光に目を細めた。職員室から見える夕焼けといい、こんな風情に浸れる〝感覚が残っている〟ことには自分でもただ驚くばかりだ。

 と、廊下の曲がり角から女子生徒が現れた。彼女は初島の姿を認めるなり「おはようございます」と軽く頭を下げると、再び歩き出す。

 それにしても、個別の挨拶が多い朝だ。職員玄関から出入りしているので普段は生徒に出くわすこともないし、職員室でも入室の際に一声かけるくらいだというのに。

 とはいえ、うら若き女子高生からの挨拶は、ごく普通の男としても教師としても素直に嬉しい。初島も何気なく挨拶を返そうと細めていた目を開け、

「おはよ――!?!?」

 女子生徒を凝視したまま石像のように固まった。

 体の表面積の大半を肌色が占め、性別の違いが如実に表れる部分を慎ましく隠すは、自己主張のなさが却って人目を引く白。そのすべてを網膜が認識した次の瞬間には、初島の理性は状況判断力もろとも吹き飛んでいた。裸眼のままの双眸が放つ視線は、女子生徒の背中から腰のあたりを無意識に放浪してしまう。

 どこからどう見ても半裸の女子生徒は、背後からのただならぬ視線に気づいたのか、3歩ほど歩いたところで立ち止まった。

 弾かれるように背を向ける初島。

 大あわてで眼鏡を装着するのと同時に、

「あ、あの……どうかしましたか?」

 と、訝しむような声が耳朶を打つ。

「え? いや、その――!」

 どんな言い訳をしたものやら……しどろもどろになりながら振り返った初島は、再び驚愕した。

 ここ数日ですっかり見慣れてしまった学園の制服に身を包み、女子生徒が不思議そうにこちらを見ていた。肌色と白が織り成していた劣情と狂乱のコラボレーションは、影も形もなくなっている。

 何が何だかさっぱりだが、今は会話を繋ぐことを最優先しなければならない。

「いやー、驚かせてごめん。ぬか床を冷蔵庫にしまい忘れてたのを急に思い出してね。今日みたいに暖かい日は漬かりが早い分、出しっぱなしだと酸っぱくなりやすいんだ」

「え? 先生、ぬか漬け作ってるんですか?」

「一人暮らしだからね。少しは野菜も摂らないと」

「あはっ、一家の主婦みたいですね。お住まいはこの近くなんですか?」

「そうだね、自転車で10分くらいかな。ここの先生たちの中では一番近いかも知れない」

「ほとんど目と鼻の先じゃないですか! それなら昼休みにでも一旦戻って、しまってきた方がいいですよ?」

「お、その手があったか。4限目の授業が終わったら、さっそく冷蔵庫にぶち込んで来るよ。悪いね、下らない話で足止めしちゃって」

「いえ、むしろ朝から面白い話が聞けてよかったなー、なんて……。実は私も家が学園の近くなんです。私たち案外ご近所同士かも知れませんね」

「へえー、君もこの近くなんだ? じゃあ、知らず知らずのうちに駅前の商店街で何度か顔を合わせてたかも」

「そうですね。また会った時はよろしくお願いします。それじゃ……」

 女子生徒は人懐こそうな笑みを浮かべると、軽く一礼して去って行った。

(面白い話、ねぇ)

 遠ざかる背中を見送りながら、初島は苦笑する。話の内容より、一人暮らしの男がせっせとぬか漬けを作っているというギャップの方に楽しさの比重が置かれているような気がしてならない。

 とはいえ、あれ以上疑いの目を向けられなかった自らの運命には感謝すべきだろう。もっとも、自家製のぬか漬けが冷蔵庫の奥深くに眠っているのは本当だし、塩崎にせがまれて持ってきたナスの一本漬けが保冷剤と共に鞄に入っていたりもするが。

(それにしても解せんな)

 初島は真顔に戻ると、歩きながら再び考え始めた。

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