第二章 教師たちのジレンマ #1
塩崎奈津は困惑と自己嫌悪に苛まれながら、やや遠慮がちに職員室の引き戸に手をかけた。
教師になって初めての欠勤を経験したのが昨日。しかし、翌日の朝がこんなにも気まずく後ろめたいものだとは……。ある程度覚悟はしていたが、現実とはえてして予想の斜め上を行くのが常らしい。じっとりと嫌な汗が、掌と背中に滲む。
「おはようございまーす」
特定の誰にともなく機械的な挨拶をして、さっと室内を見回す。早朝会議で席を外している教師を除いて、出勤しているのはまだ5~6人といったところか。塩崎はその中に目的の人物を見つけると、鞄も置かずに直行し声をかける。――演技でも建前でもなく、まさに神妙そのものといった仕草で。
「飯沼先生、昨日はお手数をおかけしました」
「おや、塩崎先生。具合の方はもう大丈夫ですか?」
飯沼と呼ばれた男は塩崎の声に顔を上げると、年に数回しか会えない孫娘に接するかのように相好を崩した。
やや白髪まじりの七三分けに銀縁の眼鏡、おそらく170センチにも満たないであろう小柄な体躯。いかにも定年間近といったオーラが漂っていて、本当に孫がいてもおかしくなさそうなのが哀しいところだ。
しかし、どうにもうだつの上がらない外見とは裏腹に、勤続30年を超えるキャリアはハリボテではないらしく、校長はじめ教職員や生徒からの信任も厚い。
塩崎もまた同じ英語教師として尊敬する相手なだけに、今回の失態には、ただただ恥じ入るばかりだった。
「はい。お陰様で何とか……本当にすみませんでした」
こんなことなら、多少無理をしてでも体調が落ち着いた時点で出て来るんだった。そんな後悔の念が頭の中で渦を巻く。
「いやいや、とんでもない。大事に至らなくて何よりです。そう言えば、初島先生もだいぶ心配されてましたよ。いつも一緒にいる塩崎先生がいないせいか、顔色もあまりよくありませんでしたし」
3年来の悪友にして、職務上のパートナーとも言える同僚の名前が唐突に出され、塩崎は一瞬表情を強張らせた。
「そうですか……分かりました。本人が来たら後で詳しく聞いておきます」
相槌とも独り言ともつかぬ言葉を返し、どうにか場を取り繕うと、
「ぜひ、そうしてあげてください。では、私は給湯室と職員玄関の掃除当番がありますので。失礼」
飯沼は「よっこらしょ」と立ち上がると、とても定年間近とは思えない軽やかな足取りで去ってしまった。手持ち無沙汰のまま、ぽつんと取り残される塩崎。飯沼に声をかけた当初の愛想笑いは跡形もなく消え失せていた。
「おかしいわ、どう考えても……」
昨日貧血を起こして倒れ伏した時よりも蒼白な面持ちで、静かに呟く。
たしかに初島は、女の自分から見ても神経が繊細なところがある。2人で飲みに行っても「生活のリズムが崩れるから」と徹夜を避けたり、漫画や小説の帯を捨てずに折り畳んで保管していたり、スポーツ中継よりも大河ドラマを好んで見ていたり。しかし、だからと言って塩崎がいなくなった程度で心身に不調をきたすような軟弱者ではないはずだし、頼りにされたことも教員採用の話を持ちかけた時以外は皆無に等しい。悲しいことに、こればかりは自信を持って断言できる。あるいは、昨日の自分と同様に奇妙な能力が初島にも発動していて――
(そんなバカげたことがあるわけないじゃない!)
塩崎は亡霊のごとく忽然と脳裏に浮かび上がった〝仮説〟を全力で否定した。こんな体たらくでは駄目だ! とばかりに、両手で頬を軽く叩く。
この1年間、周囲から「学生気分が抜けていない」と散々言われながら過ごしてきた。せめて表面上だけでも冷静にならなければ後輩の初島に(教師としては一応、だが)示しがつかないし、下手をすれば教え子からも笑われてしまう。
ふと、日々の激務ですっかりくたびれてしまった、去年の学級日誌が目に入った。当時は(と言っても、ほんの1年前だが)塩崎も新米教師ということで副担任のみの割り当てだったが、今年度から担任を務めるにあたり、参考資料として同クラス担任だった化学教師・乃木から譲り受けたものだ。
100円ショップで買ったブックエンドからそれを取り出し、気功師や超能力者が術をかけるように手をかざす。
――当然、日誌には何も起こらない。そもそも自分は超能力どころか手品もできないのだから〝当然〟と前置きすることすら逆に白々しいくらいだ。
(そうよ、自慢じゃないけど私は普通の人間なんだから!)
塩崎の苦渋に満ちた思案顔が、確信を得たような笑みに変わる。
と、次の瞬間。
何の動きも見せなかった日誌が、突如青白く発光し始めた。浮かび上がったりページがめくれたりといった日誌そのものの物理的な動きは依然としてないが、じっと目を凝らして見ていると、破れたりシワが寄って傷んだ部分が徐々に修復されていくのが分かる。
やがて、油性マジックで書かれた乃木と塩崎の名前も、表紙の水色に飲み込まれるようにうっすらと消えていき――新品同様の、折り目ひとつない日誌が残された。再び手をかざすと、今度は消えたはずの2人のサインが復活し、元あった破れやシワが忠実に復元されていく。
(やっぱり駄目か……)
対象物の時系列を自在に操れる奇妙な能力は、完全に体に染み着いてしまったらしい。これはつまるところ、自分がすでに『普通の人間ではない』ことの証明でもある。
しかし「どうして私が?」という感情は、不思議と湧いてこなかった。ほとんど確信とも言うべき心当たりがあるからなのだが――それを口に出すのは他の〝当事者〟が来てからで十分だ。確定事項か否かという形で心当たりに白黒つけるためには、むしろそうする他ない。
塩崎は力なく机に伏せると、当事者の1人にして、まだ来ぬ同僚の名を呟いた。
「史郎ちゃん、何してるのよ。早く来なきゃ駄目じゃない……。さもないとお仕置き確定よ?」
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