第一章 悪夢のち握手時々あくび #1
「それでは、全会一致につき――渡末準を学級副委員長より更迭する」
聞いているだけでも底冷えするような声が静かに響いた。
感情が嵐のように錯綜する頭の中とは裏腹に、顔ひとつ上げられないまま、鉛のように体が硬直する。ショックと言うより、ほとんど絶望に近い薄笑いが無意識に浮かび、
「冗談、だろ……?」
言葉になっているのかどうか、もはや判断もできない。操り人形さながらに頬が痙攣しているのが分かる。
準をここまで追い詰めているのは、今投げかけられた言葉だけではない。むしろ、その言葉を発した人物の方に大きな比重が置かれていた。
教室よりも都心のオフィス街の方が馴染みそうなライトグレーのスーツ、際立った存在感や威圧感こそないが人目を引く長身、つかみどころなく波打った黒髪。1年3組の副担任・初島史郎が、黒板を背に氷の彫像のごとく立ち尽くしていた。担任の塩崎奈津も固い表情のまま、無言で傍らに控えている。
「久坂さん、妹尾さん、何か異論は?」
初島と何やらアイコンタクトを交わした塩崎が口を開く。
数秒の沈黙の後、椅子を引く音と共に二三香が立ち上がった。
「代表して私たちの見解を発表します。単刀直入に言うと、渡末君はクラス委員の器ではありませんでした。自分の意見を述べるどころか、議題に沿った司会進行や問題提起すら人前でできないような体たらく。クラス委員として致命的です。今は〝クラス委員とその他大勢〟に分けることで何とかなりますが、果たしてそれが社会に出てからも通用するでしょうか? 私たちは、この決議に全面的に賛成します」
その瞬間、教室中が割れんばかりの拍手に包まれた。そこかしこで喝采が湧き起こり、
「これでうちのクラスも安泰だな」
「ええ。組織存続のためには、一般のメンバーより無駄な役員・管理職を切るのがセオリーだって初島先生も言ってたしね」
「俺たちも一応ひとつの組織だもんな」
「たかが学校内の一クラスと言えど例外じゃないってことよ」
「つーか、あいつは転校生だからって甘ったれすぎなんだよ!」
といった声まで漏れ聞こえてくる。
『四面楚歌』の四字熟語が、ふと脳裏をよぎった。
味方だったはずの陣営が敵方に回っただけでも精神的ショックは計り知れないのに、中立ですらなかった無関係層からも矛先を向けられては、もはや卒倒レベルだ。
現に、一人一人の声が徐々に聞き分けられなくなってきている。自己防衛機能による聴覚の麻痺か、はたまた数日前にも味わった貧血もどきの前兆か。しかし、不思議と不快感や不安は感じなかった。
いっそこのまま〝落ちて〟しまおうか。そう思えるくらいに、安心感すら覚えるほどの浮遊感が体を包み込む。
先日の貧血もどきの際にも浮遊感はあったが、感触としてはまったくの別物に感じられた。
強いて言うなら、今までは自由落下あるいは無限下降系の目眩だったのに対し、今回のそれは天空に向かって果てしなく上昇していくような、何とも晴れやかな気分だ。
――が、安息への旅路は、突然の激しい揺れによって無惨に寸断された。
(地震か?)
一瞬そう思った準だが、すぐに誰かに見えない手で肩を掴まれ揺すられているような感覚に気づく。その証拠として、肩だけが人肌と摩擦熱でやたらと温かい上に、誰ひとり「地震だ!」と騒ぎ立てる者がいない。しかも、揺すられるたびに教室内のざわめきが遠ざかり、視界も少しずつ暗転していく。
やがて入れ替わるようにして、聞き覚えのある――しかし教室内には姿が見えなかった人物の声が耳朶を打ち始めた。その声は加速度的に大きくなり、はっきりとした輪郭を伴って伝わってくる。
何かに駆り立てられるように、準の名前を必死に呼び続けているのは――
(…………ルイ……?)
いつの間に閉じてしまったのか、反射的に瞼が開かれ、準は「う」と小さく呻いた。
「大丈夫ですか? 派手にうなされてたようですが……」
無圧縮・無調整のステレオ音声を耳元で再生されたかのような鮮明さを伴い、ルイの声が耳に滑り込んできた。
「……ああ、何とか」
自ら声を発することで体にかかる負担を確認するように、準は短く答える。
つい先ほどまで目の前で繰り広げられていた委員更迭劇は、どうやら夢だったようだ。
懸念していた頭痛がすっかり治まった代わりに、声を出すのも一苦労なほど喉が乾いていた。枕元に置きっぱなしで、すっかりぬるくなってしまったペットボトルのミネラルウォーターを左手で引っ掴み、キャップを開けるべく布団から右手を出す。
「あ。今湯呑みに移しますから、少々お待ちを……」
ルイは半ば強引にボトルを奪い取るなり、ぺたぺたとコミカルな足音を立ててキッチンへ消えたかと思うと、程なくして湯呑みを片手に戻ってきた。
薄いピンクのパーカーにデニム生地の短パンという服装を除けば、その挙動は座敷わらしそのものと言って差し支えあるまい。
「ごめん。落ちる間際、無意識にルイの名前を呼んじまってたみたいだ。ずっとこんなとこにいて退屈だったろ」
「本当にびっくりしましたよ。呼ばれたかと思いきや、準さんが携帯を握りしめて気を失ってるんですもの。私も若干熱っぽかったので、すぐに準さんの風邪のフィードバックが原因だと分かりましたけど。――背中、支えましょうか?」
「サンキュー」
ゆっくりと体を起こし、差し出された湯呑みを一気にあおる。案の定、完全に室温に馴染んでしまっていたが、喉と頭を同時に覚醒させるには十分な効果をもたらしてくれた。部屋の中が闇に沈まない程度に薄暗いのもありがたい。
「もう何時になるんだ?」
「えっと……5時半を少し過ぎたところです」
「やれやれ、半日寝ちまったか……晩飯どうしようかな」
「まだ無理しない方がいいですよ。それに、5時半と言っても明け方ですし」
「な、何だって――!?」
準はルイの言葉が信じられないとばかりに、開いたまま枕の下敷きになりかけていた携帯を手に取った。
たしかに欠席する旨を初島に伝えた時の頭痛は嘘のように治まり、体を起こせるまでに回復している。が、だからと言って丸一日眠り続けたことなど過去の記憶を総ざらいする限りでは、ただの1度もない。ルイの得意な冗談だと考えるのが妥当な線だ。
『PWR』と略語表記された電源ボタンを押し、ディスプレイを復帰させる。
眠っている間に受信していたメール2件(後で確認すると未波と二三香からだった)をひとまず無視して画面右上に視線を移し――
4月12日(火) 05時34分
――石化した。
準の携帯の時計は24時間表示だ。推測どおり夕方であれば『17時34分』と表示されているべきで……さらに、完全に変わってしまっている日付が、無言の圧力でもってルイの言葉が真実であることを告げていた。