第四章 監視員、現る #4
来週の授業の段取りを考えながら、初島史郎はぬるくなった緑茶の入った湯呑みを片手に黄昏れていた。
午後6時。
世間一般のサラリーマンにとっては、いわゆる『残業』と呼ばれる時間帯に突入するタイミングだ。
終わりがある程度見えている状態ならラストスパートに踏み切る頃合いでもあり、まして今日は花の金曜日。自然と浮かれ気分になる。
しかし、である。世の勤め人全員が、そのように気楽な人生を歩めているわけでは決してなく。
初島も会社勤めをしていた頃は、毎日ではないにせよ机に山積みになった原稿の校正と電話応対に追われ、このような風情に浸る余裕など皆無に等しかった。なまじ景気が良かっただけに、特に締切前の水曜・木曜はどうしても基本労働時間より残業時間の方が長くなる。労働基準監督署から営業所に改善命令が入ったことも1度や2度ではない。
それにしても――。
こうして夕焼けを眺めるのは何年ぶりだろうか?
たかが夕焼けごときに懐かしさを覚えるほどロマンチストではないが、サラリーマン時代との決定的な違いに、自然とため息が漏れてしまう。
「お疲れみたいね。まあ何もかも初めて尽くしじゃ無理もないか」
向かいの席で日直の生徒から提出された学級日誌に目を通していた塩崎が、半分独り言のように声をかけてきた。
「……聞こえてたのか」
「ばっちり聞こえたわよ。1年の担任は私たちしか残ってないし、2年と3年の担任は職員会議だし」
「職員会議だって?」
ゆっくりと椅子から立ち上がり、職員室を見渡す。塩崎の言うとおり、2人の他にはクラスを受け持っていない非常勤講師とカウンセラーがいるだけだった。席が離れている上に、デスクトップPCのディスプレイが防音壁の役割を果たしてくれているせいか、2人とも初島たちの会話に気付いていない様子だ。
「そうよ。2年の先生はゴールデンウィーク明けの修学旅行、3年の先生は進路希望調査と三者面談について話し合ってるみたい」
「修学旅行か……。中学の時はそうでもなかったけど、高校の時は楽しかったな」
「他人事みたいに言ってるけど、私たちも2年のクラスを受け持ったら引率する側になるのよ? それに、1年だって修学旅行とまでは言わないにしても、夏休みに林間学校があるし」
「そう言えば行事予定表に書いてあったな。うちは4組と合同で8月21日から3泊4日だったっけ。7月中にやればいいものを、どうしてお盆明けにやるんだ? みんな宿題の追い込みで忙しいだろうに、嫌がらせとしか思えんぞ?」
「分かってないなあ、史郎ちゃんは」
塩崎は「やれやれ」とばかりに肩をすくめた。
「8月の、しかも20日過ぎともなると、夏休みに入って丸1ヶ月よ? 宿題だって、できる所はやり尽くして煮詰まっちゃってる時期なの。そんな迷える子羊たちへの救済措置なのに、嫌がらせだなんて心外だわ」
「……本気で言ってるとしたら正気の沙汰じゃないな」
「あっそ。じゃあ週明けにでも教頭に伝えとくわ」
「ちょ、ちょっと待てよ。俺はてっきり奈津の個人的な意見だとばかり……」
「ふふ、冗談よ。私も最初は史郎ちゃんと同じ考えだったわ。でも、これには教頭なりの思惑があったみたいなのよ」
「他にも何か言ってたのか?」
「うん。ちょっと想像してみて? たとえば夏休みの残りが1週間しかなくて、自由研究だけが手付かずで終わってないとしたら、史郎ちゃんはどうする?」
「そうだな……。高校の頃の俺なら、まず友達に相談してただろうな」
「でしょ? でも、中には友達がいない子だっている。そこで一旦全員を集めて、終わってない課題ごとに振り分けた後、共同作業で進めさせるって寸法よ。これなら自然な成り行きで友達ができるし、体育祭とか合唱コンクールみたいなゴリ押しじゃない方法でチームワークを発揮させる訓練にもなる。一石二鳥だと思わない?」
「なるほど、よく考えたな……。たしかに、高校生にもなって夏休みの宿題に親が介入してくるのも考え物だしな」
子供の独断で手を抜いたり、さぼったりするならマシな方だ。いつだったか「『子供に出す課題が多すぎる!』と学校に怒鳴り込んだ親がいる。しかも、その子供というのが、20歳にもなろうかという大学生だった」という話を聞いて辟易としたのを思い出す。
「でもね、肝心なのはここからなの」
「まだ何かあるのか?」
「実はこれ、教師のちょっとしたウォーミングアップも兼ねてるのよ」
「俺たちも何か手伝わされるのか?」
「まさか。私たちはあくまでも引率だけよ」
「それじゃ何がウォーミングアップなんだ?」
何もしないとなると、ただの貧乏旅行だ。もっとも、教師が生徒の宿題を手伝っては本末転倒なのだが、それでは引率以外の目的が見い出せない。
「史郎ちゃんも経験あると思うけど、お盆休みとか年末年始休暇の最終日って何となく憂鬱になるでしょ? 出てきたら出てきたで、体も心もなまってるから普段よりしんどく感じるし。それを少しでも和らげるために、教師たちも1度学校以外の場所で顔を合わせることで徐々に体を慣らして行こうってわけ」
「杓子定規で頭の固そうなおっさんだと思ってたけど、教頭もなかなかやるな」
「そうでなきゃ、ここまでのマンモス校になんかならないわよ」
言われてみればそうだ。3学年合わせた生徒数は秋津学園だけで1000人を越えているし、教職員も非常勤や図書館司書などを含めると50人くらいになる。
これもひとえに多大なる支持があってこそのものだろう。
「それにしても不思議よね。これだけの人間が毎日動き回ってるのに、あんな人気のない一角ができるなんて」
人気のない一角。
その言葉が具体的にどこを指しているのか、初島は瞬時に理解した。うっすらと忘れかけていた、2日前の記憶が蘇る。
「変なこと思い出させるなよ。雑用で部室棟の前を通るだけでも気が滅入りそうだってのに」
「思い出しついでに言わせてもらうけど、あの場所、学園ができる前は本物の神社があったそうよ」
「……調べたのか?」
「図書館で地元史を当たれば何か分かるんじゃないかと思ってね。ドンピシャだったわ」
「それにしても、よく見つけたな。結構昔からあった神社なのか?」
「そう思うでしょ? でも意外に歴史は浅いのよね。建立されたのは明治3年の暮れ、初代神主の名は武者小路俊蘭」
「ご丁寧に神主までいたのか。それなのに荒れ放題になってるのは、やっぱり神主一族の血統が途絶えたから……?」
「その可能性は高いわね。実際、戦時中の空襲で神社が焼けてから神主一族は忽然と姿を消してちゃってるし。この時は武者小路俊山って人の代だったらしいんだけど、とうとう再建されずじまいだったそうよ」
「神社もろとも焼け死んだんじゃないのか? もっとも、そうじゃなくて戦後も生き延びてたとしたら罰当たりな話だが」
「その線は薄いわね。こういう話は史郎ちゃんの方が詳しいと思うけど、本土空襲に使われたのは単に家屋を焼き払うだけの焼夷弾でしょ? このあたり一帯を核ミサイルで吹き飛ばされたとかならまだしも、そう簡単に焼け死んだりすると思う? 仮に死んだとしても焼死体くらいは見つかるはずよ」
たしかに塩崎の説の方が可能性としては濃厚だと初島は思った。
映画やアニメでしか見たことはないが、爆撃機が本土上空に接近すれば大抵の場合、空襲警報が発令される。まして、当時はどこの家庭でも防空壕のひとつやふたつは掘っていただろうし、防空演習も3度の飯と同じくらい生活に浸透していたはずだ。そう簡単に逃げ遅れるとは考えにくい。
「……いや、待てよ? 違う死に方をした可能性も考えられるな」
「どういうこと?」
「空襲で焼け死んだ人はたしかに多かった。しかし、病気や飢えで死んだ人も同じくらいいたと何かで読んだことがあるんだ。仮に防空壕に避難したまま一族全員が死んでしまったとすれば……」
「遺体は地中に埋まってて誰にも見つからない……ってこと?」
「ああ。もっとも、今となっては調べようがないけどな」
「学園の敷地を掘り返すわけにも行かないものね」
「そういうことだ。とにかく、これ以上何も起こらなければ」
「それに越したことはない! でしょ?」
塩崎はイタズラっぽい笑みを浮かべながら、初島の台詞に先回りする。
「……ご名答。俺はこのあたりの出身じゃないから詳しいことは分からんが、不用意に首を突っ込まない方が良さそうな気がする」
「でも、歴史的な興味とか湧いてこない? 史学科出身として」
「さあな。若い頃ならいざ知らず、今はそんな気力も体力もないよ。だから俺は基本的に手を出さん」
「えー? そんなのつまんなーい」
「ただでさえ慣れない仕事に四苦八苦してるのに、新しい研究材料なんか抱え込んでられるか! もっとも、鳥居絡みで何かあれば嫌でも調べることになるだろうけどな。あの場に居合わせてた以上、ある意味5人とも運命共同体なわけだし、俺だって自分だけ知らん顔を決め込むほど薄情者じゃない」
初島はすっかり冷めてしまった緑茶を一気に飲み干すと、再び机に向かった。