第四章 監視員、現る #1
喫茶店、そして未波の家。
学校帰りに2ヶ所も寄り道したにも関わらず、太陽は完全に沈みきっていなかった。
考えてみれば、それぞれの滞在時間が30分前後、しかも移動時間は二三香の能力で0に抑えているので、学校を出てから1時間くらいしか経っていない計算になる。
それでも正確な時間を一旦把握しておこうと、準はポケットから携帯を取り出してディスプレイを開いた。
5時40分。帰宅するにはまだ早い。
食材を買い揃えて食事の支度に取りかかるという選択肢もある。しかし、渡末家の夕食は基本的に7時から7時半の間にスタートするという伝統があった。1人になった今、律儀にそれを守り続ける必要がないことは準も承知している。長らく親しんできた生活のリズムに手を加えるのが単に面倒なだけだった。
「さて……」
改めて秋津駅前の商店街を見回す。いつもどおりの風景だ。たった1ヶ所――と言うより、当事者たる準にしか分からない唯一の例外を除いて。
準はその例外――隣にぴったりと付き従うセーラー服の少女・ルイに話しかける。
「今日は何だか疲れたな」
「すみません。色々と私のわがままに付き合わせてしまって……」
「ごめん、言葉が悪かったな。別にルイを責めてるわけじゃないんだ。内心はしゃぎすぎて、それが態度に出ないように必死に抑えて……。普通のバカ騒ぎの倍疲れたような感じだよ」
最初から最後まで文字どおりハイテンションだったわけではない。しかし、ほんの数時間の間に精神状態がここまで激しく、なおかつ繰り返し上下したのは、準自身が思い当たる限り今日が初めてだった。
「ふふ、見かけによらず感受性豊かなんですね」
「これ以上俺をからかっても何も出ないぞ」
「そんなんじゃ駄目ですよ、まだ若いのに。そうだ、亜鉛とたんぱく質を多めに摂取しましょう! きっと昔のように、本能の赴くまま出しまくれるようになりますよ」
「ルイ……また何かロクでもないこと考えてるだろ」
亜鉛やたんぱく質で出が良くなるのは別の何かだ。あの手のサプリメントをコンビニで買い漁るほど枯れちゃいないはずだし、量さえ多ければいいというものでもないだろう。その証拠に、日本の少子高齢化は年々進む一方ではないか。
「冗談はさておき、これからどうする? 部屋に戻っても特にやることないし。どこか行ってみたい所があれば付き合うぞ」
「本当ですかっ?」
常人離れした握力で準の肩を鷲掴みにするルイ。その目は爛々と輝き、心なしか血走っている。
「どこでもいいんですね?」
「あ、ああ……」
無駄に鬼気迫る表情に圧され、ロボットのようにカクカクと首を縦に振る。
(いや、ちょっと待てよ?)
どこでもいいのか、とルイは念押しするように聞いてきた。別にルイは耳が遠いわけではない……はずだ。
では、どういう時に改めて聞き返したりするのか。
穿った見方をすれば、常識的に考えて無理難題とされる要望を通すチャンスを得た時、相手の意志を再確認するために使うことが多い。初めに言質を取っておけば、そうやすやすと拒否権を発動される心配もない。となると――
準はおそるおそる顔を上げ、ルイを盗み見る。
彼女は顔をほんのり上気させながら、ぶつぶつと何か呟いていた。
……とてつもなくイヤな予感がした。準はなけなしの勇気を振り絞って耳を澄ます。
「……準さんと憧れの制服デート……女は黙ってホテルにゴー、そしてベッドイン……まだ夜には早いし、見た目も18歳未満だけど、私は合法ロリだから大丈夫だ問題ない……問題ない…………うへへへへへへへへ」
想像を絶するルイの変態妄想に、準は本気で引いた。同時に、たった今振り絞ったばかりの勇気が後悔へと姿を変える。
ルイの瞳は噴出したアドレナリンが欲望の渦を巻き、焦点と正気と理性をいっぺんに失っていた。
しかも、あろうことか呟きの途中から涎を垂らし始める始末。その涎には、どれほどの煩悩が溶け込んでいるのだろう? ふとそんなことを考えてしまう自分にもドン引きだ。
ともあれ、これ以上放置しておくのは得策ではない。
肩を揺すってみようと、小刻みに震える手を伸ばす。
「らっ、らめええぇぇぇぇぇぇっっ!!」
「ふおっ!?」
ルイの突然の絶叫に、準は驚いて手を引いた。ついでに間抜けな声が漏れる。
そして、準は感じた。
自分に向けられる、いくつもの冷たい視線。
無理もない。手を伸ばしたまま固まっている準、その手の先で頬を紅潮させながら絶叫するセーラー服の少女。どこからどう見ても痴漢の現行犯だ。
その瞬間、準の恐怖中枢に繋がる何かがプツリと切れた。
「ルイ、行くぞ!」
「えっ? あ、ちょっと!」
強引にルイの手首を掴んで走り出す。傍から見れば、もはや痴漢を通り越して誘拐犯レベルの所行だ。しかし、あのようなシチュエーションを1度作り出してしまった以上、その場に留まったところで事態は悪化こそすれ好転するとは思えない。
「話は後だ!」
ひたすら前だけを見て怒鳴る準。ルイも負けじと叫ぶ。
「何だかよく分かりませんけど、私は準さんについて行きます!」
隣の芝生は青い、とはよく言ったもので、二三香の瞬間移動能力が死ぬほど羨ましく思えてくる準だった。
* * *
「すみません。ご迷惑をおかけして……」
駅前での一部始終を準から聞かされたルイは、真っ赤だった顔を今度は真っ青にして俯いた。
準としては一時的にルイを格納してしまう手もあったのだが、それを思い付いたのは苦肉の策で選んだ避難場所――学園に着いてからだった。
「追っ手が来ないから大丈夫だとは思うけど……。それにしても、いったい何を考えてたんだ?」
「そ、それは……乙女の秘密ですっ!」
「答えたくないなら無理に答えなくてもいい。とりあえず、さっき呟いてた内容を聞く限り、ロクでもないことを想像してるのだけは理解できた」
「……今……何と……?」
「ばっちり聞かせてもらったと言っとるんだ! あれだけ18禁スレスレなことを想像しといて『乙女の秘密』が聞いて呆れるよ。ルイはあれか? 20歳を過ぎても自分のことを『○○系女子』とか平気で言っちまうタイプか?」
「しっ、失礼な! そこまで厚顔無恥じゃありませんよ」
「いずれにせよ、人通りの多い駅前であんなことを呟いてたら、少なくとも職務質問は確実だぞ。身分証明書の提示とか求められたらどうするつもりだ?」
「むー…………」
「まあ反省してるなら、俺もこれ以上うるさいことは言わないよ。それで、行きたい場所は決まったのか? あ、駅前は駄目だぞ。さっきのほとぼりが冷めてるかどうか、まだ分からないからな」
「そうですねー……。2人とも制服ですし、せっかくなので校内を少し歩きませんか?」
制服と言ってもルイが身に付けているのは他校の、しかも中学校のものではないか。準は反射的にツッコもうとして「待てよ?」と思いとどまった。
まだ灯りが漏れている体育館と職員室、そしてグラウンドの時計台へと視線を移す。
あと数分で6時になろうとしていた。
幸い部室棟は全室照明が落ちているし、美術室や音楽室などの特殊教室が集まっている区画も真っ暗だ。『人目を避けながら』という条件付きになるが、これなら2人で歩いていても誰かに見つからずに済むかも知れない。
「そうするか」
準はふたつ返事で告げる。
「やった! 第1段階クリア!」
「第1段階?」
唐突に飛び出した意図不明の単語に、準は眉を顰めた。
「制服デートです!」
言うが早いか、ルイは準の右腕にしがみつく。
制服デート。
準にとっても、中学時代から密かに憧れていたイベントのひとつだ。
微妙に幼い雰囲気が残る少女が相手とはいえ、それが予期せず叶おうとしている。少々照れくさいが、嬉しくないと言えばこれ以上の嘘はない。箇条書きのように個々に切り離して考えれば、ゴールまでの最短ルートが突然目の前に現れたようなものだ。
しかし、素直に喜ぶにはまだ早い。
その直前にルイから発せられた『第1段階』という言葉が、どうにも引っかかる。まるで、制服デートは通過点に過ぎず、さらに第2第3の目標があるとでも言わんばかりではないか。
準は湧き上がるイヤな予感を抑えながらルイに尋ねる。
「えーっと……第1段階ってことは、第2段階以降もあると考えていいのかな?」
「大当たりです。ちなみに第2段階ではホテルで一夜を共にして、第3段階では準さんのご両親――にんじんばりばりぱらだいすっ!?」
両親という単語が出た瞬間、準はルイの手首を取って軽く捻った。たまらず話の途中で絶叫するルイ。
「お仕置きが必要みたいだな?」
「い、痛いっ! 準さん、痛いです! 裂けちゃいますぅぅぅ!!」
隙あらば下ネタ・エロネタを差し挟んでくる徹底ぶりには、怒りを通り越して微笑ましさすら感じる。
が、このような言動を家族の前でされてはたまったものではない。両者の間に立つ準が気まずい思いをすることになるし、まして半同棲状態であることを口外するなど言語道断だ。
ここは心を鬼にして、ルイにも分かってもらう必要がある。
「俺は別にエロ禁止とか野暮なことを言うつもりはない。口に出すことも、この際だから目を瞑ろう。でもそれは俺とルイの間で完結する場合に限っての話だ。万が一ルイの存在が親に知れたら、俺はここにいられなくなるかも知れない。それだけはくれぐれも忘れないでくれよ?」
「分かりました、分かりましたからっ! 手を放してください!」
涙目で懇願するルイ。
準とて今回ばかりは自分の主張を譲歩する気はさらさらない。が、やはり女の子(しかも年下)を傷めつけるのは良心が痛んだ。
「分かればよし」
精一杯の威厳を装って手を放す。と、次の瞬間。
準は脇腹に強い衝撃を感じた。
ルイの手元から日没間近の空、そして地面へと流れるように、しかし猛烈なスピードを伴って視界がシフトする。
そして再び強い衝撃が襲った。しかも今度は脇腹ではなく体全体に。
時間にしてコンマ数秒ほどの出来事だが――遅れて機能し始めた痛覚が、何者かに強い力で吹っ飛ばされ、地面に叩き付けられたことを教えてくれた。
「女性を一方的に痛めつけるとは感心できないな」
聞き覚えのない声が耳朶を打つ。しかし、その言葉は明らかに準に向けて発せられたものだと分かった。
「あなたこそ、いきなり何するんですか!」
ルイの戸惑いと怒気の篭もった声が続いて耳に入ってきた。
「何なんだ、いったい……?」
体を起こし、準はようやく立ち上がる。体全体が軋むような悲鳴を上げ、痛みを訴えかけてくる。
顔に付いた土を払いのけて目を開けると、秋津学園の制服を着た見知らぬ男女2人組の姿が視界に映った。
さっきのキザったらしい台詞から察するに、自分を吹っ飛ばしたのは男の方だろう。そう目星を付け、準は両方を睨みながらも一応の弁解を試みる。
「それは誤解だ! 今のはこいつが……」
「理由はどうあれ、君はそこの女性に暴力行為を働いた。違うかね?」
「それは……」
準は思わず言いよどむ。
と、そこに。
「私を助けようというお心遣いには感謝します。しかし、無実の人を不意打ちした上に弁解も完全無視とは、少々乱暴が過ぎると思いませんか? 謝ってください」
ルイの淡々とした口調が重なった。
準を傷つけられたことに対する怒りが心の奥底で煮えたぎっているのだろう、声のトーンも自然と低くなる。
「謝る? あなたに、何を……?」
男はわざとらしく首をかしげ、ルイに尋ねる。
「私にではありません。この方に謝れと言っているんです」
さらに低い声で告げる。
しかし、男は挑戦的な姿勢を崩さない。
「これはまた面白いご冗談を」
涼しい顔で肩をすくめる態度に、準の怒りは一気に頂点へと近づいた。
「いったい何のつもりなんだ、あんたは。ナンパだったら他を当たれよ」
漫画によくあるパターンだ。冴えない男と歩いている女を見つけるや否や、あらぬ因縁を吹っかけ力ずくで奪い取る。
キザっぽい言動でキメているが『女=腕力面で勝る男に惹かれるもの』と信じて疑わない、いわゆる猪突猛進タイプなのだろう。
少なくとも、部外者を校内に連れ込んだことを咎めに来た生徒会や風紀委員の類でないことは分かった。
しかし、一緒にいる女の存在が妙に引っかかる。
表面上とはいえ紳士的な態度を崩さない人間が、同行している女の前で――たとえ恋仲ではないにせよ、何の臆面もなくナンパなどに走ったりするだろうか?
それに、これだけの騒ぎを目の当たりにしながら身じろぎひとつしない女の方も不気味だ。やや赤みがかったツインテールを風に預け、事態を見守るでもなく無表情のまま黙り込んでいる。
とにかくまともな連中ではなさそうだ、と準は直感的に思った。
「ルイ、もういい。お前らも俺たちに絡んだところで何の得にもならんぞ?」
スルーしておくのが得策と判断し、準はルイの手を引く。
それでなくても、ずっと1ヶ所に留まっていては、さらに他の誰かに見つかってしまうおそれがある。
自分のプライドのために1発殴り返してやりたい衝動にも駆られたが、準はぐっとこらえた。いたずらに暴力沙汰に発展させて停学を食らうようなことになっては本末転倒だ。
「言うに事欠いて『俺たち』と来たか」
ため息混じりにキザ男は目を閉じる。
「一介の学生風情が守り神様と同列を名乗るとは片腹痛い」
「!!」
準は耳は疑った。
このキザ男は今、たしかに『守り神』という単語を口にした。
(こいつ……ルイの正体を知ってるのか?)
背中に冷たい汗が滲む。しかし、ここで動揺しては向こうの思うツボだ。
次に取るべき行動のヒントを見出すべく、準はそっとルイの顔を盗み見る。彼女もまた驚愕に目を見開いたまま固まっていたが、何か思い直したように口を開いた。
「私は『マモリガミ』なんて変な名前ではありません。失礼ですが、人違いでは?」
いいぞ、と準は心の中で拍手を送った。適当に誤魔化して逃げ切れるのなら、それに越したことはない。
男の返答を待つ準とルイ。
と、今までギャラリーに徹していた女が、男の耳元で何やら話し始めた。
こいつらが話し込んでいるうちに今度こそルイを格納してしまおうか。そんな考えが頭をよぎる。
しかし、それでは準やルイが『普通の人間ではないこと』を大々的にアピールすることになってしまう。言い逃れはますます難しくなるだろう。
「いったいどうなってるんだ……」
「分かりません。ただ、ひとつだけ確実に言えるのは、向こうは私の正体を完全に見抜いている、ということです。もっとも彼らが何者なのか、私には皆目見当も付きませんが」
「今のうちに逃げるか」
「おそらく無駄でしょう。あの男ですが、さっき準さんを横から吹っ飛ばした時、3メートル以上離れた場所にいました」
「え? 俺は殴られたんじゃなかったのか!?」
とりたてて格闘技に詳しいわけではないが、あの脇腹を抉られるような感触は間違いなくボディーブローのそれだった。しかも、痩せ型とはいえ50キロを超える準の体を石ころ同然に弾き飛ばしたのだ。手足を使った打撃でないとすれば、いったい何だったと言うのか。
「直接手を触れることなく対象物を吹っ飛ばしたり、場合によっては破壊する……おそらく気功波か何かの使い手と見て間違いありません。向こうの射程距離にもよりますが、気功波同士で相殺できるような超人でもない限り、完璧に防ぐのは不可能でしょうね。単に避けるだけでも、物理的に実行可能なのは二三香さんくらいです」
「そんな……」
ルイの話を聞く限り、キザ男の打ち出す気功波は移動速度も桁違いスピードを持っているに違いない。
気功波の軌道やキザ男の動きを目視しながら、適切な瞬間移動先を探す。体力と集中力の切れ目が勝負の分かれ目と言ってもいい、あまりにも分の悪い勝負だ。